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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
翌朝、枕元で鳴り響くスマートフォンの着信音に引きずり出されるように目を覚ました。
重い瞼をこすりながら、手探りでスマートフォンを掴み寄せる。画面に表示されたのは、会社の仕事相手の名前だった。
「……はい、朝比奈です」
『あ、朝比奈、朝からごめん。佐久間《さくま》なんだけど』
電話の主は、営業部のエースであり、同期の佐久間 海《かい》。日曜の朝から彼が連絡してくるなんて、よほど急ぎなのだと思う。
「おはよう、佐久間くん。どうかした?」
『実は、明日の撮影の件で、急遽クライアントから演出変更の要請が来て、朝比奈にも来てもらえないかって思ってるんだけど、厳しいよな…?無理ならこれから俺だけでも行ってくる。佐野さんも直で向かうって言ってた』
佐野さんとは、うちの会社のクリエイティブディレクター…、つまり私の上司。上が出なければいけない程の急ぎの修正だということを理解すると、一気に目が覚めた。
私は広告代理店のプランナーである。CMや広告の設計図を書くのが私の仕事であり、それが変わるということは、明日の撮影に関してもすべてが変更になる。
イレギュラーな休日出勤なんて、この業界では珍しくもない。だけど、よりによってこのタイミングで……、と雅の方を見た。
私の声で目が覚めたのかうつ伏せで腕の上に顎を乗せこちらを見ている。
「少し時間貰えれば私も向かうよ」
そう言いながらベッドから這い出そうとした、その時、雅が私の腰を引き寄せ、首筋に顔を埋めてきた。
(この男……っ……!)
電話の向こうでは佐久間が真剣に話しているのに、雅の指先はわざとらしくシャツの裾からするり、と滑り込んできて、私の肌をなぞり始める。
「……っ……ちょっと! 」
『……朝比奈?』
「ごめん、なんでもない!」
慌てて声を裏返しながら、自由な方の手で雅の手を振り払おうとする。だけど、彼は楽しそうに目を細めると、人差し指を自分の唇に当てた。 静かに、という無言の命令があまりにも癪に障る。
雅の唇が、今度は耳朶を甘く食んだ。仕事の話をしようとする思考が、彼に触れられた場所からじわじわと溶かされていく。
私は雅の顔をぐいっと押し戻すと、乱れた呼吸を無理やり整えてから、スマートフォンを耳に当て直した。
『……誰かと居た?』
「ああ、うん。でも大丈夫だから」
独り身を公言している手前、今の言い訳がどれほど苦しいかは自分が一番よく分かっていた。焦りが指先にまで滲む。
私は雅と視線を合わせないよう、スピーカーモードに切り替えてベッドに放り出し、クローゼットからスーツを引き出した。
背後では、雅がベッドに腰掛け、つまらなそうにこちらを眺めている。その冷ややかな視線が背中に刺さるが、今は無視するしかない。
『どのくらいで準備できそう?』
「二十分くらい」
『そっか、じゃあ迎えに行くよ。住所送っといてくれる?着いたら連絡する』
「了解」
そんな短いやり取りで電話を切り、急いで準備に取り掛かる。
「お前、仕事モード切り替え早すぎだろ。ある意味尊敬するわ」
「仕方ないでしょ、状況が状況なのよ!」
鏡の中の自分と向き合い、猛烈な勢いで歯を磨き、肌を整える。洗顔、スキンケア、ベースメイク、とこなしていく。取引先にだらしない所を見せるわけにはいかない。
完璧に引かれたアイラインを確認すると、デスクへ戻り、名刺入れ、ノートパソコン、手帳、ペンケースを次々と鞄へ放り込んでいった。
「すぐ帰ってくんの?」
「うーん、打ち合わせだけなら二時間もかからず帰って来ると思う。あんたも出かけるなら戸締まりだけきちんとしてね」
そう言い捨てて、ジュエリーボックスから仕事用の控えめなピアスを摘み出した。
鏡越しに、いつの間にか着替えを終えた雅と視線がぶつかる。私はわざとらしく視線を逸らし、手早く耳たぶに針を通すと、すぐに仕事鞄を掴んだ。
背後で、雅が財布とスマートフォンを手に、のっそりとついてくる。
「コンビ二行くから一緒に外出るわ」
「あ、そう……」
断る理由も見つからず、仕方なく並んで家を出た。
エレベーターの中に閉じ込められた瞬間、最悪のシミュレーションが脳内を駆け巡る。もし、一階で佐久間くんと鉢合わせたら?
社内では独身を貫いているし、そもそも、私の家から私と並んで一緒に男が出てくるなんて、言い訳のしようがない。
エレベーターの階数表示が減っていくたび、胃のあたりがキリキリと痛んだ。
「この後は家にいるの?」
「そのつもり、仕事はいつもどおりの時間だし」
「……まさか今日も泊まるの?あんた」
「何、迷惑?」
「あんたほとんど家に帰ってないでしょ。それなら別に一緒に住んでも変わら……」
変わらない、と言いかけて、とんでもない言葉を口走りそうになった自分に気付き、慌てて言葉を飲み込む。
恐る恐る隣を見ると、雅はわずかに目を見開いて私を凝視していた。やがて、その驚きが、意地の悪い笑みへと形を変えていく。
ああ、すごく嫌な予感がする。この男がこういう笑い方している時は、大体悪だくみをしている時と、人の懐に付け込んでくるとき。
どれだけ顔を逸らしても、雅は楽しそうに私の視界に回り込んでくる。
確かに、実態は同棲と変わらないけれど、それを自ら認めてしまうなんて、仕事の焦りで血迷ったとしか言いようがない。
「一緒に住んでいいの?」
にやにやと口角を上げ、私の返事を待つ雅。あまりに癪に障る顔をしている。クソ理不尽と言われるだろうけれど、今すぐ三発くらい殴らせてほしい。
「だめ、一旦忘れて。今こんな忙しい時に流れで話す事じゃなかった。また後で話し合いましょう」
必死に体裁を整えている間に、エレベーターが一階に到着した。エントランスを出ると、ちょうど佐久間くんの車がマンション前に停車するのを見た。私は雅を置き去りにするようにして、そちらへ向かって大きく手を振る。
雅も車に視線を向け、何かを低く呟いた。聞き取れなかったけれど、どこか不穏な響きが混じっていた気がする。
聞き返す余裕もなく、私は気付かないふりをして、歩みを速めた。
「それじゃ行ってくるから。また後でね」
足早に立ち去ろうとした、その時、突然、強い力で腕を引かれ、雅の方へと身体が反転した。
「はっ……!?」
衝撃に息を呑む暇もなく、腰と後頭部に手が回る。
そのまま深く口付けを落とされた。
周りに通行人はいないけれど、車の中で、佐久間くんが見ている。
(この男、何を考えて……!)
