テラーノベル

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テラーノベル(Teller Novel)

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◤5年後──ロンドン郊外の一軒家◢

──元・発明家フラッシュと、名もなき少年。

冷たい朝。

雨が降りそうな空の下、ロンドン郊外のレンガ造りの一軒家には、古びたソファと、積まれた論文、そして、その空間には似合わない様々な子供用のおもちゃがあった。

フラッシュはソファに蹲り、冷えた紅茶を飲みかけたまま、動かない。

テレビはつけられているが、音は出ていない。

針の止まった時計の下で、時間だけが、彼らを置き去りにしていた。

奥の部屋から、小さな足音がする。

パジャマ姿の少年──“ローライト”が、両手をこすりながら歩いてきた。

「……おはよう……とお、さん……」

その声に、フラッシュは顔だけ向けた。

「………おは……よ、う。……お、と……さん」

目の下には深いクマ。

返事は、なかった。

「……おとう……さん」

少年がもう一度、少し躊躇って呼ぶ。

「……おとぉ……さん……?」

その言葉に、フラッシュはようやく、言葉を返した。

「──その呼び方は、やめなさい」

少年は小さく首をかしげた。

意味が分からない顔をしている。

「どうして……?」

「俺は……お前の父親じゃないからだ」

「おとうさん……じゃ、ないの……?」

「ああ。俺はお前の父ではない」

「……じゃあ、だれ……?」

「…………」

「…………」

「誰でもない。……赤の他人だ」

「あかのたにんって……なに?」

「関係ない人って事だ」

「かんけい、ないの?」

「関係ない。──関係ない人には敬語を使いなさい」

「けいご……? けいごって、わからない」

「分からなければ学びなさい」

「…………はい」

「…………」

「…………おとうさんは、さ」

「キリス『さん』でいい」

「……キリス、さん?」

「そうだ。目上の人は敬うべきだ。……私のことはキリス『さん』でいい」

「………キリス……さん」

「なんだ?」

「どうして……わたしには──“おやがいない”のですか?」

「……死んだからだ」

「なぜ、“しんだ”のですか?」

「……俺が殺したんだ」

「……“ころした”って、なんですか?」

「この世から……いなくさせることだ」

「わたしには、“おやがいない”、ですか?」

「いない」

「……どうやったら……“いなくならない”、ですか?」

「いなくなったらもう戻らない」

「“もどってこない”、ですか?」

「……戻ってこない」

「じゃあ、どうしたら──“おかあさんのところにいけますか”?」

「…………」

「…………キリスさん」

「行けない。もう母には会えない」

「どうしても、ですか?」

「どうしてもだ」

「…………」

「…………」

「…………」

「父と母が恋しいのか?」

「……こいしいって、なんですか?」

「……分からないのならいい。子供にはまだ早い言葉だ……大きくなったら教えてもらいなさい」

「…………はい」

「…………」

「…………あの……」

「ご飯にしよう」

「…………はい」



「どうして、わたしには、なまえがないんですか?」

「…………」

「なまえは、いらないですか?」

「…………」

「……なまえはなくても、いいんですか?」

「構わない」

「…………じぶんでつけても、いいんですか?」

「駄目だ」

「なぜ、だめなんですか……?」

「自分の名前を付けたら、自分を自分で定義することになる。それは自分で自分の頭を撫でるのと同じだ。哀れだからやめなさい」

「あわれって、なんですか?」

「目も当てられないほど酷いってことだ」

「あたまをなでることは、ひどいことですか?」

「他人から頭を撫でられることは立派なことだ。しかし、自分の頭を撫でるのは哀れだからやめなさい」

「……はい」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ローライト」

「…………はい」



「──“やめなさい”」



「……はい」

「…………」

「…………」

少年は膝を椅子の上に立てると、手をそこに置いた。まるで自分で頭を撫でないように縮こまるみたいに。

「…………」

「……何か欲しいものはあるか?」

「……ふくが……ほしいです」

「どんなのがいい?」

「…………しろいふくがいいです」

「……なぜ、白色を選ぶんだ?」

「しろいろがいちばんすきだから、です」

「白色は眩しくないか?」

「まぶしくないです。あかるいです」

「そうか……」

