テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
コメント
1件
「最低な奴同士お似合い」——雅のこの一言、すごく良かったなあ。綺麗事じゃなくて、同じ泥の上に立ってくれる感じがして。夏帆が「この男をやっぱり好きだと思った」って心で呟くシーン、じんときました。仕事で疲れて帰ってきたのに、冷蔵庫に自分の好みのチョコが入ってるだけで気分が溶けるのも分かるし、彼女の中で何かが変わった瞬間が丁寧に描かれていて好きです。二人の距離感、少しずつ変わってきてますね。
二時間後には、打ち合わせ、修正、引継ぎを無事に終えて、私は再び佐久間くんの車で自宅へと送ってもらった。
帰りの車内は、急なトラブルを乗り越えた安堵もあり、朝の緊張が嘘のように終始和やかなムードだった。
「何もなく済んで良かった。お疲れ様、佐久間くん」
「お疲れ。それじゃ、また明日な。朝比奈」
「また明日」
走り去るテールランプを見送りながら、私は小さく息を吐いた。
急な休日出勤を完遂した達成感はあったけれど、それ以上に心身が鉛のように重かった。
「……はあ、疲れた」
昨日から今日にかけて、あまりに多くのことが起きすぎた。
雅との関係に対する尽きない悩み。そして、不意に突きつけられた佐久間くんからの真剣な想い。知らずにいれば今まで通り接することができたのに、一度知った事実をなかったことにするなんて、そんな器用な真似はできない。
ずっと仕事が好きだった。努力が成果として正しく返ってくる、明快な世界。そこに没頭するあまり、私はそれ以外の感情にあまりに無頓着すぎたのかもしれない。
自分が傷つくのも、誰かを傷つけるのも嫌だし、相手のことを考えすぎて、正解のない迷路を彷徨うのはもっと嫌だった。だからこそ、恋なんて面倒なものには蓋をして生きてきたはず。
それなのに、あの部屋には、面倒でしかなかったはずの存在の男がいる。
今度は深く溜息を吐き、重たい足取りで、雅の待つ自分の部屋へとゆっくりと歩き出した。
ドアを開けて中に入ると、テレビを眺めながらソファで寛ぐ雅の姿があった。
同棲の話をする前からこの馴染みよう。もはや既に数年単位で一緒に住んでいるのではないかと、記憶を疑いたくなるほどの定着ぶり。
他人の家で気を遣う、という言葉をこの男の頭の辞書から探すのは…、そもそも愚問だった。
「おかえり」
「……ただいま」
鞄をいつもの場所に置き、ジャケットを脱ぐ。私が寝室へ着替えに向かおうとすると、ようやく雅がソファからこちらへと身体を向けた。
「冷蔵庫中に甘いもんあるから食えば? 飲み物もあるけど」
「ああ、助かる。今ちょうどそんな気分だった」
私は素早く部屋着に着替え、吸い寄せられるようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりとした冷気とともに、見慣れない小箱が目に飛び込んできた。中には、透明なプラスチックの中に入り、ココアパウダーを纏ったチョコレートが目に入る。
私の好みがこのチョコレートだと、あの男は知っていた。
さっきまでの重苦しい気分が、現金にもするりと解けていくのが分かった。思わず、口元に笑みが零れる。
ソファの端に座り、買ってきたばかりの生チョコを口に運ぶと、雅が身体を寄せてきて私の顔を覗き込んできた。
至近距離で見つめられ、さっきまで忘れていた気まずさが一気に蘇る。
雅が何を言い出そうとしているのかは、聞かなくても分かった。仕事に行く直前、勢いで口走ってしまった同棲の件だ。
自分から火をつけた以上、今さら消火器を振り回しても、この男はきっと頭がおかしいから、火事の方ではなく、消防作業をしている方を止めてくる。
「……これもしかして賄賂?」
「お前そんなんで買収されんの? 安すぎて不安になるわ」
「じゃあ、言いたい事分かるから言わないでいてくんない?」
「それはちょっと無理な相談じゃね?」
