テラーノベル
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こんなにも雨が激しく降り続くとは思わなかった。
カウンターの椅子に座っていた翠は立ち上り、奥の部屋の扉をそっと開けた。灯りが部屋の中に細く伸びて、ソファーで眠っている結の頬を微かに照らした。
午前零時を既に回っていた。
タクシーを呼ぼうとしたが、朝までここにいたいと結は言い、この激しい雨の中を帰らせるのは危険だと思った翠は、ここにいることを許した。
結の肘にできた火傷の跡。あれはちょっとした不注意でできたものではないだろう。疲れきって眠っている結の横顔を、翠はしばらく見つめていた。
これは翠の勝手な想像だが、結の産みの母親がしていた行為に虐待があったのだろうか。
その手から結を守る為に、父親はこの街から遠く離れた海の上に建つ、あの施設に結を預けて産みの母親から引き離し隠した。その間に両親は話し合い、決着がつくと結を迎えに来た。
結の父親と、凛太郎の母親との間にどんな経緯があるのかはわからないが、あるときから凛太郎の母親は、結の母親となって現在に至っている。翠は静かに扉を閉めた。
再びカウンターの椅子に座ると、灯りの下で翠は思い出していた。
キタミショウ―。その名前を聞いたのは一度だけだ。
『あんたの父親の名前はね。キタミショウって言うの。かっこいい名前でしょう。だから惚れたの』
あのどうしようもない女の声なんか、もう忘れたつもりでいたのに、ありありと耳に蘇ってくるから胃がむかむかするくらい不愉快になる。
カウンターの上に置かれた結のスマホが鳴って、薄暗い店内でそこでだけ白く明るく光る。翠はそれをぼんやりと眺めていた。
「あんたのスマホが一晩中鳴って、うるさかったから出たの。そうしたら秘書さんからだったから迎えに来るように頼んだのよ」
表に出ると昨日の激しい雨はやみ、街は霧に包まれていた。霧の向こうから差し込んでくる朝陽は弱いが、今朝の腫れぼったい目をした結には十分眩しかった。
店を出るとき結は何か言うべきだと思ったが、言葉がうまく見つけられなかった。
さようなら?
じゃあね?
また来るわ?
どれも違う気がした。
お世話になりました?
昨夜はどうもありがとう?
運転席から降りて来た工藤が、翠に向かって会釈した。それに応えて翠も頭を下げる。二人の間に立つ結は何も言えないまま、後部座席に乗り込もうとした。そのとき翠が結の肩に手を置いて、振り向いた結に言った。
「暖人の受賞式は行くから」
その言葉に結の心は少し軽くなった。
工藤の運転する黒い車が、雨上がりの街を走る。宵の灯屋を出たとき弱いと思った朝陽はしっかりと街を照らし、その中を颯爽と歩いて行く人たちの姿はかっこよく見えた。
後部座席に座って、バックミラーに映る工藤に話し掛けた。
「工藤さん、すみません。ご迷惑かけました」
信号で止まると、視線をあげてミラー越に工藤が結を見た。
「私は迷惑とは思っていませんよ」
工藤の口調はいつもと変わらず穏やかだった。だがミラーに映る彼の表情は硬い。
「ですが、代表…」
何を言われるか十分わかっている。
「代表はご婚約をされている方ですよ。お忘れではないですよね?」
神妙な顔をして結は頷いた。
昨夜の雨の中で、翠の胸に頬を寄せたときは婚約していることなどすっかり忘れていた。
「それなのに他の方のところで一夜を明かすなんて…」
「あの人とはそんなんじゃありません。何もなかったんです。あの人は友人です」
苦しい言い訳をしているみたいだった。一度そらした視線を再びあげるとミラーの中で、工藤と視線が合った。すると工藤が笑い出した。
通勤ラッシュにはまって、車は一向に動かない。
「暖人さんの受賞が決まってから、あのカフェで何度も打ち合わせをしてきたので、あの方のお人柄を少しは知っているつもりです。実に興味深い方だ。ここだけの話ですが、私も嫌いではありませんよ」
「工藤さん」
「ですが」
釘を差すように工藤の声が車内に響く。
「気をつけてください。あることないこと書く輩(やから)もいますから」
その言葉に貴一の書斎で読んだ記事のことが過った。
「昨夜のことは会長には報告しませんので」
ミラーの中で工藤がウィンクをした。結の強張っていた肩がすうっと楽になった。
「ありがとうございます。本当に感謝します」
再び車が動き出し、結が帰るべきホテルはもう目の前に見えていた。
貴一にどんな意図があって、工藤を結の秘書にしたのか知らないが、このとき改めて秘書が工藤でよかったと結は深く思った。
コメント
1件
翠さん、おはようございます。第20話、読み終えました。 雨の夜から朝へと移り変わる情景描写がとても美しくて、特に霧の中から差し込む朝陽の表現が印象に残りました。翠が結の火傷を見て、過去の虐待を想像するシーン、そして「キタミショウ」という名前…翠の母親との関係にどんな伏線が潜んでいるのか、思わず息をのみました。 結が何も言えずに車に乗り込もうとしたとき、翠が「暖人の受賞式は行くから」と伝える場面は、言葉にできない気持ちを汲み取ったような優しさがあって、じんわりきました。工藤さんの「気をつけてください」という釘の刺し方も、彼なりの忠誠心と気遣いが感じられて好きです。 次のエピソードも楽しみにしていますね。