「お、水田。今日お前日直やったな。」
――放課後。
薄暗く人気のない教室を後にし下駄箱へ向かう途中、担任の伊藤先生に偶然ばったりで出くわしてしまう。さらに、今日は私が日直だった。という世界一いらないおまけつき。
先生はまだ何も口にしてはいないが、その手に持っている図書館の本らしき参考書四冊が今後の展開を、それは呆れるほど、綺麗に、分かりやすく物語ってくれている。
そして此の手の推測から、セリフは大体………想像がつく。
もはや想像もしたくないが〝やりたくない〟なんて言うのは私のキャラではないから言わないけど。
「どうせ帰るんならこの資料図書室に返しといて」
(ほーら、やっぱり。)
私はあからさまにそう呟いた。心の中で。
こうなると最初から分かっているのなら気付かないフリをするなり、バイトを言い訳にさっさと逃げればよかった。と、後から後悔が押し寄せ引きつく顔をグッと抑え込んだ。
実際、この後は本当にバイトだけど今日は午前授業だった為、つい先ほどまで時間を潰そうと教室で一人仮眠していたので実際急いでいるわけでもない。
ちゃんと余裕を持って学校を出てるし。けど、私はあくまで平凡な優等生だから先生の言うことは聞かないといけない。私の平和な学校生活の投資のだと思い、嫌そうな顔はせずいつもどおりの私で振舞ってはいるが、実際のところ心の中の私は渋々受け取っている。…世に言う猫かぶりである。
だって、未来には期待したいし。その為だったら私はなんだってできる。
「ほなよろしくな」と私をパシリに使うだけ使って職員室へ向かう伊藤先生。
(ていうか、そっちから来たならついでに図書館寄れよ…)
という皮肉な心の声は飲み込んで、私は運命さだめのままに図書館へと向かった。
ガタンッと、ドアを閉める音が人通りの少ない廊下に響いた。先生から受け取った参考書を戻し終え、図書室を後にし私は今度こそ下駄箱へと向かっていた。せっかくだからと思い、普段は通らない廊下を通てみたりといつもと違う風景を楽しんでいるとやけに階段の向こう側が騒がしいことに違和感を感じた。
(確かこの階で部活に使っている教室は一つもないはず…)
一瞬変な噂が頭の中を過よぎったが、それはすぐに消えてしまう。……私の学校でもそういう噂はよく聞く。だって、学校っていう存在は必ずしも怪談は付きものだ。…でも、これは直感で分かった。その騒がしさは、妙に聞き覚えのある。聞き取れるような単語ばかりが並んでいる。それは一歩、また一歩進むたびにどんどんと確信へと変わっていく。
「やかましいわ…ッ! 大体アレはサムのせいやろが!」
「おいッ!! 被害妄想も大概にしいや!!」
どこかで聞いたことのあるような声だった。近づくとその声の正体は階段の踊り場から聞こえてくる。しかも聞く感じだと、かなりマジな男子の喧嘩っぽい。
騒ぎからして明らかに通れそうにないが……私にはこの後バイトが迫ってる。
しかもパシリにされたおかげであり余っていた時間はバイトへ向かうにはぴったりな時間。なんかうれしいような悔しいような気もするけど、生憎ここは最上階。一階の下駄箱へ行くには一つしかないこの階段を下りる必要がある。
伊藤先生のパシリから始まった小さな偶然が、こんなにも大事おおごとになってしまうなんて思ってもいなかった。
そういえば今日の星座占い何位だっけ、見るの忘れちゃったなぁ。と自分の運の悪さを噛み締めている。自分の不運に悔やむ暇もなく、ふと頭にひとつの考えが浮かんだ。
逆に、これはチャンスなのでは?
今、彼らは私のことなんてこれっぽっちも見ていない。気にしてもいない。自分自身に無我夢中だ。一応念の為、身構えながら壁を盾にしチラッと覗き踊り場の様子を確認すると私は目を疑った。
喧嘩をしていたのは………同じクラスの治くんと双子の侑くんだった。
おそらくさっきの声は侑くんが治くんのことを〝サム〟と、呼んでいたらしい。
それはそうだ。同じような名前だから二人の間にお互いのあだ名があっても当然だ。
私と同じクラスの宮治くん。彼はクラスで関わりたくないランキング堂々の第一位に君臨している。
治くん達は学校でも世間の一部でも結構有名人だったりする。どっちかって言うと侑くんの方が有名らしいけど私からしたら二人とも同じだ。彼らは超危険人物。自分なりに警戒はしていたはずなのに、今までそんなことすら知らなかった私が一番怖い。
そして双子の侑くんと学校でもよく喧嘩していると噂の二人。…実際、生で見ると本当に痛々しい。本当に見ていられない。私が保証します。
そんなことを思っている間にも、二人の喧嘩はエスカレートしていく一方。周りを見渡すが誰もいない。止める人もいない。
ここにいるのは私だけだった。
(…もしかして、これってまずい?)
