次の日の放課後。
赤崎yanは、また旧校舎に足を運んでいた。
理由は……まあ、ひとことで言えば「気になるから」だった。
(バカ女……とか思ってたけど、
あんなやつ、そうそういねぇし……てか、なんだよアイツ、名前まで変だし)
「橘eln」――確かに綺麗な名前だ。
でも、どこか作り物っぽいと感じたのも事実だった。
(まぁ、もし幽霊なら本名とか忘れててもおかしくないか……)
そんなことを考えながら、ゆあんは昨日と同じ教室の前で立ち止まる。
ノブに手をかける瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
(……まさか、もういないとか?)
ギィ、と扉を開けると、そこには変わらず、窓際で夕陽を浴びる彼女の姿があった。
「……おっそーい。もしかして逃げたかと思った」
「逃げる理由がねーだろ、バカ女」
「ふふっ、今日も元気ね、赤メッシュくん」
ああ、やっぱり変なやつだ。
でも、その“変”が心地いい。
それが、yanの正直な気持ちだった。
「……で?今日も、ちょっとずつ教えてくれるんだろ?」
「んー、今日は特別に、ふたつくらい教えてあげよっかな」
elnは、手を広げて、指を2本立てた。
「まずひとつ。あたしがここに“縛られてる”理由。
実はね、まだ“伝えられてない言葉”があるの」
「……言葉?」
「うん。誰かに言いたかったんだけど……言えなかったまま、ここに残ってる」
その横顔は、夕日に照らされて、どこか哀しげだった。
瞳に光が反射して、涙のようにきらめく。
「……ありがとう、って。
ただ、それだけなのにね。
言いたかったのに、言えなかった。言わないまま……もう、言えなくなっちゃった」
沈黙が落ちる。
yanはその場から一歩、彼女に近づいた。
「じゃあ、俺が代わりに言えばいいんじゃね?」
「え……?」
「その“誰か”が誰だかわかんねーけど、俺が代わりに伝える。
それでお前がスッキリして、成仏できるなら、まぁ……悪くねぇし」
「……ツンデレかと思ったら、案外素直なんだね」
「うっせ……!べ、別にお前のためとかじゃねーし!
……なんか、モヤモヤすんだよ、ずっとここにいられるのも」
「ふふっ、ありがと」
その笑顔は、昨日より少しだけ柔らかくて、
少しだけ、胸に刺さった。
「じゃあ、ふたつめ。あたしの秘密……っていうか、名前のこと」
「名前……?橘eln、だろ?」
「それ、あたしが勝手に名乗ってるだけ」
「えっ……」
「本当の名前、覚えてないんだ。でも、橘elnって名前が“落ち着く”気がして。
だから、仮の名前として使ってるだけなの。変でしょ?」
「……変だけど、似合ってるよ」
「へぇ……そう言ってくれる人、初めて」
ほんの少しだけ、elnの頬が赤く染まる。
夕日のせいなのか、それとも本当に……照れていたのか。
そのとき、チャイムが鳴った。
yanのスマホが震える。「下校時間」のアラート。
「あ……もう、時間か」
「うん、そろそろ消えるよ、あたし」
「消えるって……」
「陽が落ちると、あたしの意識もぼやけるの。
次に目覚めるのは、また明日の放課後」
「……じゃあ、明日も来いよ。絶対な」
elnは目を見開き、少し驚いたような顔をした。
そして、ふっと笑って、小さくうなずいた。
「うん、約束。赤メッシュくん」
教室に差し込んでいた橙の光が、少しずつ薄れていく。
elnの輪郭も、夕闇の中でゆらりと揺れて、やがてふっと消えた。
残されたのは、机の上に置かれた、ひとつのオレンジ色のリボンだけだった。
yanはそっとそれを手に取り、口元を引き結ぶ。
「……仮名でも、名前でも、関係ねぇ。
お前は――お前だよ、et」
その声が、誰にも聞こえない夕暮れの教室に、静かに響いた。
(続く)