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夕暮れ時の商店街は、どこか懐かしい喧騒に満ちていた。買い物袋を提げた主婦や、友達と笑い合う学生たち、仕事帰りのサラリーマンが行き交い、オレンジ色の陽光がその全てを柔らかく包み込んでいる。
夏油傑はそんな風景の中を、呪術高専の制服のまま、気ままに歩いていた。ポケットに手を突っ込み、肩を少し落としたその姿は、任務帰りの疲れと退屈が混ざったような雰囲気を漂わせている。
最近は五条悟や家入硝子と一緒の任務が多く、単独で動く機会が減っていた。たまの自由時間にこうやって町をぶらつくのも悪くない、と傑は思う。
風が頬を撫で、遠くから焼きそば屋のソースの匂いが漂ってくる。腹が減ったわけじゃないが、何か甘いものでも食べようかとぼんやり考えていたその時だった。
空気が微かに歪んだ。普通の人間には感じ取れない、微弱だが確かに存在する呪霊の気配。傑の目は鋭く光り、気配の方向へと自然に足が向かう。
こういう時、彼の好奇心は抑えきれなくなるのだ。どんな呪霊か分からないが、低級だろうと何だろうと、少しでも退屈を紛らわせてくれるならそれでいい。
商店街の端、細い路地裏に差し掛かると、その気配の正体が見えた。一人の女子高生が、古びた電柱のそばでスマホを手に立っている。
セーラー服に赤いリボン、肩にかかるくらいの髪を軽く揺らしながら、画面をスクロールしているようだ。待ち合わせでもしているのだろう。
時折、苛立ったように首を振ったり、周囲を見回したりしている。だが、傑の視線は彼女ではなく、そのすぐ横に漂う影に注がれていた。
呪霊だ。しかも、妙な姿をしている。女子高生と同じような制服を纏い、長い髪が風もないのにふわふわと揺れている。
おそらく女学生から流れ出た負の感情が呪霊化したものだろう。だが、その顔は異様だった。目が異常に大きく、口が耳まで裂けたような不気味な笑みを浮かべている。
そして何より奇妙なのは、その呪霊がひたすらに呟いている言葉だった。
「うんうん、パンケーキ食べたいっ! パンケーキ食べたい! パンケーキパンケーキパンケーキ食べたい一緒に食べようついてくついてくついてくうううう!」
傑は思わず立ち止まり、口元に薄い笑みを浮かべた。こんな呪霊、見たことがない。低級だろうに、この執着はなんだ? パンケーキって。
呪霊の声は掠れていて、まるで壊れたレコードのようだ。それでもその一心不乱な様子に、傑は妙な愛嬌を感じてしまった。
視線を戻すと、女子高生がこちらをちらりと見た。いや、正確には呪霊の方を一瞬見て、すぐに目を逸らしたのだ。
傑は確信した。彼女、呪霊に気付いている。普通の人間なら見えないはずのものに気付き、しかも逃げ出さずにそこに立っている。
恐怖で固まっているのか、それとも別の理由があるのか。彼女の手がスマホを握り潰さんばかりに震えているのが、遠目にも分かった。
「面白いねぇ」と、傑は小さく呟いた。そして一歩踏み出し、声をかけた。女子高生ではなく、呪霊の方にだ。
「ねえ、パンケーキ食べたいんだろ?」
呪霊——仮にパンケーキちゃんと呼ぼう——は、ぎょろりとした目で傑を捉えた。するとその表情が一変し、ぱっと明るくなった。
「うんうん♪ ついてくついてく♪」と、まるで子犬のようにはしゃぎながら傑の方へ漂ってくる。傑は小さく笑い、その動きに合わせて歩き出した。
女子高生は目を丸くして後ずさり、「何!? 何!?」と小さな悲鳴を漏らした。顔は真っ青で、スマホを落としそうになっている。
傑は彼女を一瞥しつつ、パンケーキちゃんに軽く手を振った。
「ほら、行くよ。パンケーキ、食べさせてやるからさ」