私も無慈悲じゃない。人間だもの、慈悲くらいある。こんなの絶対良くない。でも――。
平凡を望む私の中で誰かが私の腕を掴んで離さない。
すると侑くんが治くんに馬乗りになって胸ぐらを掴んだ瞬間、右手の拳が上がった。それを見た途端、顔の血の気が引いた。嫌な予感がした。本能的な勘だった。
私が止めに入ったところで、どうせ止められなんてしないのに。……私は飛び出した。
〝助けようとした〟…と言うと、どうも言葉が綺麗すぎて見合わない。いい人ぶってるわけでもない。だって、彼らと関わりたくないのは事実なんだから。…それでも、無意識だった。さっきまでつっかえて動かなかった足が途端に動き出した。
彼らと関わっていはいけない。誰よりも平和で普通な高校生活を送る。青春じゃなくて結構、ヒロインじゃなくて結構、平凡上等、どんとこいだ。
私の決めたことなのに、ルールなのに。それなのに。私の脳が、体が、体中の細胞が、それはダメだと。今まであったどんなことよりも、今まで以上に、強く言っていた気がした。
……大丈夫。こんなことで大事おおごとになったりなんてしない。私はたまたま通りかかった生徒。同級生の喧嘩を見つけて注意に入るだけ。
だって、殴られるのは痛いでしょう? あとから先生に見つかって、怒られるのも嫌でしょう?
だったら、その前に私が注意して収まってくれれば何の問題もない。
どこか小さいヒビが広がっていくのを抑えるように言葉を積み重ねて自分に言い聞かせた。
でも、ただ本当は、ただ間に合ってほしいと、この時。……それだけしか思っていなかった。
「待って…ッ!!」
必死さのあまり振り上げた拳に手を伸ばす勢いでよろけ、床に膝を付くが片手はなんとかその腕を掴んだ。まだ不安定な体を支えようと咄嗟に反対の手が床にへばりつく。ひんやりとした感覚に一瞬びくりと心臓が飛び跳ねた。
「うっさいわ!」
「…ッ!?」
反射的に目を瞑るとゴッと低い音が脳に響く。その言葉と同時に今度は後ろへと自分の身体が傾いた。
突然、視界が揺らぐ。
二人が顔色を変えて私を目で追うのが分かった。そんな中身体が後ろへ倒れ、その身体を支えるように咄嗟に後ろへと手をつき尻もちをつく。
一瞬、何が起きたか分からなかった。けれど後から頬から伝うジンジンとした熱ですぐに分かった。
嗚呼、なんであの時認めなかったんだ。
この行動は〝ルール違反だ〟って言う、神様からの忠告だったのかもしれない…。
水田 ゆきの 高校二年生。
高校3年間の目標
〝平和な高校生活を送る〟
放課後の四月下旬
喧嘩止めたら殴られました。
反射的に避けたつもりだったけど、それでも払われた手が頬に思いっきり当たったらしい。さっきまでの喧嘩が嘘みたいにシーンとその場が静まり返り、2人が私を見ながら硬直している。
(これは一応〝喧嘩は止められた〟ということでいいんだろうか…?)
私は熱を持つ頬にそっと手を当てた。
どちらかと言えば、殴られた…というか、治くんを殴ろうと握られていた侑くんの拳が偶然当たった。と言った方が正しい。
相手も「やってしまった」という顔をしているし、どっちにしろ先に飛び出して手を出したのは私だから、私が悪い。今この状況で自業自得という言葉を使わなくてどこで使うのだというくらい。
すると下の階段から、足音と話し声がだんだんと聞こえてくるのが分かった。
「信介ここや、ここで喧嘩してるって……ってあれ?」
「なんや…仲直りしたんか?」
階段から青い上履きを履いた三年生が二人来る。多分、話の内容的に治くん達と顔見知りっぽい。
…なんだ、私がいなくても大丈夫だったんだ。と、心のどこかでなぜがほっとしてしまった自分が恥ずかしく感じた。
すると〝信介〟と呼ばれていた先輩と目が合った。その先輩は私をみるやいなやキョトンとし、まるで今ここで何が起きていたのか脳内で処理するように立ち尽くすと静かに口を開いた。
「………自分、どないしたん」
どうやら先輩達でも理解不能な現場のようだ。
喧嘩したまま固まる治くん達+知らない女ひとり。今の状況を冷静に理解しようと真っ先に私の元にやってきた先輩。私の目の前でしゃがみこむと顔を不思議そうに覗き込んだ。突然、伸びて来た手は未だ頬に手を当てていた私の手首を掴む。
その先輩にされるがまま手を退かすと、片方の頬だけ明らかに赤くなり爪が引っ掛かったのかそこには軽く蚯蚓腫れができてしまっていた。
「……誰に、やられたん?」
さっきの温厚な雰囲気とは裏腹に,明らかに低くなった声でそう聞かれ思わずひぇ、と情けない声が小さく出てしまう。
「え…、えーっとぉ…」
これは正直に言うのが正解か。それとも少し治くん達を庇って隠蔽するか。目を泳がせながら頭をフル回転させどうにか言い訳を考える。
「…ぁー、おわったわ…」
さっきの喧嘩がなかったかのようにいつの間にか立っている二人。その侑くんの呟きにバッ、と振り向く先輩。それに気づいて咄嗟に侑くんは顔を逸らし、さらには背筋を伸ばして、何も言わずただじっとするだけでどちらも先輩と目を合わせようとはしない。
「それにしても、それ大丈夫なん? 痣とかできたりせんかな?」
もう一人の黒髪の先輩が声をかけてくれる。学校では何にも係とか部活も所属してないこともあってか、先輩との会話が少し新鮮に感じた。
「ホンマにごめんな。うちのやつが。めっちゃ赤くなっとるで、痛いか?」
そういいながら頬に触れた手はひんやりと冷たい。
きっと私の毎日がキラキラしたヒロインみたいな女の子だったら、恋に落ちてハッピーエンドルートに行けたかもしれない。
(……いたい?)
