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佐藤麻里子(30)×結城彰久(28)
車両本体価格117万円。
「おい」
諸経費11万7千円。
「佐藤?おいって」
ディーラーOPディスクナビゲーション7万8千円。
「麻里子(まりこ)!!起きろ」
「はい!!スタッドレスタイヤ、4万8千円です!!」
目を開ける。
驚いた顔の宮内(みやうち)がこちらを見下ろしている。
壁を囲む成績グラフ。白い蒸気を出している加湿器。無機質に照らす蛍光灯。
「寝ながら見積もり作ってんなら、帰れ」
久々に下の名前で呼んだ宮内が、呆れながら自分のデスクに戻っていく。
佐藤麻里子は両目を擦りながら、パソコンに表示された、明日商談予定の見積書を見た。
「店長。明日、値引き頑張ってくれます?」
宮内は自分のキーボードをたたきながら目を細めている。
「俺は、いつでも頑張ってるが。お前のトーク次第だろ。お客様が得したと思えるように話をもっていけよ」
「ですよねー」
言いながらデスクに突っ伏す。
「ほら、そんなところで寝るな。お前の番犬がうるさい」
「犬飼ってませんよ。フェレットならいますけど」
「いるだろうが。経理に。そうでなくてもあいつら中間決算でピリピリしてるのに。変ないちゃもんつけられたくねえんだよ。ほら帰れ!」
ため息をつきながら宮内は再び立ち上がると、麻里子の腕を引っ張り起こした。
「うう。目が開かない」
「ーーーーんん?」
宮内の動きが止まる。
(ーーーーーー?)
「ーーーお前さぁ」
その息が頬にかかり、麻里子は驚いて瞼を開けた。
宮内の顔まで数センチしかない。背もたれにすでに身を沈めている麻里子に逃げ場はない。
(げ。まずい)
「老けたな」
(…………………はあ?)
「お疲れ様です」
低い声が響く。
開けっ放しだった事務所の入り口を乱暴にノックしながら、男が立っていた。
結城彰久(ゆうきあきひさ)。経理課の係長だ。
「……おい。誤解すんなよ」
振り返った宮内がため息をつく。
「何をですか」
無表情のまま、事務所のキーボックスに本社の鍵をひっかけている。
その後ろ姿をぼーっといていた麻里子の頭を宮内が軽くたたき、結城を顎でしゃくる。
「2階の本社、誰もいなくなりますんで。戸締りお願いしますね」
「あ、ああ」
宮内がなおもこちらを睨んでくるが、結城は対照的に麻里子を見ようともしない。
「お先します」
その声はさっさと事務所をでて、社員用出入口から消えていく。
「ほら、追いかけろって」
宮内が麻里子のハンドバックを事務所の出入り口に向かってポーンと投げる。
「ちょっと、ひどくないですか?犬じゃないんだから!」
それを慌てて拾い上げると、
「ご主人様はあっちだ。間違えるなよ」
宮内は口の端を釣り上げて笑った。
追い出されるようにして、消灯した駐車場に飛び出すと、鳥目が祟りよく見えない。
かろうじて外灯に反射する新車の輝きで何とか歩くと、社員駐車場に彼はいた。
(あいつ、待つ気とかないんだな)
自分の車のキーを開け乗り込もうとする男に叫ぶ。
「結城!」
やっと男が振り返る。
しかしこちらに駆け寄ってくることはない。そのまま運転席に乗り込みドアを閉める。
(ーーーあんにゃろう)
疲れている身体に鞭を打って、だだっ広い駐車場を全速力で駆け抜ける。
(長年黒田支店で鍛えた足を嘗めんなよ!)
無駄に広い黒田支店のお客様駐車場のせいで、ダッシュするのは慣れている。
やっと追いつき、運転席を開けると、結城は初めてそこで顔を上げた。
「お疲れ様です。麻里子さん」
そのクールな顔に、当然の疑問が浮かぶ。
(あれ。私たちって付き合ってるんじゃなかったっけ?)
