神の力は強大で、世界に干渉すれば崩壊してしまう恐れがある。故に、神とは手の届かぬ場所で生命を見守る存在だ。そんな神に代わって世界に干渉し、調和を保つのが天人族の使命である。
天人族は純白の髪に澄み渡る空のような瞳をしているのが特徴だ。
その中でも背中にある大きな純白の両翼が天人族の象徴であり、誇りでもある。
両翼が歪な奇形で、大空を飛ぶことも叶わず、体内に秘めた神力もほぼ無いに等しい状態で産まれてきたレナトゥーレは、両親から冷遇されて育った。
食事を貰えないのは当たり前、人目につかない部屋に閉じ込められ、ストレスの溜まった両親や弟の発散道具。
冬の寒い日には冷水を浴びせられ放置されるなんて事も日常だった。
そんな日々が終わりを迎えたのは、レナトゥーレが八歳の誕生日を迎えた次の日。
秘匿されていたレナトゥーレのことをどこかから知った伯父が、レナトゥーレを救い養子として迎え入れてくれた。
喋ることもせず、虚ろな目で無表情なレナトゥーレを見た伯父ラシュドローザは、とても苦しそうな、悲しげな顔で、レナトゥーレを優しく、力強く抱きしめた。
“今まで気付くことができず、本当にすまない”、と何度も謝られたが、レナトゥーレは何も返さなかった。
養子に迎えられたレナトゥーレを待っていたのは、ラシュドローザの愛する妻ニディエラと、一人息子のセイロスだ。
二人は笑顔でレナトゥーレを迎え入れたが、レナトゥーレは二人に会うなり地面へと伏せて頭を下げた。
さも当然のように完全無防備な状態で降伏を示すレナトゥーレに、妻であるニディエラは深い悲しみと怒りを覚えた。
翼が弱点でもある天人族が、翼の付け根を見せて伏せる姿勢は、本来神に対してしか行ってはいけない行為でもある。
それは相手への絶対的信頼と服従を示すものだからだ。
それをレナトゥーレは当たり前のように、神でもない天人族へとして見せた。
握り締めた拳が震え、息が詰まるほどの怒りをニディエラは感じたのだ。
二人の息子であるセイロスもまた、色々と感じるものがあった。
感情を削ぎ落としたかのような無表情と、見えているのに何も見ていない虚ろな目。
骨が浮き出てハッキリ見えるほど痩せ細った体に、数々の暴行の痕。
レナトゥーレが生家で冷遇されており、養子として迎える話はセイロスにも聞かされていた話ではある。
けれど、どんな仕打ちを受けて来たのかは聞かされていなかった。
ずっと弟の欲しかったセイロスは、純粋に弟ができるという事実を受止め喜んだ。
そしてやってきた二歳年下のレナトゥーレは、想像とかけ離れた姿でセイロス大いに戸惑った。
それでもずっと欲しかった弟ができて、セイロスはとても嬉しく、レナトゥーレを笑顔にしてあげたいと思った。
それからの生活はとても大変だった。
まず今までの生活で習慣となったことが抜けず、本来であれば普通に得られた生活を知らないレナトゥーレに、セイロスを育てた時のように接することが極めて困難だった。
お風呂のお湯はたとえぬるま湯だったとしてもレナトゥーレの肌は火傷し、食事に関しても同様で、具のないスープですら初めは少量しか飲めず、冷たくないと吐き戻してしまっていた。
また、レナトゥーレには痛みを感じたときや、怪我をしたときに誰かへと伝えるということがなかったために、怪我をしても誰も気付かないことが常で、また、レナトゥーレ本人も怪我をすることが日常であったために、痛みに慣れてしまっていた。
他にも部屋を与え柔らかい寝具の上で寝るようにと伝えても、いつも起こしに行くと寝具の上にレナトゥーレの姿がなく、バルコニーで毛布もかけずに蹲っていたりする。
眠ることがほとんどないレナトゥーレを、誰もが心配した。
八歳の子供であれば当然のように知っていることを何も知らないのは当たり前で、試行錯誤の毎日だった。
セイロスは片時もレナトゥーレのそばを離れず、何も知らない赤子に教えるように、目に付いたもの全てを手に取り触らせ教えた。
子供らしく遊び回る方法も、少し悪いことをする方法も教えたりした。
イタズラして見つかればレナトゥーレの手を引いて逃げ、隠れ、見つかって叱られる。
罰として遊ぶことを禁じられて、一緒に一日中本を読んで過ごしたこともある。
たくさんの子供向けの本をセイロスがレナトゥーレへと読み聞かせたりする。
笑って、泣いて、怒って、セイロスはとても表情が豊かな子供だった。
セイロスがレナトゥーレを離したがらなかったこともあって、レナトゥーレはセイロスと部屋を共有しており、眠るときもセイロスに抱きしめられて寝具で眠る。