ああ、この先輩はきっと純粋にすっごく優しい人だから知らないんだろうな。
女の子っていう生き物は、どんなヒロインであろうがモブであろうが、頑張って平気を装って我慢してる時に「大丈夫?」とか変に心配されたり慰められるのに弱いってこと。
途端、周りがぎょっと私を見ながら驚愕した。
驚くのも無理はない。私だってびっくりしてる。自分の思考を無視して瞳から次々と溢れてくる涙に私も驚いてる。今思い返せば、高校生活始まってから初めて学校で泣いたかもしれない。
お母さんが『涙は女の武器だからいざという時だけ使いなさい』と口酸っぱく言われてたのに。
なんだか後から悔しくなって私は慌てて涙を裾で拭うと先輩がポッケからハンカチを取り出し差し出してくれる。
「サムがあんなことしたからやろ」
「はぁ? 殴ったのはツムやろ。ホンマ節穴やな」
「なんやとっ!!」
後ろでコソコソ話していた二人に再び油が降り注ぐのがわかった。
侑くんがカッとなり声を荒らげた瞬間、新たに始まりそうな二人の喧嘩を吹き飛ばすほどの先輩の怒鳴り声が放課後、静かに響いたのはここにいる五人しか知らない――。
――翌日の朝。
私は学校の廊下をうつむきながらのそのそと歩いていた。
今日、世界で一番学校行きたくないって嘆いてるの多分私です。私以外認めない。異論も認めない。もう何も聞きたくない。
理由は単純だ。昨日の一件もあってか殴られた頬に湿布が貼ってある。スース―するし、おまけに常に湿布の匂いがして落ち着かない。
昨日、家に帰るとお母さんに『それどうしたの?』と聞かれたので『あ゛ー、狐に引っかかれた』と、適当に言ってみたら『そう、いつかやると思ってたわ』と言われ、私への心配の言葉もなしに会話が終了した。
……お母さんは、私を一体何だと思っているんだ。
頬に湿布とかあまり需要性はなさそうだけど、これでも私は一応女の子の分類だ。顔に傷は残したくないし早く治って欲しいとももちろん思う。だからそれと引き換えにこの顔に真っ白な湿布が存在するわけで…。
マスクでもしようと思ったが時すでに遅く、思いついたのはついさっき。たった今。ただでさえ使う事がないのに一体なんの為に脳みそ付いているんだ。思わず自分を殴ったよね、湿布のない方を。もう考えるだけで絶望する。
今は髪の毛でうまく隠してるつもりだけど、さっきから廊下の視線が馬鹿みたいに痛い。これは教室に入っても廊下にいても生き地獄だ。間違いない。
(…まあ、これに比べたら知らない大勢の人に見られるより、知ってる特定の人に見られる方がまだマシか…)
そう思い私はそそくさと教室へ向かい戸を開けた。すでに教室にいたクラスメート達が振り返るとクラスの女子達がいつものように「おはよう」と声をかけてくれる。
私もそこまで馬鹿じゃない。今後の為を考えてちゃんとクラスの皆全員とは喋れるし、孤立しているわけでもない。私が言うのも説得力ないけどコミュニケーションは大切だし、学生時代の友達は大切にした方がいい。
そんな思考とは裏腹に、私は顔をさりげなく隠しながら「おはよう」と返すが自分でもビックリするほど小さな声しか出ず、私の脳細胞は確実に心の悲痛と共鳴し今にでもオーケストラが始まりそうな勢いだ。
一刻もはやく自分の机に足早に向かうと一人の女の子が「えっ、」と声を上げ、思わず体が縮こまる。
「…水田さんその顔どなんしたん?」
聞かれることはそれしかありえない。予測していながらも問いかけられた瞬間、私の中の指揮者が構え思わず変な声が出そうになり抑えこむ。
女の勘はどうしてこんなに鋭いのか。本当に嫌になってしまう。
「きつ…あー、これね。うーんと…、人にぶつかっちゃってさ」
「へぇ、結構勢いよくぶつかったんやね…」
「痛そー」
小さく息を吐きながら私は今出来る自分なりの平常心でそう答えた。私の顔を覗き込みながら数人の女子たちが心配してくれる。心配してくれるのはとっても嬉しいけど今の私にとってはありがた迷惑である。
それに、〝治くん達の喧嘩止めて拳食らった〟なんて口が裂けても言えない。言えるわけがない。言うはずがない。
「あはは、ありがとう。大丈夫だよ、そんなに痛くないし」
「そうなんや、お大事にな」
「うん、ありが…」
「うわ! 治顔やば‼ 片割れと喧嘩したん? 負けたん?」
クラスの男子の声に私は凍り付いた。
(そうだった。治くんもボロボロだったんだった…)
「負けてへんわ‼ 大体ツムが急に言い出したんやし…」
「それ前と同じ言い訳やん‼」
治くんと男子達がいつも通り馬鹿騒ぎしてはしゃいでいる。一瞬、チラッと治くんの方を見ると偶然目があってしまう。偶然過ぎて驚いてしまいビクッと分かりやすく肩が上がると、すぐに視線を逸らした。
(いい加減学習しろよ私…ッ!!!)