彼との付き合いは、彼が営業課から経理課に移動して、かれこれ4年以上になる。
当時不倫にどっぷり浸かっていた麻里子を、結城が救ってくれたのだ。
(———まあ、救ったというにはあまりに荒い方法だったけど…)
要するに彼は、25歳の麻里子を22歳の分際で寝取ったのだった。
その後、紆余曲折があり、付き合うことになったのだが。
なったはずなのだが。
「どうかしましたか?用がないなら、中間決算でピリピリしているので、帰りたいんですけど」
4年の歳月を踏んでも、麻里子にはこの男がよくわからない。
「こんなに遅いなんて、珍しいね。やっぱり忙しい?」
何を話しかけていいのかわからず聞くと、結城は視線をずらして答えた。
「まあ、そうすね。半年分の数字合わせしなきゃいけないんで」
「大変そうだよね。経理って――――」
「麻里子さんは」
被せ気味に何かを言ってくるときは機嫌が悪いときだ。それは4年間でなんとか分かった。
「こんなに遅いの、普通すか?」
「———え?」
「いつも先に帰ってるんで、いつまで仕事してるのかわかんなかったすけど。こんなに遅いのがデフォルトですか?」
腕時計で時刻を確認する。
22時。
「早いほうだ」などとはとても言えない。
「今日は明日の商談準備があって」
「へえ」
結城がキーを回しエンジンをかける。
「明日からイベントですもんね。目標は黒田支店で何台でしたっけ?」
「40台」
「はは。えっぐ」
やっと笑顔を見せた彼氏にほっとして、麻里子もつい顔が緩む。
「でもどうせ、宮内店長が10台くらい売るから実質30台ですね」
悪意のある目つきで見上げられ、一瞬で顔が引きつる。
「血気付けに飯でも行きますか?」
そして悪意のある誘い。
「ごめん、明日早く―――」
「わかってますよ」
ほら、被せてくる。
「宮内店長と事務所で微睡む時間はあっても、俺と飯を食う時間はないんすね」
結城はそう言うと、ドアを閉めた。
「ちょっと!」
運転席の窓が開く。
その手が麻里子のワイシャツをつかむ。
ぐっと寄せられ、慌てて窓枠に両手をつく。
数センチの近くまで寄られて、そこで止まる。
「ーーーー結城?痛い」
目の前に、何を考えているかわからない若い恋人の、万人が認める整った顔がある。
しかし彼はそれ以上寄ってきてはくれなかった。
「ーーーー確かに。老けたすね」
そう言うと結城は麻里子を離し、代わりにハンドルを握った。
「明日からのイベント、頑張ってくださいね。俺、今回のサポートは黒田支店担当なんで。札束数えるときは呼んでください」
無表情で言うと、ギアをドライブに入れ、そのまま駐車場を出ていった。
一人残された真っ暗な駐車場で、麻里子はその車のバックライトが見えなくなるまで見つめていた。
かつて麻里子が不倫をしていた男は、当時課長だった、宮内だった。
嫌だろうなとは思う。
自分の彼女が、不倫していた男の下でずっと働き続けているのは。
でも彼と付き合うようになって、いや、それよりも前から。彼に寝取られてから、宮内とは一度もそういうことはない。
それでも結城は黒田支店や宮内の話題を自分から引っ張ってきては、きまって不機嫌になる。
「イベントを前に寝不足を重ねている彼女へのねぎらいの言葉はないのかよ」
もうとっくにバックライトが見えなくなった駐車場で一人呟いた。
風呂上がり。覗き込むように鏡に顔を寄せる。
「老けた?かなあ」
自分ではわからない。
小皺なんてまだ見つけられないし、色は白いほうだが、シミやそばかすなんかもない。
どの辺りが老けたんだろう。聞いてみたいような怖いような。
化粧水と乳液をつけ、申し訳程度にマッサージしてみる。
手に肌が吸い付いてくる。
この感覚も別に数年前と変わったわけではない。
肌が変わっていないなら、どこが変わったんだろう。
髪?
確かに昔と比べると、傷みやすくなった気はする。20代のころは自分で染髪しても支障はなかったが、最近は色がうまく乗らない上に、傷んでうねるようになった。
(やっぱり美容院に行かないとダメか)
しかし定休日の月曜日はほとんどの美容院も休みだ。
(長期連休は、結城との時間に空けておきたいしなあ)
そこまで考えて、鏡の中の自分を睨む。
「ーーーこっちは、こんなに好きなのになぁ」
今どきの高校生でも言わない幼稚なセリフを吐く。
今夜も、結城からのメールは来ないまま、夜は更けていった。