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#ワンナイトラブ
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また今日もこりずに残業。新人指導片手だから、自分の仕事は結局後手に回ってしまう。
……しかも部長ときたら、結局私が催促した書類を提出してなかったから、何故か私が総務部長にすごい怒られた。あの人は声が大きいから、少し苦手だ。
残業は給料泥棒だとか昔居た御局様に言われていたけれど、まさに今の私がそれだ。ごめんなさい。
私だけを置き去りにしたオフィスにため息をひとつ落として、書類の束に手を伸ばす。
今日どうしよっかな。
常葉くんの家に帰っても、良いのかな。
変化のないトーク画面を見るとどうしてか気が重くなる。
本当はそんな事、ちっとも思っていないのに、なぜか返事を出来ずにいるその画面。
何だって見透かすくせに、こんな所は見透かしてくれないなんて、少し狡い。
……ずっと残業したくなってきたな。
頬杖をついてぼんやりと眺めていると、遠くからひとつ、足音が響いた。
しんと静まり返ってはいるけれど、特に気に留めること無く仕事に戻る。
しかし、段々とその音は近付き、遂には真後ろで鳴ったと思えばふわりとあの香りが漂う。
その香りだけで、誰がいるかなんてもう顔を見なくても分かってしまうから、変に胸は高鳴って息を潜めた。
背後から手が伸びると、私が持っていたそれは簡単に奪われた。
「……こんなのに時間掛けてるんですか」
「………………私、作業遅いんですよ」
「丁寧なだけでしょ」
…………え?
思いもよらない言葉に、やっとその顔を見上げた。
書類から覗く常葉くんは、無機質な顔で私を見下ろしている。
「穂波さんの書類はいつも見やすいんですよね。だから頼む人が多いんじゃないんですか」
無機質な表情なのに、掛けてくれる言葉と瞳だけは優しいから、何でか急に目の奥が熱くなった。
……昨日は、泣けなかったのに。
咄嗟に目を逸らすと、常葉くんは私の隣に腰掛け、キーボードまでを奪うと淡々と打ち込んだ。
私よりも早いそれに、思わず目を奪われる。
「他の人に教えればいいのに、一人でするからこんな事になるんですよ」
「…皆んなは忙しくしてますし」
「遊ぶのに忙しそうですね」
「平気です。私、友達居ないですから、需要はないですし」
「だから、返事ひとつ返さないんですか」
常葉くんは言葉だけで責めると、振り向くことなく手を動かす。
昨日、『今日は帰りません』とだけ送ったメッセージに届く一言は、『わかりました』とか『了解』とか、その旨を了承する内容だと決め付けていた。
だけど、常葉くんからの返信は、私が考えていたものとは違った。
『昨日の、嫌だったのなら謝ります』
だから、返せなかった。
常葉くんが謝る必要なんかないのに。
嫌じゃない、それが堪らなく嫌だった。
見透かされるのも、現実を突き付けられるのも、意地悪だって、常葉くんを許す自分に、時々怖くなる。
常葉くんは華奢な手のひらをこちらに向けるので慌てて次の書類を渡した。
彼の瞳が何度かその紙切れをなぞるように泳ぐと再びキーボードは規則正しく音を鳴らす。
「常葉くん、私の心配してくれたんですか?」
「逆ですよ、ムカついてました」
「だから朝、怒ってたんですか?」
尋ねると、一瞬その音が止まる。
てっきり馬鹿にされるとばかり思っていたから、横顔を覗くと常葉くんは嫌そうに顔を歪ませていた。
「……違います」
「え、じゃあなんでムスッとしてたんですか」
「…………昨日、本間さんと話してるとこ見掛けたんで」
「へ?」
「最悪死んでんじゃねぇのかなって」
なんだよ、それ。
結局心配してくれてるんじゃん。
抑揚のない声はいつも予想外の事ばかり告げてくれる。
見てたのなら声をかけてくれてもいいのに、常葉くんはこういう所が狡い。
「そのくらいで死にませんよ!」
「それかまた自棄酒してんのかと」
「してたら、また迎えに来てくれました?」
「行きません」
……来ないんだ。
至極面倒そうに彼はピシャリと私を突き放す。
それなのに、疲れた、も、ダルい、も言わずにその手をこちらに向けてくれるから、私は義務的に書類を渡した。
「本間さんとはちゃんと終われましたか?」
楽器みたいにキーボードを打ち付ける綺麗な指先を見つめていると、そんな言葉を掛けられたので思わず視線を上げた。
「…はい。荷物も全部、処分してくれると思います。ちゃんと別れました」
再度その横顔は「ふぅん」と、興味もなさそうに呟く。
「でも、泣けなかったんですよね」
他人事みたいに事実を言えば、きゅっと唇を結んで書類を握る指先にも力を込めた。
酷い女だと、自分でも感じた。
あんなに好きだって思っていたのに、ちっとも涙は出なかった。
理由は、何となく分かる。
常葉くんが散々泣かせてくれたからだろう。
あの夜に旺くんへの涙は流し尽くしたのだろう。
……私は覚えてないけど、きっと、そうだ。
「…まぁ、あの男に泣く理由ないと思いますけど。残念ですね」
「何がですか?」
「泣いたら甘やかしてやったのに」
勝ち誇ったように笑う常葉くんはやっとその甘い目元をこちらに向けるのだから、不意打ちにドキリと胸は高鳴りうろうろと視線を泳がせた。
「……それは、また、次の機会に、お願いします」
だから私は、力なく呟くしか出来ない。