当然、逃がしてもらえるはずもなかった。雅は不敵な笑みを浮かべ、私の反応を心底楽しんでいる。こうも追い込まれてしまっては、もう何も言い返せない。
正直に言えば、同棲そのものが嫌なわけじゃない。お互い良い大人なのだし、交際が始まれば自然と出る話題だ。
ただ、私はずっと、雅を自分の生活に深く踏み込ませないようにしてきたはずだった。
それなのに、いつの間にか彼と一緒にいることに違和感を抱かなくなり、あんな言葉が自然にこぼれてしまった。
その自分自身の変化に、心が追いついていない。今までの私なら、絶対に口にしなかったはずの言葉なのに、それをさらりと受け入れてしまった今の自分を、まだ受け入れ切れていない。
「……わかった、わかったから」
これ以上逃げても無駄だと溜息をつき、手に持っていた生チョコを雅の口元へ運ぶ。彼は迷うことなく、それをぱく、と口にした。
差し出されたものを疑いもせず受け入れる姿は、どこか手懐けられた猛獣を餌付けしているようで、不覚にも少しだけ可愛いと思ってしまった。
思わず零れた私の笑みに、雅は不思議そうに首を傾げる。
一度同棲を認めてしまえば、この男が引くはずもない。もし上手くいかなければ、その時はまた元の生活に戻ればいいだけ、そう自分に言い聞かせた。
「ここに一緒に住む? それとも、あんたの部屋でもいいし、物件探してもいいし」
「夏帆の家の方が広いから、一旦はここで良いんじゃん? ちょうど俺来月更新だったし」
「そう、じゃあ家具の新調とか、荷物の運びだしとか、家具の配置を変えたり、食器とか足りない物揃えたりしないとね」
一人暮らしに特化していたこの部屋を二人の場所にするには、やるべきことが山ほどある。私は部屋中を見渡し、頭の中でリストを書き出し始めていた。
だけど、そんな私の思考を遮るように、雅の声が低く響く。
「てか、同棲を許してくれたって事は、もう踏み込んで良いってこと?」
「え?」
「前までセフレみたいな関係性を変えなくて良いなら、付き合うって条件だったじゃん。それは、もうやめてきちんと付き合う?」
不意に、雅の手が私の顔を自分の方へと向けさせた。鼻先が触れそうなほどの至近距離。逃げ場を塞ぐように、彼の漆黒の瞳が私を射抜く。
確かに、これまでの私達は恋人というより、セフレという呼び名がしっくりくる関係だった。
今の私は、雅といることに心地よさを感じているけれど、この男は本当に私を好きでいてくれているのか。
深入りすればするほど、その不確かな不安が煽られる。
「雅はどうなりたいの? こんな最低な私とまだ恋人で居たいと思ってる?」
過去に私は、身勝手な寂しさを理由に一度は彼を捨て、再会してからも都合の良い関係でいいならと突き放した。
そのくせ、今さら手放したくないなんて。私はどこまでも傲慢で、最低な女だ。
そんな私を、雅が心から愛し、傍に居続けてくれる確信が持てなかった。
私の震える問いに、雅はふっと小さく笑った。
そのまま指先で、私の髪を優しく耳に掛ける。
「最低な奴同士お似合いなんじゃない?俺だって他の女をお前の代わりにしようとしてたんだから」
世間一般の愛の言葉からは程遠い。だけど、その答えで私はこの男をやっぱり好きだと思った。
そんなことないと否定されるよりも、同じだと隣に並んでくれること。甘い台詞を吐き捨てる器用な雅よりも、飾らない言葉で泥臭い本音を晒してくれるこの男がいい。
そしてこの不器用な誠実さが、私の前でしか現れない特権であることも、私は知っている。
「てか、恋人じゃなくなっても関係ねぇな」
「……あんたって意外と重い男だったのね」
「三年も付き合ってたくせに理解が遅くて困るわ」
「あんたがわかりづらい男っていうのを自覚してほしいけどね」
呆れたように言い合いながら、軽く笑いを零す。
これから先、何を選び、どう行動したところで、私はどうせこの男に振り回され続ける。なら、もう難しく考えるのはやめて、この際、とことん振り回されて……、この男に溺れてやろうと決めた。