樋から滴り落ちる水音のように一定の間隔で甲高い音が鳴り響いている。分厚い金床と振り下ろされる金槌の間で赤熱した金属塊が引き延ばされていく。散る火花は刹那に生まれて消え去る銀河のようで、炉だけを灯りとする薄暗い鍛冶工房は、蹲った獣のような仮設の要塞に力強い鼓動を与えていた。
「随分大きい体だが、人並みの剣を鍛つのに支障はないのか?」
工房の端で汗を流しながら鍛冶の様子を見守っていたソラマリアはふと尋ねる。
「職人の集中を散らせて良いことはないぞ」
答えたのは巨大な鉱石でできた巨人のような体で鍛冶をする使い魔鍛える者だ。その巨躯と巨大な金槌、巨大な金床に対し、打ち延ばされた剣の原型は短く細く見える。
「ああ、すまないな。気にしないでくれ」
「慣れているんだ。この大きさがな。心配せずとも体の大きさが仕事に影響を与えることはない。どちらでもいいんだ」
「ラーガ殿下はわざわざお前の体の大きさに合わせて工房を作ってくれたのだろう?」
「ああ、大らかなお人だ。体も大きくなったが」
大らかになったのはレモニカも同様だ。と、ソラマリアは振り返る。出奔した時に比べれば、シグニカで再会した時には既に大いに明るく前向きになり、その後も成長し続けているように感じられた。
吟じる者を貼られ、酔ってもいたが『旅を支えてくれるか』という問いはきちんと認識していた。そのようなことを問われずとも、あるいは問われなかったならば、何も考えずに旅に同行し、支えていただろう。
しかし問われたことで今、自身が岐路に立っていることにソラマリアは気づかされた。ラーガにもリューデシアにも騎士になることを誘われ、姉や妹だと言ってくれる者たちと同じ加護の予言をヴェガネラ妃から賜っていたことを知った。そして何事もなく、このままグリシアン大陸北方を西へ向かっていくのならば、ガレイン半島の次はライゼンの地に到る。その時、誰の騎士として戻るかで大王国における立ち位置が大きく変わってしまうのだ。
議員の大半は大王の信奉者だが、奔放な大王に辟易し、かつてヴェガエネラ妃を指示していた者の多くが、今やその長子ラーガを支えている。一方リューデシアは大王国の大敵たる救済機構の元聖女であり、帰国後の立場は危ぶまれる。レモニカに至ってはその存在を知らない者さえ多い。
別に迷ってなどいない。ソラマリアは自分に言い聞かせる。
それ故にユカリという未知数の存在は避けられない。レモニカは魔導書になど関わって欲しくない。それがソラマリアの偽らざる本心だ。
「暑いですね。平気なんですか? ソラマリアさん」
不意なユカリの問いに驚いたことを抑え、隠し通して振り返る。ユカリは既に水を被ったかのような汗をかいていた。
「平気ではないが、鍛える者は命令で鍛冶をさせられていると聞いてな」とソラマリアは答える。
「ぼくを監視しているってことか」と鍛える者は手を止めることなく言った。「ぼくが命令の範囲内で余計なことをしないか、と」
「何かしたとして分かるんですか?」と熱に魘されるユカリに問われる。
「分からない。だからそもそも監視でもない。ただ私の剣のためにしたくもないことをさせられているのだから、その時間を共有すべきだろう、と思ってな」
「無意味な自己犠牲だ」と鍛える者に切り捨てられる。
「自己犠牲じゃないですよ。助けるのではなく寄り添ってくれているんです、ソラマリアさんは」とユカリに分析される。「そこがソラマリアさんの良いところですよ。ね?」
暑さには耐えられたソラマリアも居心地が悪くなる。
「それを長所と考えたことはないな。助けられるなら助けた方が良い」
「でも助けられないなら寄り添った方が良いです。レモニカのことだってそうじゃないですか?」
そういう風に考えたことはなかった。
「だとしても迷いがないわけではない。呪いを解きたいなら、大王国に戻り、実権を得て、大規模に情報収集するという手もある」
「なるほど。うーん。でも魔導書を触媒にしても解けない呪いだからなあ」とユカリは思考を巡らせるように頭を左右に傾ける。「ところでレモニカを大王国に連れ帰るのもヴェガネラ王妃様の命令なんですか?」
「連れ帰るのも? 何と比べてるんだ?」
「護女たちを連れ帰ったのもヴェガネラ王妃様の命令だったんですよね?」
「ああ、そういうことか。最初の問いだが、レモニカ様を連れ帰る命令は座右議会、大王国の政治組織のものだ。そして、そうだ。かつて護女を連れ去ったのはヴェガネラ妃に与えられた任務だ」
「その違いなんですかね? ヴェガネラ王妃様の命令に比べて柔軟な対応をしている、というか。レモニカのお願いを聞いてくれるのは」
「まあ、そうだな。命令系統の違いともいえる。そもそも座右議会は大王家の親衛騎士を直接動かす立場にない。真正面から逆らえる相手でもないが。正確にはただ命令を与えられたというよりは取引したのだ。シグニカで魔導書を手に入れる任務を果たす代わりに殿下を探す裁量権をな」
「ああ、そんな話を聞いた覚えがありますね。で、どちらの命令を優先するんですか?」
「どちらも何も、既にレモニカ様を優先して座右議会の命令を先延ばしにしている状況だが」
「座右議会じゃなくてヴェガネラ王妃様ですよ」
「うん? 何の話だ? 王妃は既に……」
「それはもちろん分かってます」とユカリは慌てて首を振る。「命令も失効してるんですか?」
「話が見えない。ヴェガネラ妃の何の命令だ?」
「何って、さっき話してた護女を連れ帰る命令ですよ。リューデシア様は当時連れ帰れなかった護女なんですよね?」
ソラマリアは息を呑む。ユカリの言う通りだ。リューデシアはかつて成功させられなかった作戦の最後の一片だ。なぜこのことに気づかないでいられたのだろう。そしてなぜ気づかされてしまったのだろう。逆恨みでしかないが、ユカリはなぜそのようなことを私に気づかせたのだろう、と思ってしまう。
リューデシアを大王国に連れ帰れば、かつてヴェガネラ妃に与えられ、そして失敗した任務を成功に導ける。もはや得られることがないはずの、ヴェガネラ妃の願いを叶える甘美な喜びが眼前に現れたのだ。
「このこと、誰にも話さないでくれるか?」という言葉がソラマリアを突いて出た。
「それは、別に良いですけど……」ユカリの困惑はソラマリアにも伝わった。
ヴェガネラ妃の願いとレモニカの願いが天秤にかけられたことには気づいていないようだった。
それから剣が鍛え上げられるまでの時間、二人の間に会話はなかった。
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