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第5部 選択
第30章 使える一枚
五月下旬の金曜、午後三時。
羽田の到着ロビーで、仁人は腕時計を見た。
隣で、舜太が落ち着かなかった。
柵の向こうの到着口を、じっと見ている。爪先が、床を小刻みに叩いていた。
「落ち着け」
「落ち着いとる」
「さっきから、何度も電光掲示板を確認している」
「……見んといて」
舜太は苦笑した。
柔太朗が、パリから戻ってくる日だった。
あの女性のアトリエで、共同ラインの最初の一点を作ってきた。指輪を二つ。それぞれの手で。
自分の意志で決めた旅だった。
到着口の扉が開いた。
乗客が、ぞろぞろと出てくる。その中に、細身の長身の影があった。黒のシャツ。小さな鞄。涼しい目元が、こちらを探していた。
目が合った。
柔太朗が少し笑った。
舜太が、一歩前に出た。仁人は、二歩下がった。
「おかえり」
舜太の声は、少し掠れていた。
「ただいま」
柔太朗はそう言って、舜太の前に立った。
言葉は、それだけだった。けれど、二人の間の空気が静かに満ちていた。
舜太は、一週間前の出発の朝にも、ちゃんと言った。行ってらっしゃい、と。
手は白くなるほど握られていた。けれど、言った。行かせへん、とは言わなかった。
「仁ちゃんも、ただいま」
柔太朗が、仁人にも言った。
「……おかえり」
仁人は、少し遅れて答えた。
帰りの車は、仁人が運転した。
三人で動くとき、ハンドルを握るのはいつも仁人だ。後部座席には、舜太と柔太朗。
信号で車が止まる。
ルームミラーに目をやった。
後部座席の、シートの中央。
柔太朗の右手の上に、舜太の左手が重なっていた。中指の、閉じた輪の上に。
あの撮影の日の帰りに見た光景と、同じだった。
ただ、一つだけ違っていた。舜太の右手の人差し指に、細い、開いた輪が光っていた。
あの頃は、隠すことだけが上手くなった。
この三か月で、隠さないことにも、少し慣れた。
信号が青に変わる。
仁人は、視線を前に戻してアクセルを踏んだ。
撮影は、翌週の木曜だった。
都内の貸しスタジオ。白い壁と天井から下がる傘型のライトと、機材ケースの黒。
同じ場所だった。半年以上前の十月と。
「進行表と、NGリストです」
仁人は、編集者に二枚の紙を差し出した。
編集者はそれを受け取って、少し目を見開いた。
「……短くなりましたね」
前回は、NGリストが紙の半分を埋めていた。今回は二行だった。
『居住エリア。最寄り駅。』
それだけだった。
「交友関係はいいんですか」
編集者が聞いた。前回、最初に線を引いた項目だった。
「本人たちが話したいことは、話します」
仁人は答えた。
「話したくないことは、話さない。それだけです」
編集者は、少し考えてから笑った。
「なるほど。……それは、いい線引きですね」
「線は、自分たちで引くことにしたので」
編集者は頷いて、紙を手帳に挟んだ。
窓際に、舜太と柔太朗が並んで立っていた。
ジャケットの舜太。襟の高い黒のシャツの柔太朗。二人の間は、拳ひとつ分。前と同じ距離。
けれど、前とは違って見えた。
仁人は、それが何かを言葉にできなかった。ただ、二人の立ち方が、少し軽くなっていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
勇斗からだった。
『今、向かってます。撮影の終わりには着く』
仁人は返信を打った。
『無理しなくていい』
『無理じゃないです。行きたいので』
画面を見て、仁人は、口の端が上がりそうになるのをこらえた。
取材は、前回と同じ、スタジオの一角で始まった。
二脚の椅子に、舜太と柔太朗。ライターがレコーダーを置いた。
仁人は、二人の斜め後ろに立った。契約で同席が認められている。
「前回は、起業のきっかけを伺いました。今回は、この半年の変化を」
ライターは、手元のメモを見た。
「ヴェルディエとの資本提携。柔太朗さんのパリでの共同制作。……お二人にとって、いちばん大きかったことは」
「そうですね」
舜太が少し考えた。
「隠さんでよくなったことが、増えたことです」
仁人は、心の中で小さく息を吸った。
「隠すですか」
「会社の話やないですよ」
舜太は笑った。
「僕らの間のことです」
ライターは、興味深そうに頷いた。
