夜が明けきる少し前、研究室はまだ静まり返っていた。
試薬の匂いに混じって、冷めたコーヒーの香りが漂っている。
机のランプが淡く灯り、くられは書きかけのデータをぼんやりと見つめていた。
そばには昨夜のマグカップ。
ツナっちが淹れてくれたコーヒーだ。
もうすっかり冷めているのに、なぜかまだ温もりが残っている気がする。
時計の針が静かに朝を刻む。
白んでいく窓の向こう、街が少しずつ輪郭を取り戻していく。
徹夜明けのぼんやりとした意識の中で、くられはようやく肩を回した。
――そのとき、控えめなノックの音。
「おはようございます、くられ先生」
ドアの向こうからツナっちの声がした。
「おはよう。早いね」
「先生、もしかして帰ってないんですか」
くられは苦笑して肩をすくめた。
「気づいたら朝でね。もう少しまとめたくて」
ツナっちは少し呆れたようにため息をつき、手に持っていた紙袋を差し出す。
「コンビニのパンです。食べないと倒れますよ」
「心配性だなぁ。大丈夫だよ」
「昨日もそれ言ってましたけど」
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、机の上の資料をやわらかく照らした。
夜の静けさを洗い流すように、部屋の空気が少しずつ温まっていく。
ツナっちは先生のマグカップを手に取り、新しくコーヒーを注ぐ。
香りがふわりと広がる。
「少し休んでください。マジで無理したら意味ないっすよ」
「うん……そうだね」
くられは頷いて、マグカップを両手で包んだ。
その指先を見て、ツナっちはほんの一瞬、昨夜の感触を思い出す。
触れたのは一瞬だけ。けれど、不思議と忘れられなかった。
「……あったかい…」
「淹れたてですから」
ツナっちは微笑んだ。
ほんの短い会話。だけど、心の奥に何かが静かに波打つ。
外では鳥の声がし始めていた。
研究室の壁が薄く朝に染まり、夜の名残がゆっくりと消えていく。
くられは目を細め、柔らかく笑う。
「こうして迎える朝も悪くないね」
「先生がちゃんと寝てれば、もっと良かったですけどね」
「手厳しいなぁ」
ツナっちは苦笑しながら、机の端に置かれた資料を整えた。
ちらりと先生を見やる。
疲れているはずなのに、穏やかな笑みを浮かべるその横顔を見て、胸の奥が少しだけざわついた。
――やっぱり、気づいてないんですね。
心の中でそう呟きながら、ツナっちは先生のそばにマグカップを戻す。
「じゃ、俺は向こうを確認してきます。ちゃんと休んでくださいね」
「うん。ありがとう」
扉の前でツナっちは振り返り、ふっと笑う。
朝の光がその輪郭を縁取り、静かな研究室を柔らかく染めた。
扉が閉まると、再び静けさが訪れる。
くられはマグカップを見つめながら、窓の向こうの空を見上げた。
夜と朝の境目に残る静かな余韻が、まだ部屋に漂っている。
ふと、指先に微かな熱を感じた気がした。
心臓がわずかに跳ねる。
何に反応しているのか、自分でもわからないまま、くられは小さく笑みをこぼした。
「……こんな朝も悪くないなぁ…」
窓辺に差す光が少し強くなる。
その中で、白い湯気がゆるやかに立ちのぼり、夜の名残を静かに包み込んでいった。
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