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第194話 復元
【どこでもない層/薄い演算空間】
パイソンは、白い配置図を見ていた。
現実側の駅周辺。
赤茶けた錆の反応が、中心から消えていく。
ラストの黒い点は、もうない。
そこに残っているのは、崩れた駅舎外縁。
倒れた案内板。
砕けたバス停。
そして、錆に食われた地面の痕跡だけだった。
パイソンは静かに言う。
「ラストが消えました」
その声は、どこか遠くへ向けられていた。
数秒後、別の黒い影が配置図の端に揺れる。
ジャバの声が返った。
『は?』
「ラストが自壊しました」
「拘束される前に、自ら崩れたようです」
少しの沈黙。
それから、ジャバの荒い声が響いた。
『あいつ、勝手に終わりやがったのか』
「そうですね」
『ふざけんなよ』
『こっちはまだ学園で遊んでる最中だぞ』
パイソンは表情を変えない。
「戻ってください」
『嫌だね』
「戻ってください」
同じ言葉。
同じ温度。
だが、二度目の方がわずかに冷たい。
ジャバの影が、配置図の上で荒く揺れた。
『俺に命令すんのか』
「カシウス様の目的に必要です」
「ラストが消えた以上、こちらの手札をこれ以上雑に減らすわけにはいきません」
『俺は減らねえよ』
「学園に留まれば、主鍵と副鍵に読まれます」
「あなたの攻め方は、もう一部見られている」
「戻るべきです」
ジャバはしばらく黙った。
苛立ちが、影の揺れで分かる。
『……ちっ』
舌打ちのような音。
『分かったよ』
『戻りゃいいんだろ、戻りゃ』
「ええ」
『ただし、次は俺の好きにやる』
「必要があれば」
『ほんと気に食わねえな、お前』
パイソンは静かに答える。
「よく言われます」
ジャバの影が、乱暴に配置図から消えた。
パイソンはもう一度、駅周辺の白い固定域を見る。
ラストが消えた。
ジャバを戻した。
レアは観測から外れている。
盤面は、一度空いた。
「では」
パイソンは小さく呟いた。
「彼らが、どこまで戻せるか見ましょう」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
ジャバの動きが、急に止まった。
ハレルは主鍵を構えたまま、息を切らしていた。
リオも副鍵を握り、次の攻撃に備えている。
だが、ジャバは二人を見ていなかった。
どこか別の場所の声を聞いているように、顔を歪めている。
「……ああ?」
「今かよ」
リオが警戒を強める。
「何だ」
ジャバは答えない。
黒い影をまとった肩を鳴らし、不機嫌そうに舌打ちする。
「つまんねえ」
ハレルが睨む。
「逃げるのか」
ジャバの目が鋭くなる。
「逃げるんじゃねえ」
「呼ばれたんだよ」
「誰に」
「お前に教える義理はねえ」
ジャバは、校庭に残っていた影獣へ手を振った。
狼型。
猪型。
猿型。
小型の影獣たち。
それらの体が、一斉に黒い霧へほどけていく。
体育館へ向かっていた黒い亀裂も、ゆっくりと薄くなった。
完全に消えたわけではない。
だが、押してくる力は弱まっている。
ノノの声がイヤーカフから入る。
『ジャバの圧、低下!』
『影獣反応、後退してる!』
ハレルは主鍵を下ろさない。
「何をする気だ」
ジャバは笑った。
「今は帰ってやるよ」
「でも、忘れんな」
その視線が、体育館へ向く。
「箱の中身はもう空だ」
「逃げた奴が、次に何を選ぶか」
「お前ら、止められんのか?」
ハレルの表情が強張る。
ジャバはそれを見て、満足そうに笑う。
「じゃあな、主鍵持ち」
「次はもっと派手にやろうぜ」
黒い亀裂がジャバの足元に開く。
リオが踏み込もうとした。
「待て!」
ハレルが止める。
今、追えば、体育館側が空く。
それに、ジャバの先がどこへ繋がっているのか分からない。
ジャバは最後に低く笑い、黒い亀裂の中へ沈んだ。
校庭に残ったのは、えぐれた土と、薄い黒い霧だけだった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館内・朝】
体育館の揺れが、少しずつ収まっていった。
生徒たちはまだ中央に固まっている。
先生たちの声も、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「名前確認を続けて」
「急に立たないで」
「まだ安全確認中です」
サキは、空の箱の前に立っていた。
レアはいない。
ノノにも追えない。
ダミエにも分からない。
校内にいるのか、どこか別の層へ入り込んだのかも分からない。
ただ、サキには一つだけ残っていた。
レアは、豪華客船で出会った時とは違う。
怖い。
危険。
信じきれない。
それは変わらない。
でも、今のレアは、ただ誰かの命令で笑っているだけではなかった。
サキは、小さく呟く。
「戻る場所を探しに行ったんだよね……」
ダミエが横で言う。
「そうである保証はない」
「分かってる」
「だが、そうでない保証もない」
サキはダミエを見る。
ダミエは疲れ切った顔で、空の箱を見ていた。
「今は、追えない」
「なら、戻る場所を残しておくしかない」
サキは頷いた。
その時、イヤーカフにノノの声が入る。