「うんうん♪ パンケーキパンケーキ♪」
パンケーキちゃんは嬉しそうに傑の後ろにくっついてくる。そのまま路地を抜け、商店街に戻った時、ふとパンケーキちゃんが振り返った。そして女子高生に向かって、不気味な声でこう言った。
「パンケーキ食べようねっ、約束だよっ!」
女子高生は「ひっ」と息を呑み、その場にへたり込みそうになった。傑はそれを見て、くすりと笑った。彼女が呪霊を見える理由は分からないが、今はそんな気分でもない。
とりあえず、この妙な呪霊の願いを叶えてやろうと思ったのだ。
商店街を少し進むと、古びた看板の喫茶店が目に入った。ガラス窓に「パンケーキあります」と書かれたシールが貼ってある。
傑は迷わず店に入り、カウンターにいた店員に「パンケーキ、2皿」と注文した。店員は一瞬、2枚の間違いではないかと怪訝そうな顔をしたが、「二人前ですね?」と確認して厨房に下がった。
傑は窓際の席に腰を下ろし、パンケーキちゃんを向かいの席に「座らせた」。正確には、宙に浮かせただけだが。
しばらくすると、ふわっとしたパンケーキが2皿運ばれてきた。メープルシロップとバターが乗っていて、甘い香りが漂う。
傑はパンケーキちゃんの前に一皿を置き、顎で軽く示した。
「ほら、どうぞ。食べたいんだろ?」
パンケーキちゃんはにちゃにちゃとした笑顔を浮かべ、目を輝かせた。触手のような手がゆっくりとパンケーキに伸びていく。
その姿は、呪霊とは思えないほど純粋で、傑は頬杖をつきながらその様子を眺めた。「呪霊にもこんな感情があるんだな」とぼんやり思う。
パンケーキに執着する理由は分からないが、もしかしたら生前、誰かと食べる約束でもしていたのかもしれない。そんなことを考えていると、少しだけ切ない気分になった。
そして、パンケーキちゃんがようやくパンケーキに触れようとしたその瞬間——。
バンッ!
突然、パンケーキちゃんが横に吹っ飛んだ。テーブルが揺れ、皿がカタンと音を立てる。驚く間もなく、そこには見慣れた白髪とサングラスが立っていた。五条悟だ。
「食べたい…」
パンケーキちゃんは最後にそう呟き、黒い霧となって消えた。
傑は一瞬呆然としたが、すぐに悟の方を見上げて笑った。
「あ、悟。こんなところで奇遇だねぇ」
「そういう傑こそ、こんなところで何してんだよ。それにさっきの呪霊、なんだったんだ? 気持ちわりーな」
悟はそう言いながら、すでにパンケーキの皿に手を伸ばしている。フォークを手に取り、迷わず一口頬張った。
「いやぁ、面白そうな呪霊だったからつい、ね。パンケーキが食べたいってうるさかったから試しに置いてみたけど、悟に殺されちゃうなんてさ。かわいそうだよ」
「低級の呪霊だったし別にいいだろ。ほら、こんなもん放っておいたってどうせ誰かが祓うんだから」
悟は口をモグモグさせながら、さらにもう一口。
「それより、これ美味いな。傑、食わないの?」
傑は肩をすくめた。
「まぁ、いい夢が見れただけでもありがたいと思えばいいよね。パンケーキちゃんには悪いけど」
「パンケーキちゃん?」
悟が笑いを堪えきれず、フォークを止めた。
「お前、呪霊に名前までつけてたのかよ。傑らしい無駄な優しさだな」
「パンケーキちゃんも案外喜んでくれたかもよ?」
「呪霊が本当にそんなこと思うか?ありえねー」と笑いながら、悟は残りを平らげた。
傑もあとを追うようにパンケーキを食べたあと。二人は喫茶店を出て、いつものように帰路についた。夕陽が二人の背中を照らし、商店街の喧騒が遠くに響く。
傑はふと、パンケーキちゃんの「約束だよっ」という言葉を思い出した。あの女子高生、今頃どうしてるかな、と考える。そして、隣で鼻歌を歌い始めた悟を見て、小さく笑った。