「前回、お二人は大学時代からのご友人で、と伺いました。休日もご一緒にという質問には、お答えいただけなくて」
「ああ」
舜太は頭を掻いた。
「前回、休日はバラバラって言いましたけど。あれ、嘘でした」
柔太朗が、隣で小さく笑った。
「パートナーですから」
舜太は続けた。
「休日も、たいてい一緒です」
パートナー。
その言葉は、ビジネスの意味にも取れた。共同経営者のパートナー。二人とも、会社を作った仲間だ。
ライターも、そう受け取ったらしい。「仲が、いいんですね」と笑ってメモを取った。
仁人は、前回、この場所でこの質問を遮った。その質問は事前のお約束の外です、と。
今回は、遮らなかった。
舜太が、ちらりと、こちらを見た。仁人は小さく頷いた。
舜太は笑って、前に向き直った。
撮影は、夕方に終わった。
スタジオの奥の、モニターの前。カメラマンが、写真を一枚ずつ送っていく。編集部が選び、企業側が確認する。あの日と同じ手順。
三十枚目あたりで、カメラマンの手が止まった。
「これ、いいでしょう」
二人が並んだカットだった。柔太朗はカメラを見ていない。舜太もカメラを見ていない。
二人は、互いを見ていた。
口元は笑っていた。
「今度こそ、表紙の候補にしたいくらいです」
編集者が言った。
仁人は、その写真をじっと見つめた。
半年以上前、自分は、この場所で似た一枚を外した。
使えません、と。視線がカメラに向いていません、と。理由ならいくらでも言えた。
今日は違った。
「舜太。柔太朗」
仁人は振り返った。二人が、少し離れた場所で待っていた。
「この一枚、出していいか」
二人がこちらを見た。
「お前らで決めろ」
短い間があった。
舜太が、モニターを覗き込んだ。自分と、柔太朗の横顔。
「……俺の顔、柔を見とるな」
「うん」
「めっちゃ見とる」
舜太は笑った。少し照れた笑いだった。
「ええ。隠さんでええ。写真は嘘つかんから」
柔太朗がモニターを見つめた。
「僕の顔も、舜を見てる」
「せやな」
「……いい顔だと、思う」
柔太朗は、静かに言った。
「僕もいいと思う」
仁人は頷いた。
編集者が首を傾げた。
「あの、理由を伺っても」
前回と同じ質問だった。
仁人は少し笑った。
「本人たちが、決めたからです」
編集者は、一瞬目を丸くした。それから笑った。
「なるほど。それは、いちばん強い理由ですね」
仁人はマウスを動かした。
その一枚に、チェックを入れる。
「NG」ではなく。
「OK」に。
モニターの中で、二人の視線が静かに交わっていた。
スタジオを出たのは、夜の七時だった。
搬入口の前は、初夏の夕暮れの色をしていた。空気が少し湿っていた。
舜太と柔太朗は、先に車に乗っている。
仁人は、編集者に最後の挨拶をして、一人で出てきたところだった。
扉の前に人影があった。
「お疲れさまです」
勇斗だった。
シャツの袖を、肘まで、まくっている。
「間に合いました」
「……終わりましたよ、撮影」
「知ってます。終わりの時間に、来たかったので」
「今日は、どうでした」
勇斗が聞いた。
「……一枚、出しました」
「出した?」
「使える一枚を」
仁人は、短く説明した。勇斗は、黙って聞いていた。それから目を細めた。
「……いい判断ですね」
「俺が決めたわけでは、ありません」
仁人は言った。
「本人たちが、決めました。俺はチェックを入れただけです」
「それが、いいんですよ」
勇斗は、笑った。口が大きく開いた。
帰るはずだった、と仁人は思った。車に乗って。二人を送って。
それなのに、足は、この場所に留まっていた。
勇斗の隣に。
遠くで、車の中の二人がこちらを見ていた。
舜太が、ひらひらと手を振った。柔太朗が笑っていた。
仁人は、少しだけ手を振り返した。
何を見せて、何を見せないか。
その線を引くのが、仁人の仕事の、いちばん重い部分だった。
今は、その線を三人で引いている。
隣には、もう一人、いる。
コメント
1件
るりさん、第31話読みました。 「隠さんでよくなったことが増えた」という舜太の言葉が、この話のすべてを象徴しているようでじんわりきました。NGリストがたった二行になったこと、写真の一枚を「本人たちが決めたから」とOKにした仁人の判断——線を引く場所が三人の手に戻っていく過程に、関係性の変化が静かに滲んでいて好きです。最後、仁人が勇斗さんの隣に留まる描写も、新しい空気の予感がして温かくなりました。