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厚手のコートを着始めた頃に作った、私が好きな冬の曲を詰め合わせたプレイリスト。とびきり寒い日の仕事帰りはこれに限る。快速列車に乗り込み、ワイヤレスイヤホンの電源をつける。スマホと繋がったことを確認してから、再生ボタンを押した。流れる音楽を聴きながら、このプレイリストを作ってからもう二か月以上経過していることに驚いた。やはり時が過ぎるのは早いものだ。目線を窓に飛ばすと、山の向こうで消えかかっている夕日が見える。山々の輪郭を黒く鮮明に描き、背景にはぼやけた橙の空が低く帯状に広がっている。あともう少しで、この街は全て夜に染まる。宵の狭間、これこそ黄昏時だ。
以前聞いた話では、「黄昏時」の言葉の語源は「誰そ彼」から来ているという。日が沈み切る前の、太陽の残り香を感じる時。相手の顔が暗がりで分からないため、互いに「誰そ彼」と聞く。その言葉に当て字をつけて、最終的に「黄昏時」になったと。
確かにこんなに暗いと、影で人の顔は判別できなくなってしまうだろう。積もった雪に反射する月光を頼りに勉強したり、蛍の光を集めて勉強した、という話も納得できる。
また、一説には夕方と夜の合間であるこの時間は、異界との扉が開く、とも言われているそうだ。大きな災いが起こる「逢魔が時」という名前があるくらい、当時の人々にとって恐ろしい、不安な時間でもあったのだろう。さらには、夜が明ける時間は、「彼は誰時」と言って、この時間も相手の顔が分からないために「彼は誰」と聞くことからこの名前がついたという。夕方と夜の間、夜と朝の間どちらにも名前を付けているところが、なんとなく日本らしい風情と言葉の奥行きを感じて、私はとても好きだ。
明るい電灯に照らされた車内から、ますます暗くなっていく街に目を凝らす。明るすぎる車内が窓にスクリーンのように映し出される。この時間は、薄暗い外を見るほうが難しい。がたん、と電車が揺れる。見ていた景色から、冬が飽和したような冷たい空気が流れ出て、電車のドアの隙間から入り込む。そして私の足元をくぐり、手元にまでやってきた。冷気に呼ばれたのか、持っていたスマホが身震いする。画面を見ると、昼間送ったメッセージに返信が来ている。最近、この人となんでもない、ありふれた話をずっとしている。普段家族に事務的な連絡をするか、仕事のやりとりのためにしか使っていないメッセージアプリ。こんな風に会話の手段として長々と利用するのは久しぶりだ。先日、偶然会った際に連絡先を交換し、軽くご挨拶する程度にメッセージを送ったところから、いつの間にか今の今まで会話が続いている。私は友達と繋がっているSNSも見ないことが多い。興味がないわけではないのだが、その人のことを知りたかったら直接会う約束を取って、直接その人から話を聞きたいと思うのだ。そもそもスマホで文字を打つのが遅いし、そのせいでいちいち打つのを面倒くさがってしまう。せめて電話した方が話しやすいのだ。
何なら、事前にメッセージも送らずに突然電話をかけて、相手が出てくれたら少し話す、ということの方が多い。きっと相手からしたら中々に迷惑だと思うのだが、ありがたいことに、時間があるときは相手をしてくれる優しい友人に恵まれている。そんな世間と少しずれた人間の私が、こうして細かくメッセージをやりとりしているなんて、自分でも意外に感じる。不思議なこともあるものだ。
でも直近ではさらに通話もよくするようになった。お互いに時間が空いている夜に、変わらず文字を打つのを面倒に感じた私が突然電話をかけるのだ。お風呂にも入って、スキンケアも終わらせて、明日の用意とアラームの設定もして。あとは寝るだけの、一日が終わってゆくその刹那に、電話の時間が挟まれる。そこでもなんでもない話をしているはずだが、深い夜につられて、話題も心なしか深くなっていくような。互いの心に踏み込んでいくような。そんな気がしているのは私だけだろうか。
あの人と過ごす、今日と明日の間の時間。私も先人に見習って、名前を付けてみようかな。そうだ、「夜渡時」なんてどうだろう。今日という日のバトンを、明日の朝へ渡す。黄昏時に異界との扉が開き、彼は誰時に一日の始まりの扉が開く。そして、その二つの扉を繋ぐ夜の時間を、あなたと渡る。そんな意味を込めて。でも残念なことに、深い夜の暗がりではあなたの心が見えない。ねぇ、あなたは私のことを、どう思っているの?
私達は電話をしながら、意味があってないような言葉を塗り付けながら、どこかで互いの心を探っている。けれど、スマホの小さな光では、遥か遠くにいるあなたの心を透かして見るなんて、できないのだ。黄昏時や彼は誰時に、相手の顔が見えないのと同じで。しかし、実はこの時間にだけ出会える私がいる。自分と思えないほど我儘な、悪魔のような私。そろそろ電話を切って、早く寝ないといけないのに。でももう少しだけ、夜を止めたくて。星も月も、全てここに留まってくれないか。そんな私の知らない私が、この時間にだけ現れる。それだけではない。この時間に出会えるのはもう一人いる。普段優しいあなたと思えないほど、とことん私をおちょくって、楽しそうに笑うあなた。それもきっと、あなたが知らないあなたなんだろう。これは、お互い様の罪。だからこの時間が大切なのだ。かけがえなくて、愛おしい、不思議な夜。
今日もまた、電話をするのだろう。胸の奥が、小さく、どきどきと踊っているのを感じる。こんなにも楽しいことを知ってしまったら、そう簡単に手放せない。とことん手を伸ばし合って、引き合って、本気でぶつかろう。時として、傷つけあってしまうこともあるかもしれない。それでも、ちゃんと謝って、許して、また笑えたら良いんだ。未来は何が起こるかわからない。だからときめきに溢れている。私はあなたと、その未来を探しに行けたら、ひとりでは見つけられなかった、様々なものを見つけられるような気がしている。…なんて、直接言ったら、困らせてしまうのかな。
メッセージのやり取りの合間に眺めていた景色が、ぐっと明るくなる。乗り換える駅に到着したようだ。大きな駅には、ビルや商業施設が多く、その分光の数も多い。昔の人からしたら、この明るさは羨ましいものなのだろう。目の前にいる相手の顔なんてよく見える。もしこの場所に二人でいたら、互いの気持ちもわかるのだろうか。そんなことを考えながら、開いた扉から列車を降りて、次の電車に乗り込んだ。
「今仕事帰り、そっちはご飯食べた?」メッセージを送ると、すぐに既読がついて返信が来る。「さっきご飯食べた」と、自炊した写真と共に送られてきた。
「自炊偉いね。私は帰ったら食べるから、食べ終わったら電話するね」と送ると、またすぐに返事が来た。「わかった」のメッセージと、かわいいスタンプが送られてきた。
スマホの画面を一度閉じて、楽しみを噛み締める。スマホを持った手を下ろしたところで、電車が動き出し、窓から外を眺める。すると、先ほどまで見えていた橙色の空はもうすっかり夜の色に染まっていた。刻一刻と、ここから夜は深くなってゆく。
これで夕日が完全に沈み切った。黄昏時は終わり、数時間後にはきっと夜渡時が来る。
私と貴方の、静かで深い、そんな夜が。