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籠の中の楽園
序章
目を開けると、やわらかな毛布の匂いが鼻をくすぐった。
外から差し込む朝の光は淡く、白いカーテン越しにぼやけている。
「……おはよう」
低く静かな声が耳元で響く。振り向くと、そこには飼い主が立っていた。
彼はいつも通り微笑み、手に持ったマグカップから湯気を上げている。
その笑顔は優しいのに、逃げ道を塞ぐような確かさがあった。
「ちゃんと眠れた?」
小さくうなずくと、そっと髪を撫でられる。
その仕草は温かいのに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
この部屋は心地いい。
食事もあり、寒さも暑さも知らずに過ごせる。
ただひとつ──ドアには鍵がかかっていて、外には出られない。
カーテンの向こうの朝の光は、まるで別の世界のもののようだった。
「朝ごはん、用意してあるよ。……ほら、こっちへ」
手を差し伸べられ、その温もりに引き寄せられる。
僕は今日も、この籠の中で一日を始める。
第一章 触れる理由
食卓には香ばしいパンと温かなスープが並んでいた。
湯気の向こうで、飼い主はゆっくりとこちらを見つめる。
「熱いから、気をつけて」
そう言ってスプーンを手に取るが、それを僕の前に置くことはなかった。
代わりに自分の手で口元へ運んでくる。
「……自分で食べられる」
そう告げても、彼は首を横に振った。
「知ってる。でも、こうして食べさせたいんだ」
指先が唇に触れる。
スープの温かさよりも、その手の温もりが強く残る。
黙って口を開けると、彼は満足そうに微笑んだ。
食事の後、顎をそっと持ち上げられる。
「ほら、ちゃんと見て」
その瞳はやさしい色をしているのに、奥底にあるものが何なのかはまだわからない。
ただ、逃げられないように首を支えられていることだけは、確かだった。
第二章 夜の檻
夜は静かで、息をする音まで響く。
毛布に包まれた身体は、昼間よりも敏感に温もりを感じてしまう。
「眠れないの?」
低い声が耳元に落ちる。
首を振ろうとしたけれど、その動きを彼の手が止めた。
指が喉元をなぞり、鎖骨のあたりで留まる。
「大丈夫。怖がらなくていい」
優しい声なのに、胸がざわつく。
前髪を払うように頬に触れられ、その指先は冷たく、やがて熱を帯びた。
「……こうしていると、君が僕のものだって実感できる」
拒むための言葉は見つからなかった。
毛布の中で指先が喉から胸元へ、そしてさらに奥へと忍び込む。
触れられるたび、身体の奥で何かが軋むように揺れた。
僕はただ、闇の中で彼の手に捕まったまま、夜が終わるのを待った。
第三章 鎖の音はしない
朝、目を覚ますと、僕はまだ彼の腕の中にいた。
昨夜の温もりが、まだ肌の奥に残っている。
「……おはよう」
耳元の声は命令のように響き、逆らえず小さく返事をする。
髪を梳く指が耳の後ろをなぞる。
それは逃げられないことを確かめる儀式のようだった。
「今日もいい子でいるんだよ」
言葉はやわらかいが、背中に冷たい重みが落ちる。
いい子でいなければ、優しい籠は檻に変わる。
部屋の隅には昨日までなかった花瓶が置かれていた。
白い花が水面に影を落としている。
「君に似合うと思って」
その笑みは、いつもより深かった。
鎖も鍵もないこの部屋。
けれど、僕はもう自由になれない。
第四章 籠の鍵は心の中に
夜、雨が降っていた。
窓を叩く音が、鼓動と混ざり合う。
ソファに座る僕の背後から、温もりが近づく。
「寒くない?」
毛布ごと抱き寄せられる。
抜け出そうと思えばできるのに、その腕は恐ろしく強く感じられた。
「外の世界は冷たいよ」
耳元の囁きが胸に沈む。
「ここにいれば、君はずっと守られる」
優しいのに命令のようだ。
頬から首筋、鎖骨へと手が滑り、そこで止まる。
「……もうわかってるよね」
僕は声を出さずにうなずく。
雨音が遠のき、この部屋だけが別の世界になった。
その瞳の奥にあるのは、愛とも執着とも呼べないものだった。
鍵は外ではなく、僕の心の奥深くに嵌められている。
最終章 檻の中の楽園
朝、窓の外は青く澄んでいた。
その美しい空を見ても、もう胸はざわめかなかった。
かつては、この窓の外を夢見ていた。
今は、ここで目覚めることが当たり前になった。
「おはよう」
その笑みを見るだけで、静かな安堵が広がる。
「今日は何をしたい?」
「……あなたと一緒に」
どこにも鎖はない。
鍵もない。
でも、僕は出ようとは思わない。
外は冷たく、無慈悲で、孤独だ。
ここは暖かく、満たされ、そして甘い。
たとえこれが檻でも、僕にとっては楽園だ。
「ずっと、ここにいようね」
僕は笑ってうなずいた。
それが永遠の約束になった。
エピローグ 掌の中の小鳥
最初に見たときから、この子は僕のものだとわかっていた。
孤独な瞳が、僕を捕らえた。
外に返せば傷つく──そんなのは許せなかった。
僕が与えた食事も、毛布も、甘い言葉も、すべて檻の一部だ。
ゆっくりと外の光を忘れさせ、僕の手の中でしか眠れない身体にする。
そして今、ようやく完成した。
この子はもう、自分から檻に戻ってくる。
鍵はどこにもないが、開ける必要もない。
掌の中の小鳥を、永遠に飼い続ける。
たとえ世界が壊れても、離すつもりはない。
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