治くんの方を見てしまったことを盛大に後悔し、大きなため息をし頭を抱え込むと心の中でもう一回自分を殴った。湿布のない方を。
「今日はなんか皆怪我してくるな~」
「う、うん、そうだね…」
そうですとも。だってこれは偶然ではなく必然なのだから。
静かに席に座ると私は家から持ってきた紙パックの牛乳を取り出し付属のストローをパックに差した。
胃がむかむかする。なんで学校ごときでこんな憂鬱な気持ちにならないといけないのか。
(今日パンじゃなくて牛乳持ってきて正解だったな…)
私の席の前で雑談を続けるクラスの女子を虚ろに見ながら私はストローを口に含んだ。
「あ、ゆきのさん治こっち来とるで。なんやろ?」
紙パックの牛乳を無心で吸い続けていると目の前の女の子に問いかけられた。
最初は聞き流すように「ふーん」と無意識に返事をしたのもつかの間、自分に思い当たりがありすぎてハッ、となると途端に牛乳が変なところへ入りそうになり噎せ返る。
突然ゴホゴホとせき込む私に「どうしたの⁉ 大丈夫?」と心配してくれる。
ちょっと待って。どういうこと? 私何かしたっけ? いやしたんだけど、そういうことじゃなくて。…もしかして、私他になんかやらかした?
……確か最後に話した会話は、入学当初私が日直で提出物を集めてる時だった。
『よろしくな水田さん』
『うん、ありがとう宮くん』
『治でええよ』
『…うん、わかった』
これだけなんだよね。だから約1年ぶりの会話になるんだけど…。私はもしかすると前世で治くんの親でも殺したのかな?
それは謝る、謝るよ。だから昨日のことをここで切り出すのだけは本当にやめてほしい。
そう神頼みをしてもきっと神様は私なんか気に留めないに決まってる。せめてもの救いでちょっと唱えてみただけです。
問題はここからだ。この先、どう策略しよう? 場所を変える?
……いいや。それはかえって周りからの注目を浴び兼ねない。リスクがでかすぎる。
じゃあ、しらばっくれる?
……それもだめだ。余計なことまで喋ってしまって、余計に治くんと長居することになってしまう。つまり、ここで一番最も最適な行動は…
「…水田さん」
「う、うん、何?」
教室での自然な会話だ。
周りに人はいるけど、所詮クラスメート。話していてもなにもおかしなことはない。これが1番無難で被害が最小限に抑えられる。間違いない。
ここまで来たなら、もう覚悟を決めるしかない。話の内容によって被害は異なるけどこれが今私の思いつく限りの最善策だ。
「今日放課後第二学習室まで一緒に行かん? 話したい事あんねん」
私は大きく瞬きをする。思ってたのと違う。そう、違いすぎる。
「あ、…うん。いいよ…」
言い終わると同時に私の口が半開きのまま止まった。
……いや、ちょっと待って。
なぜか冷汗が止まらない。すでに全細胞によって盛大なオーケストラが始まっていたことに私は今更気づいてしまう。被害が少ないとはいえそんな言い方したら――。
「治…まさか告白!?」
「ちょっ‼、水田さんいつから治とそんな関係に!?」
「うるさいわ! 騒ぐな! 俺はただ水田さんに用があるだけや‼」
声を大にして言う治くんの声が教室中に響いた。それと同時に私は頭を抱える。
私の高校三年間の目標は、達成するどころかぶっ壊れました。
.
.
.
…ダメだ、まったく集中できない。
これは周りがうるさいとかそういうことではなく、私の気持ちの問題で集中できていないだけ。まあ、その〝原因〟は、私ではないのだけれども。
とにかく、私の平和な高校生活が終わってしまうと思うと悲しくて仕方がなく授業にも集中できない。もはやこの感情を悲しいだけで表すことなんてできるはずがないし、私が許さない。
嗚呼、今までは本当に幸せだった。幸せって失って初めて気付くんだと実感した。今までありがとう、私の平和な日々よ。
静かな教室に先生のプリントを配る聞きなれた雑音だけが響く。
回ってきた一枚のプリントを取ろうと引っ張るとなぜかスルッと手から抜ける。またか、とは思いながら念のため強く引っ張ってみるが抜けない。もうこれ以上引っ張ると破れてしまう。
(……なんだこいつ。)
口が悪いけど心の中だからもう一回言わせて。
なんだこいつ。
それに、これは今回が初めてなわけじゃない。黒板見えないし、たまにプリント回ってこないし、プリントくしゃくしゃな時もあるし、落書きされてる時だってあるし、黒板見えないし。
でも今回のパターンは今日が初めてだ。先生達がプリントを配る回数が増えれば増えるほど、彼の落書きの種類も手渡すパターンも無限に増えていく謎の嫌がらせ製造機と化してスペックを上げていく。
こいつは自分が原因だということを理解していないのか。
いじめか? いじめなのか? 私は君の前世でも親殺したのか? もしかして私は前世で連続殺人犯でもやってたのか? それは悪い、私が普通に悪い。悪かった。だから――。
「あのー、角名くん離して…」
角名くんの頭の後で〝早く取れ〟と言わんばかりにヒラヒラと揺れるプリントを手に取ったが抜けるはずがない。まるで彼の手の平にいるような気分だ。
最終的に呆れた声でそう言うと当然プリントが宙を舞う。私の手からプリントが消えたかと思えば、角名くんが振り返り、持っていた一枚のプリントと自身の腕を私の机に容赦なく置く。
「じゃあ、俺の質問に答えてくれる?」
「…いやだ」
「それさ、本当に喧嘩止めたら殴られたの?」
私に軽く指を差しながら言う。
彼に話が通じないのは知っていた。もう何も感じないほどに。
今朝の騒動に加え昨日の出来事までも何の躊躇もなくほじくられ、ピキッと頭が痛いほど鳴る。
