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第8章 海に沈む花火
side 藤井香澄
週明けの定例会議は、いつもより人数が多かった。
。フェリクス側と、今回撮影を担う制作会社のディレクターも顔をそろえ、LIVELの会議室には三社分の人間が詰め込まれている。
議題は、地域観光とITサービスを掛け合わせたLIVELの新規プロジェクト。
湘南エリアを軸とした観光支援アプリのローンチに合わせ、連動するPR動画と特設サイトを立ち上げるというもの。
もともと上がっていた撮影候補地は、クライアント側の意向でいくつか見直しが入り、
「もう少し現地の“肌感”を入れてほしい」というオーダーが、新たに投げかけられていた。
「──ってことで、一回ちゃんと現地見ようか。今週末、視察ってことで」
そう言ったのは、フェリクス側のディレクター。
岡崎と同じくこの案件を初期から仕切っている人物で、言葉こそあっさりしているけれど、表情はわりと真剣だった。
そのまま流れるように、同行者の名前が挙がる。
「〜と、岡崎と……藤井さんにも来てもらえると助かります」
……え、私?
唐突に感じたが、岡崎も制作チームも、特に驚いた様子はない。
。
すぐ隣のフェリクスのスタッフが冗談めかして笑った。
「あ、うちで一番工程見えてるの、藤井さんだから。お願いしやすいのよ」
「進行把握してる人が現場にいると、動きが全然違うしね」
思わず上司の顔を見ると、部長は軽く頷いてから「現地、行けそう?」と、むしろこちらを気遣うように聞いてくる。
どうやら、すでに内々で話は進んでいたらしい。
「……はい、大丈夫です」
少しだけ間をおいて、そう返した。
名前が自然に挙がることに驚きつつも、
それ以上に、信頼されているということが、じんわり伝わってくる。
絵コンテの修正依頼や、スケジュールの調整──
確かに、ここ最近そういった全体のやりとりを担っていたのは、自分だった。
(……まだ、全体を見切れてるわけじゃないけど)
(現場に行けば、もっと理解できるかもしれない)
自分にそう言い聞かせる。
とはいえ、ロケハンなんて初めてで、正直、少しだけ緊張していた。
そのとき、隣から岡崎がこちらに身を傾けて囁いてくる。
「大丈夫でしょ。現場は俺らが慣れてるから。ロケハン初めてなら、まずは流れだけ掴んでくれたら全然それでいい」
頼りない顔をしてたのかもしれない。
岡崎はそんなふうに、さらっと道をならしてくれる。
「うん…ありがとう」
「いやしかしナイス人選。藤井いたら俺もちょっと気楽だわ」
気楽。ただの友達に言うようなその言葉なのに岡崎に言われるとちょっとニヤけてしまいそうになる。
「…そう思っていただけて光栄です」
「なに、その言い方。…あらやだ藤井ちゃんっあなた照れないでよ。こっちまで恥ずかしくなってきちゃうじゃないのよ」
「照れてないわよっ。しかもその言葉づかいなに?なんで奥様口調?やめてよ気持ち悪いから」
「ひどっ気持ち悪いって。あなた敬語やめた途端、僕に当たり強くなってない?」
2人して笑いながら資料をめくり直す。
窓の向こうで、夏の手前の空が光っていた。
ロケ地は、江ノ電沿線、由比ヶ浜、鎌倉、逗子海岸──
どうやら、本格的に“湘南らしさ”を打ち出した映像に方向転換するようだ。
ふと、週末の親睦会の夜のことがよぎる。
岡崎のことが好きだと、自分の気持ちに気付いてしまったあの日。
二次会のカラオケでトイレから戻ると、いつもの元気はなくなり、スマートフォンを片手に珍しく言葉少なだった岡崎。
「…んーん。友達」
と口にしたあのときの声が、どこか寂しそうで。
誰にも見せない影の部分を、ほんの少しだけ覗いてしまった気がした。
軽い人だと思っていた。
誰とでもうまく話せて、冗談で空気をやわらげて、明るさで場をまわす人。
でも、あのときは違った。
スマホを見つめる目も、声の調子も、全部どこか遠くて。
まるで、誰にも触れられない場所にいるみたいだった。
スマホを見つめるその視線の奥深くに、大切な誰かがいるんだろうとわかってしまった。
一年前の自分と同じ表情をしていたから。
それに気づいてしまってから、この恋はきっと実らないものなんだと、どこかで悟ってしまった。
……それでも。
それでも、その人と、いま一緒に現場に行くことが決まって。
心のどこかで浮かれてしまっている自分がいる。
おかしいよね、と少し笑いそうになる。
少し前の自分なら、こんなふうに気持ちが揺れることさえ、信じられなかった。
もう誰かに期待するなんて、もう誰かに気持ちを寄せるなんて、
あんな別れを経験したあとで、できるはずがないと思ってたのに。
それなのに今は、
ただ隣の席で「大丈夫」と言われただけで、
それだけで、少し救われたような気がしている。
悲しいけれどこの恋は叶わないかもしれない。
でも1年前のあの日からやっと前に進むことが出来た。
そう思うと今は岡崎の隣にいれたら、それでいい。
それだけできっと十分。
そう思いながら、会議室の窓の外に視線を向ける。
ぼんやりと陽が射し込んで、テーブルに淡い影を落としていた。
視察は、今週末。
そこでは、岡崎はどんな顔をしているんだろう。
あのときの岡崎は、どれが本当だったんだろう。
まだ知らない顔が、きっとまだたくさんある。
だから──あの湘南の海の向こうで、
ほんの少しでも、この人の“本当”に近づけたらいい
期待する気持ちと、傷つくことへの怖さと。
そのあいだで、静かに心が揺れていた。
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