意味の分からない暴挙に頭が真っ白になり、私は雅の胸元をバシバシと叩いて抵抗した。しかし、雅は離れる間際、佐久間くんの車へと視線を投げ、ほんの少し笑みを零した。
「……っ、あんた、何考えて……!」
唇を離し、抗議しようとした私を、雅は楽しげな笑顔でこちらを見ていた。
「他の男に俺のってアピールできんの最高。アイツがフリーだとしたらちゃんと彼氏って言ってこいよ」
「あ、あんたね……!」
「ほら、時間無いんじゃないの。行ってらっしゃい」
強引に引き止めたのは自分の方なくせに、クソガキが。
勝手な言い分で背中を押され、私は毒気を抜かれた。腹立たしいほど鮮やかな笑顔で手を振る雅を一度睨みつけ、私は足早に車へと向かった。
(本当に馬鹿じゃないの! ありえない、信じられない……! 人前で、しかも同僚の目の前で!)
動揺と困惑と苛立ち、様々な感情があったがなんとか平静を装い車に近付いた。
助手席の窓越しに、佐久間が乗って、乗ってとジェスチャーを送っていた。
私は深呼吸を一つして、ドアを開ける。
「お、おはよ、佐久間くん。おまたせしてごめんね」
「おはよ。こちらこそ急にごめんな」
佐久間の声はいつも通りに聞こえた。ひとまずは最悪の空気ではないことに安堵した……が、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。
「で、彼氏? いつの間に出来たの?」
前方を向いたまま、佐久間がさらりと問いかけてくる。
雅の狙い通りだ。あの男は、最初からこうなることを望んでいた。自分が手懐けている女に、他の男の影が差すのを許さない。私の社会的な立場よりも、自分の独占欲を優先する様な男。
本当にどうしようもなくて、面倒な男に捕まったと思う。
「……うん、彼氏」
癪だが、認めるしかなかった。
否定すれば、あのキスの意味も、朝から男が自分の部屋にいた理由も、すべてが説明できない。会社で付き合ってもいない男と家で過ごす、だらしない女という噂を流されるくらいなら、雅の望み通り彼氏がいると認めておいた方が、実害は少ない。
「……朝比奈、彼氏の事本当好きなんだな。恋してるって顔してる」
「……え?」
不意を突かれ、言葉に詰まった。
以前、玲くんからも似たようなことを言われたのを思い出す。
雅への気持ちを自覚したのはつい最近のことで、誰かに惚気たつもりも、公にしたつもりも一切ないのに、どうして皆、私の心の奥底を見透かしたようなことを言うのだろうか。
私が沈黙していると、佐久間はハンドルを握ったまま、少しだけ切なそうに口元を綻ばせた。
「俺、朝比奈のこと狙ってたんだけどな」
独り言のような、あまりに静かな告白だった。同期として過ごして四年。そんな素振りなど微塵も感じたことがなかったから、思わず目を見開いて彼の方を見た。
「な、何言ってんの佐久間くん。同僚相手にその冗談はきついよ」
「冗談って、朝比奈が気付いてなかっただけだろ」
四年、切磋琢磨してきた時間は、私にとっては仕事仲間としての積み重ねでしかなかった。だから、佐久間くんが恋愛対象として私を見ていたことに気付かなかった。
「取引先に向かう前にこんな話してごめん」
「あ……、いや、謝ることじゃないでしょ。ちょっとびっくりしていて、私も冗談とか言ってごめんなさい」
「気付いてないのわかってたから気にしてない。そもそも俺に勇気なんて無かったくせに、彼氏が出来てからこんな風に言うのずるいよな」
佐久間の自嘲気味な横顔を見て、胸が締め付けられた。
きっと、彼はしんどかったと思う。あのエントランスで、見たくもないキスシーンを見せつけられて。
雅が、かつて自分以外の女と今の私と同じような関係だったと想像するだけで、死ぬほど苦しかった。
それなら、目の前で好きな相手が別の男性に奪われた瞬間を突きつけられた彼の痛みは、きっと少しだけ理解できると思う。
コメント
1件
ああ、この回もエグかった…!朝の電話中に雅がちょっかい出してくるとことか、もう完全にクズ元彼のムーブ炸裂してて笑ったけど、最後のエントランス前のキスはガチで「やったな!」って声出たわ。佐久間くんの「狙ってた」発言も急に刺さってきて、胸がギュッとなった。主人公が「恋してる顔してる」って言われてるシーン、自分では気づいてない感情が表情に出てる感じが生々しくてすごく良かった。続き気になる…!