昨日の放課後、先輩達二人と治くん達と私しかいなかったにも関わらず、なぜ角名くんが知っているんだという疑問が浮かんでくるが、そういえば三人はグルバレー部だったことを私はすっかり忘れていた。
「…殴られたというか、思いっきり当たった。はい、前向いて」
授業中だったこともあってか私はすぐに返答すると軽く角名くんの肩を押し前を向くように催促した。
クラスで喋りたくない人ランキング、第二位の角名倫太郎くん。どっちかって言うと、喋りたくないというより、関わりたくないと言った方が正しい。口止めをしておくんだった。と、降り積もる後悔をキリキリと拳に込めていった。
「なんでよ、いいじゃん」
「い゛た゛…ッ!!?」
そう言いながら湿布の張ってある頬へ手を伸ばした角名くん。
ピンポイントで痣のある場所を思い切り押され、思わず口が開き私の声が授業中の教室に響いた。
私だってまさか怪我しているところを触るような無慈悲な人間だとは思ってはいなかったけど、そのまさかだった。相当イカれた思考回路をしている。道徳の欠片も感じられな角名くんの行動に私は彼の人間性を初めて疑った。
それに、……関わりたくない。言ったそばからこれだ。
角名くん好きって言ってる女子は絶対騙されてる。まだ遅くない、目を覚まして。
角名くん好きって言ってる子はきっと絶対に変な性癖を持った女子たちに違いないけど、私は生憎変な性癖なんて持っていないし、MでもドMでもない。
「水田大丈夫かー?」
「だ、大丈夫です…、授業続けてください…」
湿布の張ってある方を押さえながら机にうずくまりジンジンとくる余韻に耐えながら震えた声で言う。
こいつ力の加減ゴリラなのか。か弱い女にすることじゃないよこれ。
一方、角名くんはいつの間に自分の机にうずくまってプルプルと震え笑いを堪え、加えてクラスの皆もクスクスと笑いが漏れた。
もう、本当に嫌だ。今日ほど消えていなくなりたいと思った日はない。というかもう二度と来ないだろうし、来ないことを祈る。
出来ることならお母さんの子宮から人生やり直したいです。
六時限目の授業が終わり、とうとう恐れていた放課後が来てしまった。
まだ教室には部活に行く人達や喋っている人達で溢れている。そんな中、約一年間守り抜いてきた目標をぶっ壊されようともひっそり紛れ込んでいるのがこの私。
……嗚呼、帰りたい。バイト行きたい。もうこっそり帰っていいかなホントに。
そう思う私はカバンを持って、こっそり後ろのドアから脱出を試みる。
「どこ行くの?」
もちろん案の定グルの角名くんに止められましたよ。しかも狙っていたかのようにドアの前にいて私を止めてるんですよね。角名くんって空気読めないのかな? 嗚呼、読めてるから今目の前にいるのか。私が読めって感じだよね。ほんとすみません。もういい。もうなんか分かってたもん。どこ行くの?って声かけるのはいい、でも腕を掴むのは本当にやめてほしい。わかった、わかったから。早く手を離して、手を。逃げないから。神に誓うから。お願いなんでもするから。
「えっと、トイレに…」
「カバン、必要?」
「…」
「…」
すると何事もなかったかのように角名くんはすんなりと私の腕を離す。
「治、ゆきのさんもう行くって~!!」
「ちょっとっ!!」
声を大にして言う角名くん私は咄嗟に腕を伸ばし慌ててその口を塞いだ。前言撤回。全く良くないです。
今、喋りたくない人ランキング一位の治くん抜いて一位になったよ。おめでとう。
角名くんの口を塞いでいる私の手首を掴まれ離される。……無駄に見下ろされてなんか腹が立つ。
「そう? ほな行こか。」
「あ、うん…」
治くんが自身のカバンを背負い、言い争っていた私と角名くんの間を通って教室を出ると私は仕方なくその後を追った。クラスのニヤニヤとした視線を浴びながら教室の廊下を通り階段を上がる。その間に、会話は一切ない。
すれ違う人たちの視線が痛い。
それそうだ、あんな勘違いされたら気まずくもなるし、ならないわけがない。複雑な気持ちではあるけど、治くんの性格からしてそんなことをするような人ではないことは分かっている。周りの人たちで結構偏見持たれ気味だけど、治くんはかなり常識人だ。角名くんと違って。
「…あのさ」
「…う、うん」
「なんで角名ついて来とるん?」
「わ、私もよくわかんない…」
朝、治くんに言われた通り第二学習室に来た私達。戸を開けて中に入るとそこには既に先客がいた。
昨日の先輩と治くんとそっくりな双子の侑くんだ。……と、もれなく私の後ろに角名くんのおまけ付き。
「というか角名なんできたん?」
「なんか面白そうだったから」
治くんの質問に角名くんがわざとらしい小声でそう答える。
…いや、聞こえてますけど。面白いってなんだ。むしろここまで来たら侑くんよりほぼ全部角名くんのせいなんだけど。
「えっと…水田さんやったっけ?」
「はい…?」
「昨日はごめんなうちの部員が嫁入り前の娘に怪我なんてさせてもうて」
ああ、私多分今ならこの先輩に恋してきた女の子達の気持ちがすごいわかる気がする。だってもうどっかの誰かさんとは月とスッポンくらいの差があるんだもん。
「え、いえいえそんな! とんでもないです!」
「…あの、水田さんのこ、この度は、大変申し訳ありませんでした!」
「すいませんでした!」
バッと二人揃って頭を下げる侑くんと治くん。
「あの、あとこれうちのおかんが…」
そう言って侑くん差し出されたのは紙袋に入った手作りのお菓子だった。綺麗にラッピングされた焼き菓子やタッパーに入ったシフォンケーキなどが敷き詰められている。
…いや、君達のお母さん。一体何者?
