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GW明け 5月 放課後グラウンドの土は、まだ少し湿っていた。
GWの合宿から戻って一週間。
新設野球部は少しずつ形になり始めていたが、まだ9人揃わず、練習の合間に翼が毎日グラウンド整備を手伝うのが日課になっていた。
翼は一人でベースの白線を引いていた。
ローラーを押しながら、時々息を吐く。
163cmの華奢な体には少し重労働だけど、誰も頼まなくても自然と手が動く。
そこへ、静かに足音が近づいてきた。
「斉藤……聞いていい?」
翼は顔を上げた。
赤髪が夕陽に透けて、綺麗な顔立ちの真琴が立っていた。
無口な彼が自分から話しかけてくるのは珍しい。
「真琴、どうしたの?」
真琴は少し迷うように視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「翼は俺たちの手伝いをしてくれてるけど……
また、野球やりたいって思わないの?」
翼の動きが、ぴたりと止まった。
指がローラーの柄を強く握る。
胸の奥が、ずしんと重くなった。
「……うん」
翼は小さく笑って、目を細めた。
「もう俺は、投げられないから」
言葉は軽く言ったつもりだった。
でも、声が少し震えた。
真琴は一瞬、何も言えなくなった。
自分が、なんて酷い質問をしたのか。
「またやりたい?」なんて、簡単に聞けることじゃなかった。
「一緒に野球やらない?」って言うべきだったのに。
「……そっか」
真琴は小さく息を吐き、視線を地面に落とした。
「ごめん、変なこと聞いて」
翼は慌てて首を振った。
「そんなことないよ、真琴。ありがと」
笑顔を作った。
いつもの、明るくて世話焼きな翼の笑顔。
でも、真琴にはわかった。
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、影がある。
翼はローラーを再び押し始めながら、
「俺は今、マネージャーやってる方が楽しいよ。
みんなの飯当番とか、ユニフォーム洗うのとか……
結構好きなんだ」
真琴は黙って聞いていた。
翼の横顔が、夕陽に染まって少し赤い。
「……俺も、翼がいてくれて助かってる」
真琴は珍しく、はっきりと言った。
「だから、無理にとは言わない。でも……
いつか、翼がまたグラウンドに立ちたいって思ったら、
俺、待ってるから」
翼は一瞬、息を飲んだ。
「……ありがとう」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
真琴はそれ以上何も言わず、静かにグラウンドを後にした。
翼はローラーを押し続けながら、胸の奥で小さく呟いた。
(投げたい……なんて、もう思っちゃいけないのに)
風が、グラウンドの土を軽く舞い上げた。
遠くから、タクの声が聞こえてくる。
「翼! もう終わりだぞ、休め!」
翼は顔を上げて、いつもの笑顔を作った。
でも、心のどこかで、朝の物干し場の記憶と、今の真琴の言葉が、
静かに絡み合っていた。