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#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
その夜、勇斗は眠れずにいた。
窓を開けると、昼の熱を手放した乾いた風が、カーテンを小さく膨らませた。
ベッドの縁に腰掛けたまま、この数日のことを、何度目か分からないほど頭の中でなぞっていた。
廊下で、仁人が声を荒らげた夜のこと。
一度も聞いたことのない声だった。
勝手に決めつけないでください。俺が何を考えてるかなんて、勇斗さんには関係ないでしょう。
あれは拒絶だった。
静けさを、穏やかさだと思っていた。
何も言わないのは、不満がないからだと、そう思い込もうとしていた。
拒まれなかったことを、望まれていることだと、取り違えていたのではないか。
控えめなノックの音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
扉を開けると、仁人が立っていた。
「……夜遅くに、すみません」
「いや。入れよ」
仁人は、少しだけ視線を逸らしたまま、部屋に入った。
「この前のこと、一応、謝っておこうと思って。言い過ぎました」
「謝るようなことじゃないだろ」
「……そうですか」
それきり、会話が途切れた。
勇斗がベッドの縁に腰を下ろすと、仁人は少し迷ってから、手のひら一つ分ほど離れた隣に座った。
沈黙が、部屋の中にゆっくりと溜まっていく。
仁人は、この沈黙に耐えられない人間だった。
仁人の手が伸びて、勇斗のシャツの襟元に触れた。
指先が、確かめるように、鎖骨の上をなぞる。話はもう終わりにしましょう、とでも言うみたいに。
三年間、何度もあった流れだった。
勇斗の手は、考えるより先に動いていた。
仁人の後頭部へ、髪の中へ。指が、覚えている通りの場所を探り当てる。
「……勇斗さん」
名前を呼ぶ声に、顔を上げた仁人が、笑った。
口の端だけが上がって、目は笑っていない。
大丈夫ですよ、と言うみたいな。嫌じゃないですよ、と言うみたいな。
そして、本当はどうなのか、一度も問わせないための笑顔だった。
三年間、何度も見てきた。いつも、その笑顔の前で、何も聞けなかった。
聞いてしまえば、笑顔の下にあるものが零れてしまう気がして。
困らないで、と思った。
そんな顔で、笑わなくていい。
指が、止まった。
勇斗は、仁人の後頭部から手を離し、襟元に触れていた仁人の手を、そっと握った。
握って、膝の上に下ろした。引き離すのではなく、ただ包むように。
「今日は、やめよう」
自分の声が、思ったよりも静かに響いた。
拒まれなかったことを、望まれていると取り違えていたこと。
閉じ込められているから残るのではなく、自由でもここにいたいと言った、あの物語のこと。
そして何より、触れることが、自分にとって、いちばん簡単な答え方だったこと。
体は、手に入っていた。
夢みたいな夜を、三年間、重ねてきた。
夢のようにきれいで、朝になれば跡形もなく消える夜を。
けれど、本当に触れたかったのは、夜が明けたあとも残る、仁人そのものの方だった。
それなのに、そう願うことだけを、三年間、後回しにしてきたのだ。
止めれば、仁人は帰ってしまうかもしれない。
今ここにある唯一のものを、自分から手放したのかもしれない。
膝の上で握った手が、わずかに震えていた。
仁人は、何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
冷たいものが、胸の底にすとんと落ちた。
体は、自分が求められている唯一の証だった。
それが、取り上げられた。いらなくなったのか。
あの最初の朝、何かを言いかけて黙り込んだ顔が、よみがえる。
後悔の顔。なかったことにしたい、という顔。
「……そうですか」
笑顔のまま、そう返していた。口の端だけが上がった、いつもの形。
けれど、握られた手は、離れていかなかった。
包む手だった。
拒絶されたはずなのに、拒絶された感触が、どこにもない。
それが、仁人をひどく戸惑わせた。
触れ合うという筋書きを失ったとき、手の置き場さえ分からなくなる。
何を言えばいいのか、どこを見ればいいのか、分からなかった。
三年間、触れることで、どれだけ話さずに済ませてきたのかを、初めて思い知らされた。
「……隣にいてくれたら、それでいい」
勇斗が、ぽつりと言った。
仁人は、返事をしなかった。
ただ、立ち上がらなかった。それが、精一杯の返事だった。
しばらく、二人は何も言わずに並んで座っていた。
いつの間にか、勇斗の呼吸が、規則正しいものに変わっていた。
疲れ切っていたのだろう。座ったまま、ゆっくりと横に倒れ込むように眠っていた。
握っていた手が、そっとほどける。
仁人は、しばらくその寝顔を見ていた。
こんなふうに無防備な顔を見るのは、あの最初の夜以来だった。
夜が明ける前に、帰らなければ。
それは、考えるより先に出てくる、いつもの思考だった。
朝になれば、目を覚まして、また何かを言いかけて、黙り込むかもしれない。
あの顔を見るのが、怖かった。
仁人は、勇斗の体に毛布をかけた。
それから、テーブルの上のグラスに水を注いで、枕元に置いた。
扉の前で一度だけ振り返ってから、仁人は静かに部屋を出た。
目を覚ましたとき、窓の外は薄く白んでいた。
隣には、誰もいなかった。
毛布が、肩まできちんとかけられている。枕元に、水の入ったグラスがあった。
勇斗は、しばらくそれを見つめていた。
また、朝までいなかった。
三年間、仁人が朝まで残ったことは、一度もない。
それを、これ以上は望むな、という答えなのだと、三年間、受け取ってきた。
けれど、枕元のグラスは、その読み方を、ほんの少しだけ揺らがせた。
グラスに口をつけると、水は、ぬるくなっていた。
それでも、最後の一滴まで、ゆっくりと飲み干した。
コメント
1件
「触れることで話さずに済ませてきた」という一文に、胸がぎゅっとなりました。勇斗さんが「今日はやめよう」と手を握った瞬間、三年間積み重ねてきた触れ合いの意味がそっと反転していくみたいで。そして最後の水のグラス——「ぬるくなっていた」と「最後の一滴まで飲み干す」描写に、二人の関係のこれからがほんのり見えた気がして、じんわりしました。繊細で優しいお話をありがとうございます🌷