『学園側、聞こえる?』
『ジャバ反応、撤退』
『現実側、ラスト消失』
『駅周辺完全復元の準備に入る』
ハレルの声が返る。
『ラストが……消えた?』
『うん』
『木崎さんたちが止めた』
『完全には拘束できなかったけど、自壊した』
リオが低く言う。
『倒した、ってことでいいのか』
少し間があった。
ノノは答える。
『少なくとも、もう錆は広がってない』
『今なら、駅を戻せるかもしれない』
ハレルは、校庭の方から体育館を見た。
レアはいない。
ジャバも消えた。
ラストも消えた。
だが、駅周辺を戻すなら、今しかない。
『やる』
ハレルは言った。
『駅を戻そう』
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺南側/旧バス待機レーン付近・朝】
木崎は、地面に落ちた警官の制服を見ていた。
ラストが残したもの。
中身はない。
黒い影もない。
ただ、錆に汚れた制服だけが、朝の光の中に落ちている。
その周囲には、赤茶けた粉が薄く積もっていた。
「触るな」
木崎は言った。
「封鎖して、記録だけ取れ」
警官が頷く。
「はい」
駅前はひどく壊れていた。
バス停は崩れている。
案内板は倒れている。
駅舎の庇は一部が落ちている。
ロータリー中央には、まだ異世界の石塔の輪郭が残っている。
だが、新しい錆は広がっていない。
それだけで、空気が違った。
イヤホンに日下部の声が入る。
『木崎さん』
『ラスト反応、完全消失』
『新規腐食、停止』
『駅周辺完全復元、実行可能域に入りました』
木崎は、壊れた駅前を見渡した。
「ひどい状態だぞ」
『はい』
『でも、錆が止まったなら戻せます』
「戻せるのか」
『戻します』
日下部の声は震えていた。
だが、強かった。
木崎は小さく息を吐く。
「分かった」
「現場を空ける。必要な場所を言え」
『ロータリー中央、石塔重複部』
『駅舎外縁』
『旧バス待機レーン』
『光節を三層で置きます』
『ただし、人は近づけないでください』
木崎はすぐに周囲へ叫んだ。
「全員、駅中央から離れろ!」
「今から駅を戻す!」
「戻った人も、医療班も、規制線の外へ下げる!」
警官たちが動く。
駅前から人が引いていく。
戻った人々も、遠くからその様子を見ていた。
壊れた駅が、もう一度戻るのか。
誰も声を出せなかった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
日下部は、駅周辺の完全復元手順を組んでいた。
画面には、三つの対象が表示されている。
《ROTARY CENTER / STONE TOWER OVERLAP》
《STATION OUTER EDGE / DAMAGED》
《BUS LANE / RUST COLLAPSED AREA》
日下部は言う。
「今回は、人流中心ではありません」
「駅周辺の構造そのものを戻します」
「ただし、前回と同じように全部を一度に押さない」
佐伯が確認する。
「順番は」
「石塔重複部を外す」
「駅舎外縁を現実側へ固定」
「最後にロータリーとバス待機レーンを繋げる」
村瀬が聞く。
「鍵の同期は」
「必要です」
日下部は頷いた。
「ハレルさんの主鍵を中心に、リオさんの副鍵を右側導線、アデルさんの副鍵を左側外縁へ乗せる」
「前回は人を戻しました」
「今回は場所を戻す」
城ヶ峰が短く言う。
「負荷は」
「大きいです」
日下部は正直に答えた。
「でも、ラストが消えた今なら可能です」
「ジャバも学園から引いた」
「レアは不明ですが、今の復元対象には直接乗っていません」
「なら、やれ」
日下部は頷き、ノノへ通信を繋ぐ。
『ノノさん』
『こちら、準備完了』
『鍵同期、お願いします』
ノノの声が返る。
『了解』
『ハレル、リオ、アデルへ繋ぐ』
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは三つの鍵反応を並べた。
主鍵。
リオの副鍵。
アデルの副鍵。
前回と同じ三拍。
だが、今回は支える対象が違う。
人ではない。場所だ。
「ハレル、聞こえる?」
『聞こえる』
「主鍵は駅前中央。石塔が重なってる場所を見て」
「でも、石塔を壊そうとしないで」
「そこを“現実ではない”って分ける感じ」
ハレルの声が返る。
『分ける……』
セラが補足する。
「主鍵は中心を定める鍵です」
「中心を定めることで、そこに重なった異物を外へ逃がせます」
ノノは続ける。
「リオは右側。旧バス待機レーンとロータリーの境目」
「アデルは左側。駅舎外縁と石塔の影が重なってる線」
「二人は押さないで。ハレルが分けたものを、左右に逃がす」
リオの声。
『了解』
アデルの声も入る。
『左側を受ける』
ノノは深く息を吸う。
「三拍でいく」
「一拍目、ハレル」
「二拍目、リオ」
「三拍目、アデル」
「そのあと現実側の日下部さんが光節を重ねる」
画面の三つの反応が揺れる。
レアの反応はない。
ジャバもいない。
ラストも消えている。
それでも、ノノは不安だった。
何かが足りない気がする。
だが、今止まれば、駅周辺の傷は広がらないまでも固定されてしまう。
