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……「半歩横で」。
その言葉を胸の中で反芻しながら、俺は天井を見上げていた。病室の夜は相変わらず静かで、機械の規則音だけが世界を繋ぎ止めている。らんは眠っている。浅いけれど、さっきよりは落ち着いた呼吸だ。
俺の指先は、まだ彼女の手の温度を覚えている。握り続けなくても、ここにいると伝わる距離。それを、手放したくなかった。
――翌日。
朝の光は、昨日より少し強かった。らんは目を覚ますと、いつものように一瞬だけ周囲を探す視線を向け、それから俺を見つける。
「……いた」
その一言が、以前ほど切羽詰まっていないことに、俺は気づいた。安心はしている。でも、しがみついてはいない。
「おはよう」
「……おはよう」
声も、少しだけ穏やかだ。
看護師が来る時間。今日は、事前に決めていた。俺は、彼女のすぐ隣には座らない。ベッドの端、手を伸ばせば届く位置。
「今から血圧測りますね」
らんの肩が、わずかに揺れる。俺は、声を出さずに、ゆっくりと頷いた。
――大丈夫だ、と。
彼女は、俺を見る。それから、自分で一度、深呼吸をした。
「……いいです」
その声が、震えていなかった。
カフが腕に巻かれる間、らんの指はシーツを掴んでいた。でも、俺の服じゃない。自分の居場所を、そこに作っているみたいだった。
「終わりました」
その言葉に、らんは大きく息を吐く。
「……できた」
小さな、でも確かな達成感。
「できたな」
俺は笑って言った。すぐに褒めすぎない。でも、ちゃんと受け取る。
そのあと、らんは少し疲れた様子で目を閉じた。俺は、そっと立ち上がる。
「……どこ行くの」
すぐに、声が飛んでくる。
「窓、開けに行くだけ。ここから見えるだろ」
カーテンの隙間を指差す。らんは、少し考えてから、頷いた。
「……見える」
窓を少し開けると、冷たい空気が流れ込む。病院の匂いに混じって、外の匂いがした。
「……外のにおいする」
らんが言う。
「するな」
それだけで、会話は十分だった。
昼過ぎ。心理士との二回目の時間。今日は、俺は部屋の端に座った。視界には入るけれど、手は届かない距離。
らんは、何度か俺を見た。確認するみたいに。それでも、話をやめなかった。
「怖くなったとき……」
「はい」
「……前は……すぐ、元貴を呼ばないと……だめだった」
胸が、きゅっと縮む。
「今は?」
「……今も……こわい」
「でも?」
「……呼ぶ前に……息、してみる……」
心理士が、頷く。
「それが、“自分で戻る”練習です」
らんは、少し誇らしげな、少し不安な顔で俺を見た。俺は、静かに頷き返す。
――それでいい。
俺が答えになる必要はない。答えがある場所を、指差すだけで。
夜。今日も、らんは俺の服の裾を掴んだ。でも、力は弱い。
「……あした……」
眠気の中で、声が揺れる。
「うん」
「……また……ちょっと、いなくなる?」
「……なるかも」
正直に言う。その一瞬、らんの眉が寄った。
「……でも」
「うん」
「……戻ってくる……よね」
問い、というより、確認。
「戻ってくる」
即答は変わらない。
「……じゃあ……」
らんは、目を閉じる。
「……待ってみる……」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。待つ、という選択肢を、彼女が自分で選んだこと。
「無理なら、呼んでいい」
「……うん」
「それでも、いい」
らんは、小さく笑った。
「……やさしいね」
違う。優しさじゃない。これは、信頼だ。
消灯後、俺は椅子に座ったまま、らんの寝顔を見る。彼女は、まだ完全には世界を信じていない。
でも、俺だけが世界じゃなくなり始めている。それが、少し寂しくて。それでも、確かに、希望だった。
――半歩横で。
手を差し出せば、届く距離。離れすぎず、抱え込みすぎず。俺は、ここにいる。らんが、俺を見なくても、呼ばなくても、それでも「大丈夫だ」と思える日が来るまで。その日が来たら。きっと俺は、同じ場所で、同じように言う。
「いるよ」
今度は、彼女が振り向かなくてもいい声で。