このまま侑くん達のお母さんの手作りとは言わず差し出されたら、私はきっとわざわざ焼き菓子店のお店に行って買ってきたんだなと想像するに違いない。しないわけがない。
私のお母さんなんて、この前珍しくチョコケーキを作っていたと思ったらただ周りが丸焦げになってただけだったし。中身はふわふわで美味しかったけど。
むしろ私からしたら、これが手作りということへの違和感がすごい。
「…いいの?」
「ええよ、むしろ受け取ってもらわんとこっちが怒られるからな……」
「あの時は人生で二番目に死ぬかと思ったわ…」
と顔を青ざめながら今にでも震え出しそうに治くん達は口をそろえてそう言った。
いや、本当にあなた達のお母さんは一体何者なの……?
「痣はあんまりいじると治るの遅なるからあんまいじらんといてな」
わざわざそんな後先のことまで心配してくれてる先輩に私はジーンと胸が熱くなる。
角名くんとの態度の差で風邪引きそうなレベルだ。
(…待てよ?)
さっきの先輩の言葉に違和感を抱く。
ああ、と私は思い出したかのように私は後ろにいた角名くんを伺った。当然振り返った私に反応するもどうやら警戒心はゼロのようだ。
私は意地悪気にニヤッと笑うと湿布の張ってある方の頬に手を添える。どうやら察しが付いたのかギョッとした顔で角名くんが私を見る。
そう、今角名くんの脳裏に浮かんでる最悪の状態。正解だ。
「あ、今日授業中角名くんに痣思い切り押されました。……痛かったなぁ」
昨日の状況を見るに、この先輩にあの三人はきっと逆らえないんだろう。
私はあからさまに痛そうに頬をさすり、やってやったと言わんばかりにチラッと角名くんを見た。俯きながらプルプルと拳が震える角名くん。治くんも同様に横目で見ると肘で突きながら「自業自得だぞ」と、小声で言う。本当にその通りだ。侑くんは何のことかと頭に?を浮かべて呆然と立ち尽くしている。
「……角名」
「……はい」
「謝れや」
「すいませんでしたぁ!」
皆さん。〝ピンチをチャンスに変える〟というのはこういうことです。今までやってきたことと、面白半分で付いてきたことを存分に後悔するがいい。
「じゃあ、私バイトあるので……いいですか?」
「時間取らせてすまんかったな…」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「なんや、バイト許可取ってやってんや…どこでやってるん?」
そう、侑くんが問いかけてきた。
稲荷崎高校は学業優先の為、基本アルバイトは禁止だ。
でも学校にアルバイトの許可書を出せばバルバイトはやっていいことになっている。めんどくさいシステムだ。
「…パン屋」
一瞬、その質問には困ったが渋々言い返す。
「ここな辺、沢山あるやん」
遠まわしに言われた治くんの質問。意味は、もちろん分かっている。けど、関係ないよね。私がどこでバイトしてようと。
「……とにかく、もうこれっきりにしましょう。昨日あったことも、今日あったことも。…全部忘れて下さい。これ以上目立ちたくないんです、必要な時以外喋りかけないでもらってもいいですか。」
「あれ? まだ諦めてなかったの?」
「当たり前です…じゃあ、もういいですか。…おかし、ありがとうございました」
私は返答を待たず教室を後にした。
どちらかと言うと、……家族以外の人とはあまり深い関係になりたくない。と言った方が誰も傷つかないからそう言っておくことにする。
別に人の好き嫌いはないし、容姿で仲良くする人を区別するようなこともない。
言ったでしょう、コミュニケーションは大切だって。
ただ、深く関われば関わるほど、ろくなことになんてならないのは目に見えているだけ――。
――一週間後。
あれから侑くんと治くんとは喋っていないし、角名くんの地味な嫌がらせはピタリと止んだ。それはもう逆に怖いくらいに。
「…無理や」
……そしてこれは一週間ぶりの出来事でもある。
下駄箱へ向かう廊下の角を曲がろうとしたとき、運動着姿の侑くんが視界に入り咄嗟に身を引っ込めた。もはやこんな出来事、あの時に比べたら断然こっちの方がいいけどね。
(部活中だったのかな)
どうやって通ろうかとブレザーのポッケに手を突込み背を壁に預けて意外と真面目に考えていたのもつかの間、目元を押さえながら私の前を横切った女の子がひとり。上履きの色からして一年生の女の子だった。
曲がり角にいた私なんて押さえた目元なんかで見えるはずもなく、目の前を走って通り過ぎてしまう。
(結構かわいい子…)
「…盗み聞きなんてええ趣味やな」
曲がり角の向こうから聞こえた言葉は明らかに私に向かって言っている言葉だった。バレてないと思ってたんだけど。
「道がこんな状態だったら、通れる道も通れないよ」
「…まぁ、せやな」
「…じゃあ、私、バイトなんで」
前のこともあってか、少し居心地が悪く、私は侑くんには目もくれず足早にその場を後にした。
.
.
.
