コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
——数年前、都内の私立高校。
その春、新卒として若井滉斗は教師の世界に足を踏み入れた。
初めての職員室の前で、小さく深呼吸をする。
(俺も、ついに教師になったんだ)
不安と期待。
それらが入り混じるなか、緊張した手でドアをノックする。
「失礼します。……本日からお世話になります、新任の若井滉斗です」
頭を下げたその瞬間――
「あ、来た来た!今日から入るって話の、若井くんだよね?」
ぱっと光が差し込むような声がした。
声の主を見て、思わず息を呑む。
長めの前髪、やわらかそうな瞳、優しげな笑顔。
――第一印象で、「この人、絶対いい人だ」と思った。
「僕は藤澤って言います。音楽担当。よろしくね」
その人――藤澤涼架は、春風のような笑みで手を差し出してきた。
その手を取ると、ほのかに香る柑橘系の匂いがした。
(……なんか、やばいくらい癒されるな、この人)
「ここのコピー機、ちょっとクセあるから気をつけてね〜」
「保健室の先生、結構おしゃべり好きだから、話が止まらなくなるよ」
「このプリント、俺が半分やっておくよ。初日って大変でしょ?」
――気づけば、困った時にはいつも藤澤先生が隣にいた。
若井がミスをすれば、柔らかくフォローしてくれたし、
放課後の準備をしていれば、「頑張ってるねぇ」と、缶コーヒーをそっと差し出してくれた。
教師としての厳しさと、プライベートでの気さくさ。
そして、絶妙に人懐っこい笑顔。
その柔らかい笑顔と、絶妙に抜けた空気感に、滉斗はすぐ安心した。
(この人が先輩で、よかった)
「若井先生ってさ、ちょっと怖いのかと思ったけど、真面目で可愛いよね」
「え…そうですか?…めっちゃ照れるんですけど」
素直で、まっすぐで、不器用だけど誠実。
そういう若井の人柄に、藤澤はすぐに惹かれていった。
今まで、男性に対してそんなふうに惹かれることはなかった。
ましてや、自分には妻と、幼い子どももいる。
幸せな家庭。それに、嘘はない。
ただ——
(……だけど、俺の中の“何か”が満たされてないことくらい、自分が一番分かってる)
家庭では、穏やかな笑顔を作れる。
でも夜になると、どうしてか心のどこかが虚しくなる。
そんな中で、滉斗のような“空白を持つ若さ”に触れてしまったことが、運命だった。
週末、居酒屋で開かれた新任歓迎会。
にぎやかな声が飛び交う中、若井は端の席でぎこちなく座っていた。
「若井くん、飲める?」
「一応……でも弱くて……」
「じゃあちょっとだけね。ほら、乾杯」
グラス越しに目が合う。
柔らかく笑った藤澤の顔が、妙に近く感じた。
しばらくすると、若井は明らかに赤くなり、ソースの小皿をじっと見つめながらぐったりしていた。
「大丈夫? 帰れそう?」
「んー……無理かもです……あの……気持ち悪くはないんですけど……頭ふわふわして……」
そんなふうに目を細めて笑う滉斗を、藤澤は見ていられなかった。
「……送ってくよ。タクシー使えばすぐだし」
「え、でも……申し訳ないです……」
「気にしないで。倒れられたらそっちのほうが困るから…」
2次会には参加せず、藤澤はタクシーで若井の自宅へと送り届ける。
タクシーの中で、若井はぼんやり外を見ながら、藤澤の肩にもたれかかった。
「……せんせ…あったかいですね……」
「……若井先生…可愛すぎ…」
ぽつりと独り言のように呟く。
若井は聞こえていないのか、ただうっすら笑っていた。