初めは体を固くして眠ることがほとんどなかったレナトゥーレだが、次第に少しづつ眠れるようになっていった。
レナトゥーレが初めて言葉を話したのは、引き取られてから四年後、十二歳になってからだ。
最初に話した言葉は、セイロスが何をするにも口にしていた「にいさま」という言葉だった。
「兄様と一緒に絵本を読もう」
「兄様と一緒に寝よう」
「兄様と一緒にお風呂に入ろう」
「兄様と一緒に遊ぼう」
「兄様と一緒にお勉強をしよう」
弟に憧れていたセイロスはレナトゥーレに兄様と呼んで欲しくて仕方がなかったのだ。
レナトゥーレが舌っ足らずな口調でセイロスを「にいさま」、と呼んだとき、セイロスは信じられない思いでレナトゥーレを見つめた。
もう一度、今度はセイロスの目を見て「にいさま」と言ったレナトゥーレに、セイロスは溢れんばかりの喜びを全面に、涙を流しながら笑った。
そのときの笑顔は、レナトゥーレの目に焼き付いた。
ただ自分が彼の名前を呼んだだけで、それほどまでに嬉しそうに笑うなんて思わなかった。
庭の芝生の上で転げ回っていた夏の日、太陽が眩しく木の影で休んでいた。
葉の隙間から零れ落ちる光は優しく二人を包む。
ただでさえ透き通って美しい瞳が涙で潤み、頬を伝う雫がキラリと光る。
眉と目尻をこれでもかというほど下げられて、心の底から幸せそうに微笑み噛み締めるセイロスの笑顔は一瞬しか見られなかった。
喜びの激情に耐えられず、苦しいほどにレナトゥーレを抱きしめたセイロス。
そのとき、ずっと灰色に見えていたレナトゥーレの世界は、色鮮やかなものへと変わった。
セイロスは兄様と呼ばれたことをこれでもかというほど自慢して周り、それを羨んだ養母ニディエラをレナトゥーレが「おかあさま」と呼べば、セイロス同様に泣いて喜ばれ、仕事から帰ってきた養父ラシュドローザを「おとうさま」と呼べば、高く高く持ち上げられぐるぐると回された。
声を上げて笑いながら泣いている養父の顔は喜びで満ちていて、レナトゥーレもこのとき初めて笑ったのだ。
僅かに口の端を持ち上げただけの笑い方だったのに、レナトゥーレを引き取ってくれた家族はみんな、レナトゥーレが笑ったのだと気付いてくれた。
その日からしばらくずっと、家の中はお祭り騒ぎだった。
レナトゥーレが誰かを呼ぶ度に満面の笑みを浮かべられ、これでもかというほど頭を撫でられ抱きしめられる。
嬉しさのあまり我慢できないとでもいうかのように。
豪華な食事が振る舞われ、プレゼントの山が積まれる日々。
自分が少し何かをしただけで、これほどまでに喜んでくれるのだと、レナトゥーレはそのときに理解した。
今までの生い立ちから、レナトゥーレは自主的に何かをするということを一切したなかった。
だが、このときからレナトゥーレは積極的に自分から色々なことに取り組んだ。
自分が何かをすればみんなが喜んでくれるのだと、溺れんばかりに愛情を注いでくれた家族に、レナトゥーレも愛情を返したいと努力した。
よく笑い、よく喋り、よく食べて、遊んで、たくさんのことを学んで、よく眠る。
それだけのことで、彼らは幸せそうに笑うのだ。
レナトゥーレもまた、喜びや幸せという感情を実感していた。
何年も過ぎて、レナトゥーレは血の吐くような努力の末に、神に仕える仕事に就いた。
神に仕え、神の代わりに人々へと祝福を送る。困っている者がいれば無条件で助け、ありとあらゆるものに慈愛を持って接する。
それが神に仕える者の仕事であり、また階級も存在する。
仕える神の格が上がれば上がるほど、仕える者の階級も上がる。
レナトゥーレは下っ端から始め、実績を着実に積み、上級第一位の座にまで上り詰めた。
階級が上がれば内に秘める神力も増し、また実績によっては翼の数も増える。
天人族の中で最上位の地位まで上り詰めた頃には、六枚の翼がレナトゥーレの背中で輝いていた。
歪な二枚の翼はそのまま残っており、一目で奇形だと分かってしまう。
それでもレナトゥーレはその歪な二枚の翼をどうにかしようとは思わなかった。
かつて自分を冷遇した両親に、奇形で神力の少ない無能な自分でも上位一級まで上り詰めることができるのだと知らしめるため、ある意味復讐のようなものだ。
【過ちを認め、冷遇したことを悔いるがいい】
そのような思いからレナトゥーレは翼をそのままにした。
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