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——春の夜風が肌を撫でる。
タクシーから降りた後も、若井はどこか夢うつつでふらついていた。
藤澤が肩を貸し、エントランスのオートロックを開ける。
「鍵、これで合ってる?」と尋ねると、若井は頷く代わりに自分の部屋番号を口にした。
(やっぱり、弱いんだな……)
居酒屋で見せた硬さが嘘のように、今の若井はやわらかかった。
明日にはきっと忘れてしまうような酔いの熱をまとって。
部屋の中、玄関に入ると、若井は靴も脱がずにへたり込んだ。
ネクタイを緩めた首元が、ほんのり汗ばんでいる。
「……もう、帰るね。無理しないで休んで」
そう言って背を向けかけた時だった。
「……帰らないで……」
か細い声だった。
振り返ると、若井が壁にもたれたまま、ぽつりと呟いていた。
「……せんせ……もうちょっとだけ、ここにいてください」
藤澤は若井をリビングまで運び、近くのソファに腰を下ろした。
すると、若井がぽつりと語り出す。
「……居酒屋では、言えなかったんですけど」
その声は、いつもの教師としての男らしさとは違っていた。
どこか、不器用な甘えを含んでいる。
「……藤澤先生の笑顔が、好きなんです。なんていうか、安心するというか……僕、先生の声とか、すごく落ち着くんです」
「……それ、ただの酔いだよ。酔ってる時って、人恋しくなるから」
「違いますよ。ずっと思ってました。……でも今日、やっと言えた」
穏やかな顔でそう言う若井の瞳は、涙を少し溜めていた。
揺らめく眼差しの奥に、何かを抱えている。
「……先生、時々、僕のこと見て悲しそうな顔をしてますよね……?」
「……え……?」
「……僕、なにかしましたか?」
その問いに、藤澤は息を飲んだ。
彼が時折見せる寂しげな表情——
それは家庭で満たされない“渇き”から来るものだった。
心が、乾いていた。
優しい父、夫を演じながらも、ずっと誰かに求められたかった。
“欲しい”と叫んでほしかった。
——でもそれは、言葉にしてはいけない理由だった。
「……若井先生には、関係ないよ。俺の問題」
それ以上は言わない。
でもその瞳が、許してくれなかった。
うるんだまま、じっと自分を見上げてくる。
無防備で、あたたかくて、真っ直ぐで。
それが、どれほど自分を追い詰めるかも知らずに。
(やめろよ……そういう顔すんなよ……)
「……っ」
藤澤は我慢できなくなった。
衝動的に、唇を奪った。
「……!」
若井の身体が小さく震える。
重ねた唇は熱く、深く、もどかしいほどに長かった。
舌が絡み、呼吸が交じる。
藤澤の中で、何かが崩れていった。
「……藤…澤…せんせぇ…っ」
瞬間、藤澤はハッと我に返り、唇を離す。
(……何やってんだ、俺……!)
視線を逸らす。
若井はぼんやりと藤澤を見つめていた。
「……ごめん。若井先生……」
掠れた声でそう言って、藤澤は立ち上がる。
「……ほんと、ごめん……!」
足早に玄関へ向かい、ドアを開ける。
振り返ることはなかった。
そして、藤澤は夜の静けさに紛れるように、若井の部屋を去った。