「…………あれ、」
バイト先の更衣室で着替え終わった後、ブレザーのポッケやカバンを漁るがどこにもバイト先のネームが見当たらない。確かに教室から出るときブレザーのポッケに入れていたはずだ。
一体どこで 落としたんだろう。落とした音もしなかったし、感覚もなかったはず。
ひとまず髪をまとめ、赤のギンガムチャックの柄をした三角巾、ブラウンのエプロンを身に着ける。予備のネームを書き換えて代用してその場を後にするとカウンターへ向かいパートの中島さんと交代する。
「お、おはようゆきのちゃん。早速だけどこのパン焼き立てだから札と一緒に並べておいて」
「おはようございます。わかりました」
トレーいっぱいに置かれた焼き立ての塩パンを持ってトングで棚へと移す。
カランカランとお店のドアが開ける音を合図に、私はいつ通りに仕事をこなした。
――十八時四十分
「ゆきのちゃん、念のためだけどこれも追加しといて~」
「はーい」
バイトが終わるまであと二十分。
お店は二十時まで営業しており、林檎の木をテーマにしたパン屋〝Pobreadポブレッド〟は店長の個人営業だ。
この時間帯は帰宅途中のついでにとお客さんが良く来るらしい。あとはセールを狙いに来た主婦や他校の生徒がほとんど。稲荷崎高校の生徒があまり来ないと言うも私からしたらポイントが高い。
休日になると、隣のカフェスペースと合体するシステムになっている。
稲荷崎からさほど遠いわけでもないが、いわゆる知る人ぞ知る隠れ家のようなカフェだ。有名になってほしいような、でも自分だけが知っておきたいような、そんな感じだ。
いつもは片付けのラストまで居るが、今日は上がり方面の電車が遅延しており客足が少し滞っている。だから人手が足りているらしく早めに上がっていいと店長が言ってくれたのでお言葉に甘えることにした。
時給は他のチェーン店よりは高くないが店長はすごく優しいし、それに楽しいし、苦ではない。理不尽なクレームもないしなんだかんだ一年生の頃からずっと続けている。
(そういえば、またアルバイト募集するとか言ってたっけ…)
出入口のトングとトレーを補充しているとカランカランとまた店のドアが開く音が響いた。
「いらっしゃいま…」
「あ…、どうも」
振り返ればそこには見覚えのある顔。…そう、さっきぶりの宮侑くんだ。
時間帯的に部活終わりだろうか。あれ、私バイト先言ってたけ? …いや、私に限ってそれはない。
じゃあなんで…
「あの、水田さん…これ。落としてったで」
そういって私に差し出したのは失くしたと思っていたバイト先のネームだった。もしかして、ポッケから手出したときに出ちゃったのかも。
嗚呼、なんで気が付かなかったんだ。とんだ失態だ。私としたことがちゃっかりバイト先を知られてるじゃん馬鹿が。
「あ、ありがとう」
そう言ってはいるが両手がトレーとトングで塞がっていたのを察すると、侑くんは黙って私のポッケに入れてくれた。
「ここでバイトしてたんやな。…ここのパン美味しいよな」
「…食べたことあるの?」
「おん、おかんが買ってくるで」
「…そうなんだ」
侑くんの話に「多分午前中だな」と、心の中でつぶやいた。
〝『――無理や』〟
残りのパンを並べていると、ふいにあの時の言葉を思い出す。
「…もっと、いい言い方なかったんですかね?」
「なんや、急やな」
「…まぁ、…女の子泣いてましたよ」
「…うれしいけど、俺のバレーの邪魔する女は嫌いや」
「…そうなんだ」
「おん」
相変わらず気まずい空気が流れる。ごまかすように黙々と棚にパンを移すと最初に沈黙を破ったのは侑くんだった。
「お姉さん」
当然そう口にする侑くん。ここからは、客と店員。そんな境界線を軽く引かれた感じ。
(…それって、私のこと?)
持っていたトングを自分に向けて首を傾げるとどうやら私みたい。まあ他に誰かいるんだって話なんだけど。
「おねぇさんのおすすめは何? 買ってくわ、悪いことしちゃったしな。」
「…あそこにある塩パン。すごくおいしいの。私はあのパンが一番好き。……試食する?」
「いいん?」
「いいよ、まだ食べたことないの?」
「おん」
トレーとトングを台所に戻しに行くと手袋を手に付けながらホールに戻ると、塩パンをちぎり侑くんに渡した。
「…うま」
「でしょ? 表面はカリカリ、中はバターが効いてほんのり甘くてふわふわなの。甘さは林檎でほとんど加えてるから糖質も低いの。私は、この店ではあの塩パンが一番美味しいと思う」
「…そのマスクええな」
「…え?」
侑くんが指さしたのは透明なフィルターで加工されたマスク
「マスクリアっていうの」
「ははは、そのまんまやな。それに初めて見たわ、笑ったところ」
侑くんの言葉に私は思わずえっ、と声が出てしまう。
…そうか、侑くんは治くんと角名くんとは違って別クラスだからあんまり合わないんだった。…てっきり毎日真顔で生活していたのかと思ったけど、…いや、私ならしかねないかもしれない。
「笑った方がええで、そんなら毎日楽しくなる。それに、笑った方が可愛ええよ。」
「あ、そうですか」
「あれ、そこはキュンとする所やろ」
「はいはい、キュンキュン」
「そういうことちゃうわ! …まあ、最初に会った時があれやったしな」
「あれは、…勝手に涙が出るほど痛かったんです」
「でも顔の痣消えてよかったわ。あ、これ四つ買うわ。」
「わかった。全部で四百円ね」
お店に備えてある、トレーを手に取り塩パンを四つ取るとカウンターへ持って行き、いつものように手際よく包んで会計を済ませていく。
「ゆきのちゃん、そろそろ十九時だから上がっていいよ。今日もありがとね。」
「はーい」
