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#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
撮影日程はすべて終え、残すは、明日のサマルカンドへの移動と、最後の撮影だけだった。
勇斗は「土産、少し見てくる」と言って、一人で市場へ向かった。
老人の言葉を頭の片隅に置いたまま、露店を一つずつ覗いていく。
市場の隅、布を敷いただけの台の上に、小さな硝子瓶が十本ほど並んでいた。
日に焼けた顔の老女が、片言の英語で、村で作った香油だと言う。
蓋を開けてもらうと、サフランとカルダモン、その奥に薔薇と乳香の香りがした。
ブランドの香水よりずっと素朴で、土の匂いがした。老女は、勇斗の手首に指先でひと撫でして、笑った。
あの男は、この香りを、他の誰にも嗅がせたくなかった。縛りたかったのだ。
勇斗は、財布を開いた。
何のために買うのか、自分でもうまく説明がつかなかった。
渡す理由も、渡す資格もない。
あの夜の始まり方を盾にして、肝心なことを何ひとつ言わずにきたのは、自分の方だった。
それでも、手首の香りが消えないうちに、小さな瓶を、鞄の底へ滑り込ませていた。
夕食のあと、いつものような誘い方ではなく、勇斗は改まった様子で仁人の部屋の扉を叩いた。
「──ちゃんと、話したいことがある」
仁人は、少し警戒した面持ちで扉を開けた。
「……なんですか」
「座って聞いてくれるか」
仁人が戸惑いながら腰を下ろすと、勇斗は、しばらく言葉を選ぶように沈黙してから、口を開いた。
「──嫌なら、もう終わりにしよう。無理に続ける必要なんて、どこにもない」
仁人は、すぐには返事ができなかった。
静かな声だった。
「それに、ずっと言えずにいたことがある。あの最初の夜、俺は酔ってた。酔った勢いで、お前に手を出した。それを、ちゃんと謝ったことすら、一度もなかった」
「……今さら、何を」
「謝って済むことじゃないのは分かってる。ずっと引っかかってた。酒のせいにして、自分から踏み込んでおいて、その後も──独占欲で、お前を手放せずにきた。体だけでも手元にあればいいって、思おうとした。でも、会うたびに手放せなくなって、キリがなかった。都合のいい話だってことくらい、分かってる」
三年間、自分に言い聞かせてきたことがあった。
あれは、酒のせいで起きたことの延長。
拒む隙もなかった、仕方のないことだったのだと。
けれど今、勇斗の口から語られたのは、まるで違う輪郭だった。
酔っていたのは、確かに勇斗だった。
それでも、拒まなかったのは、自分の意思だった。あの夜、拒もうと思えば、拒めたはずだった。
──本当は、拒みたくなかったんじゃないのか。
せっかく、蓋をして、目を逸らし続けてきたのに。
「──だから、仁人がどうしたいか、ちゃんと聞きたい」
「今すぐじゃなくていい。けど、教えてほしい」
勇斗は、それだけ言うと静かに立ち上がって、部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人残された部屋で、仁人はしばらく、動けずにいた。
縛られている、ということにして、ずっと自分を納得させてきた。
体だけでいい、と決めたはずだった。
求められているのは体だけで、気持ちを口にすれば、面倒がられて終わる。
──トドカナイ。
体が手に入っても、肌を重ねても、その奥にある心には、一度も指先が届いた気がしない。
届かないものだと決めつけて、手を伸ばすことさえ、やめていた。
そして今、自由を差し出されたことで、これまで当たり前のようにあった関係が、体温が、急に遠ざかっていこうとしている。
終わらせていいと言われた瞬間、はじめて気づいた。
失うかもしれないという事実の方が、ずっと怖い。
「──じゃあ、俺は」
誰もいない部屋で、仁人はそう呟いた。
縛っていたはずのものが、はじめから存在しなかったのだとしたら。
それでも、自分はまだ。
コメント
1件
うわあ……今回、めちゃくちゃ刺さりました。 市場で買った香油のエピソード、あれが前半にあって後半に繋がる構成が巧いなと。特に「縛りたかった」という勇斗の独占欲が、あの何気ない仕草で表現されていて、それでいて後半で「ちゃんと謝ったことすらなかった」って正面切って向き合うシーンとの対比が……もう。 仁人が「縛られている」ことにして自分を納得させてきたっていう心理描写、すごくリアルで苦しかったです。「トドカナイ」って呟き、届かないと決めつけて手を伸ばすのをやめてたっていうの、胸が痛い……。 自由を差し出されて初めて「失う怖さ」に気づくっていう、その切なさが最後までずっと残りました。次がすごく気になります!