今、戻すしかない。
「同期開始」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
ハレルは、校庭の中央で目を閉じた。
主鍵を握る。
頭の中に、駅前の光景を思い浮かべる。
ロータリー中央。
石塔。
壊れたバス停。
倒れた案内板。
崩れた庇。
戻った人々が、初めて現実の地面を踏んだ場所。
そこを、もう一度現実へ戻す。
『一拍目』
ノノの声。
ハレルは主鍵の光を、駅前中央へ伸ばした。
押すのではない。
広げるのでもない。
ここが現実の中心だと決める。
「一点固定――〈固定界〉」
白い光が、遠い駅前中央へ立つ感覚があった。
『二拍目』
リオが右腕の副鍵を光らせる。
「右側、受ける」
旧バス待機レーン。
崩れた金属の粉。
錆びた跡。
そこから現実の道を引き戻す。
『三拍目』
遠く王都側で、アデルの声が入る。
『左側、支える』
駅舎外縁。
壊れた庇。
石塔の影。
その重なりを、左から支える光が入る。
三つの光が、同じ拍で揃った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前に、白い光が走った。
最初に変わったのは、ロータリー中央だった。
そこに立っていた異世界の石塔が、輪郭を揺らす。
石紋が薄くなり、現実の白線が下から浮かび上がる。
石塔は砕けたのではない。燃えたのでもない。
ただ、そこに立つ理由を失ったように、静かに透けていった。
「石塔、消えます!」
隊員が叫ぶ。
次に、駅舎外縁。
落ちた庇の破片が震える。
錆びた鉄骨の赤茶色が薄くなり、現実のコンクリートと金属の形へ戻ろうとする。
完全に新品になるわけではない。
壊れた痕跡は残る。
だが、異世界の石材や黒影の混ざりは消えていく。
倒れていた案内板が、少しだけ形を戻す。
バス停の残骸から、異世界の石紋が抜ける。
ロータリーの白線が、はっきりと地面に戻る。
日下部の声が響く。
『現実側光節、重ねます!』
駅前に設置された光具が、順に灯った。
中央。右。左。
三拍のあと、三つが同時に白く光る。
駅前全体が、朝の光を受けて震えた。
そして、異世界側の輪郭が一気に薄くなる。
石塔が消えた。
石畳の影が消えた。
黒い役割影の残滓が、光に押し出されるようにほどけていく。
駅舎の柱が、現実の柱として立った。
バス停は壊れているが、現実の壊れ方になった。
案内板も倒れているが、もう異世界の影はない。
駅前は、傷ついたまま、現実に戻った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
日下部の画面に、表示が出る。
《ROTARY CENTER / FIXED》
《STONE TOWER OVERLAP / CLEARED》
《STATION OUTER EDGE / FIXED》
《ROLE SHADOW / CLEARED》
《RUST SPREAD / STOPPED》
《STATION AREA / RETURNED》
日下部は、しばらく声が出なかった。
佐伯が画面を見て、震える声で言う。
「駅周辺……」
村瀬が続ける。
「戻りました」
城ヶ峰は静かに言った。
「確認を続けろ」
「だが、まずは現場へ伝えろ」
日下部は通信を開いた。
『駅周辺、完全復元』
『繰り返します』
『駅周辺、現実側へ完全復元しました』
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
その報告を聞いた瞬間、駅前にいた人々の空気が変わった。
誰かが、崩れたバス停を見た。
誰かが、白線を見た。
誰かが、駅舎の柱を見た。
壊れている。
傷ついている。
元通りではない。
それでも、そこは現実の駅前だった。
異世界の石塔はない。
石畳もない。
黒い影もない。
戻った人々の中で、子どもが小さく言った。
「駅、戻った?」
母親が、涙を浮かべて頷いた。
「戻ったよ」
その言葉が、周囲へ広がる。
戻った。
駅が戻った。
木崎は、警官の制服が残された封鎖区域と、戻った駅前を交互に見た。
ラストは消えた。
駅は戻った。
だが、完全な勝利のようには思えなかった。
失ったものも、壊れたものもある。
レアも見つかっていない。
学園もまだ戻っていない。
それでも、木崎は小さく言った。
「一つ、戻したな」
◆ ◆ ◆
駅周辺は、完全に現実へ戻った。
ロータリー中央の石塔は消え、駅舎外縁の異世界の影も消えた。
バス停や案内板は壊れたままだが、それは現実の損傷として残った。
黒い影も、錆の広がりも止まった。
ラストはもういない。
ジャバも学園から引いた。
レアの行方は、まだ分からない。
それでも、戻すための足場はできた。
駅周辺という大きな場所を、初めて完全に取り戻した。
次に戻すべき場所は、まだ異世界にある。
転移した学園。
そして、どこかに消えたレア。
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麗太
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