「なんや、バイト終わりなん?」
「うん、シフト十九時までだから」
「そんならもう暗いし送ってくわ」
「え、嫌だ」
「なんでや! 暗いし女の子一人危ないやろ!」
「いつも普通に帰ってるし」
「…ええから、外で待っとるで」
そう言って私の返答も聞かずにカウンターに置いた紙袋を乱暴に持っていくと侑くんはお店を出て行ってしまった。
そしてバイトから上がり裏口から出て、お店の前をチラッとお店の前の電柱には侑くんが背を預けてスマホをいじっていた。
……それを良いことに声もかけず速足で前をとおりすぎようとしたら、まあ案の定見つかったよね。
「ゆきのちゃんばいばーい!」
「またね~!」
「うん、じゃあね~」
翌日の放課後、最後に残っていたクラスメートが教室を出る。開いたままの窓からは、校庭でランニングする運動部の掛け声と隣のクラスの笑い声が聞こえる。
今日はバイトが始まるのがちょっと遅いから、時間まで教室で課題でもするつもりだ。
〝『笑った方がええで』〟
ふと侑くんに言われた言葉を思い出す。
私、普段そんなに怖い顔してるのかな…?そんなこと言ってしまったらさっきちゃんと笑ってたかも危うくなってくる。
なんだか不安になってほっぺを叩いたりつねったりしてみるが、いや、でもここの筋肉はさっき使った覚えがあるなと、うんうんと頭を悩ませる。
「…なにしてんの」
よくよく考えればここで気づくべきだった。ここはまだ学校だと。
……完全に見られた。しかも最悪な奴に。私くらいのエキスパートになればこんな声、顔なんて見なくてもわかる。顔から手を離しシャーペンを握る。……続きの課題をやろう。
「いや、なに何事もなかったかのようにしてんの」
「…」
これは、相手にしたら負けだ。今思えば、何気一週間ぶりの角名くんな気がする。案外早く終わった平和な日々。………昨日は例外として。
「…聞いてる?」
「…」
何しに来たのか分からないけど、学校指定じゃない運動着で短パンのまま教室に入ってくる。
…確かもう部活始まってるよね。ほんとに何しに来たんだろう。
「ねぇ」
すると私の机の前に立ち、持っていたシャーペンを奪われる。すぐに筆箱から新しいシャーペンを取り出すと、そのシャーペンも筆箱もノートも問題集も没収され、前の席の角名くんの机に全て置かれてしまう。
……もういじめじゃん。むしろ、いじめ以外に何がある。
何もするすべもなく、諦めが付いた私は目の前に立っている角名くんへ視線を向けた。
「俺に構って貰えなくてさ、毎日つまんなくない?」
一体何を言っているんだか、私は角名くんの質問に対し迷いなく口を開いた。
「いいえ全く。むしろせいせいしてる。」
「お前俺が前の席だってこと忘れてるでしょ」
「こっちはプリント回す権利持ってんだぞ」と言いながら角名くんは自分の机の引き出しを漁り始める。手に取ったのは〝バレー用〟と書かれたノートだった。
忘れ物を取りに来ただけだと知りそれならここに長居はしないな。とほっと肩を撫でおろす。
「俺はつまんないけど」
「あぁ、そう」
そう角名くんは呟くと取り上げた私の私物を何事も無かったかのように机に置いた。証拠になぜか無理やりシャーペンを握らされ持たされる。教室から出ようとする角名くんに、自分でも聞くはず無かったことが口から出てしまった。
「ねぇ、私って笑ってないのかな?』
あっ、と後になって声が出た。しまったと。
それはもう、今後の展開次第で過去一の失態になってしまうくらい。だって彼は危険人物なんです。何をしでかすか分からない。
「なんだ、質問? …珍しいね」
「…まあ」
角名くんが口角を上げて言う。
ああ、絶対悪いこと考えてるよこれ。
「…まあ、普通だよ。別に他の人と喋ってても普通に笑ってるし。」
「ぁ、そうなんだ」
「ただなんか、一人でいるとオーラが違う。ずっとこーんな感じだし。」
「なにそれ、私の真似? 殴るよ。」
「ははは、できるといいね」
角名くんは髪の毛を顔の前に引っ張り一生懸命伝えてくれる。
おそらく私の真似だろうけど、私そんなに前髪長くないし。あと多分ちょっと馬鹿にしてる。いや、ちょっとじゃないな、かなり馬鹿にしてるなコレ。
それに、……なんか思ってたより真面目に答えてくれたことにびっくりした。って言ったら多分、普通に怒られると思うけど。
「…お礼は?」
「ありがとう。パンいる?」
「いや、なんでそうなんの」
「おいしいよ」
そう言ってカバンからゴソゴソと取り出したのは林檎の木が描かれた紙袋。中には塩パンが一個入っている。もちろん食べかけなんかではない。
「あ、そのパン屋美味しいって聞いたよ」
「あ、そうなんだ…」
…なぜか心当たりある者が一名おります。
そういえば口止めするの忘れていた。でも角名くんを見るにはまだ知られたくない所は知られてない。
もしかすると侑くん意外とそんなベラベラ喋っちゃうような人じゃないのかも。見た感じ明らかに犬系男子っぽいし勢いで喋っちゃいそうなのに。
「ありがとう。じゃあね」
差し出せば受け取りに来てお礼を言う角名くん。思っていた以上に何事もなく、その後は手を振りながら教室から出ていく。
(あれ、おかしいな)
私は教室の戸を見つめたまま呆気に取られていた。いつもの角名くんだったら、もっと、こう、意地悪をしてくるはずだ。彼はそういう人間なんだ。それなのに今日はやけに大人しい。それはまるで嵐の前の静けさのようなくらい不気味な感じで逆に気味が悪くなる。
……もしかして今日、地球終わる?
コメント
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面白い! 続きみたいです
続き楽しみです!