「……だめ、ですか?」

「いや、いい。私がその色を好まないだけだ」

「……ごめんなさい」

「なぜ謝る?」

「おこられたきが、しました」

「俺は怒ってない」

「…………」

「…………服、分かった。今度見ておこう」

「……!ありがとう……キリスさん」

「……………」

「……………」

「……………」

「……ねえ、キリスさん」

「なんだ?」

「どうして、わたしには、なまえがないんですか?」

「まだ気になるのか?」

「はい……きになります」

「…………」

「…………」

「──俺はお前に名前は、つけない。いや──つけたくない」

「…………なんでですか?」

「名前は与えた瞬間に……意味が生まれる。俺がお前に名前を与えたら、俺はお前を愛さなくてはいけなくなる」

「あいするのは、いや、ですか?」

「嫌じゃない。しかし──“愛おしいと思ってないものは愛せない”」

「……………」

「家畜に名前をつけないのと同じだ。名を呼べば、情が湧く。情が湧けば、失う時にまた傷つく。その後の処理が、手に負えなくなる。だからお前には名前を付けない」

「…………」

「お前を愛おしい存在だと思いたくない」

「いとおしいってなんですか?」

「一生を背負うほど好きということだ」

「わたしは“いっしょうすきにならない”、ですか?」

「ならない。“愛おしくない”。……その感情はわかる必要もない。おまえにはまだ……いや、一生理解しなくていい」

「…………」

「名前を持つというのは、幸福じゃない。その名を呼ぶ誰かを……失う恐怖と、必ず対になる」

「…………」

「ローライト、覚えておけ」

「…………はい」



「名を貰うとは贅沢なことだ。当たり前のことではない。何の役にも立たない人間に初めて誰かが『無償の愛』を授ける行為だ。だから、名を与える側は覚悟がいる。責任がいる。……愛情がいる」



「“かくご”も、“せきにん”も、“あいじょう”も、キリスさんにはないんですか?」

「ない。そのどれも持ち合わせてない……そういう人間を“赤の他人”と呼ぶ。すまなかったな──俺が父親じゃなくて」

「なぜ、あやまるのですか」

「大人としての礼儀だ」

「わたしは、あやまられるようなこと、してないです」

「俺にはあるんだ」

「わたしにはないです」

「お前になくとも、俺にあったら謝るのが大人だ。己の罪を認め、反省する。それが出来るのは大人だけだ。だから、大人は犯罪を犯すんだ」

「おとなははんざいをおかすんですか?」

「そうだ。罪を死と同じように許されないものだと思っていれば犯罪は起こさない。しかし、罪を認め、身近にあるうちに“人は犯罪を犯す”ことに慣れる」

「……わからない、です」

「分からなくていい。罪を理解できる大人にはなるな」

「つみはりかいできない、ですか?」

「そうだ。罪は己の心だ。心を完全に理解できる人間はいない」

「…………」

「だからこそ、人は“罪悪感”という幻で自分を縛る。罰よりも重いものは“後悔”だ。痛みを知る者だけが、変わろうとする」

「……いたいの、きらいです」

「みんなそうだ。だが、痛みを知らずに育った者は──優しくない」

「やさしくない?」

「ああ。優しさとは、“痛みを避ける”ことじゃない。“痛みを知っているからこそ、他人に同じものを与えない”。賢い者にしか出来ない判断だ」

「…………」

「優しさというのは、目の前の誰かの痛みを、自分のものに変える強さだ」

「つよさ……?」

「そう。自分が傷ついても構わないと、前に出ることだ」

「…………」

「……お前の父親も、そうだった」

「……おとうさん、も?」

「ああ。愛するものの為に己を犠牲にした彼を──世間では『正義』と呼ぶ」

「せいぎ?」

「そうだ。──父親に近づきたければ正義を見つけろ──母親に近づきたければ愛情を見つけろ──そこに答えがある」

「こたえ……それはぱずる、ですか?」

「そうだ。この世で最も難しいパズル──優しい人にしか解けないパズルだ」

「わたしにも、とけますか?」

「ああ。解ける──それを、解ける者にならなくてはならない。そこに、“父と母はいる”」


❅❅❅


◤3年前◢


「──うわあああああああああっ!!」

夜が割れた。

小さな泣き声が、部屋の隅々まで突き刺さる。

カーテンの隙間から、街灯の光が揺れていた。

ベビーベッドの中で、少年──ローライトが泣いている。

まだ二歳だ。

なのに、この声は、まるで世界を責めているみたいだった。

「……なあ、もう泣くなよ……頼むから……」

フラッシュは額を押さえた。

寝不足で、視界が霞んでいる。

哺乳瓶を持ち上げてみせても、ローライトは首を振って泣き続けた。

「……市販のミルクは嫌なのか……贅沢言うなよ……なあ……」

言葉に苛立ちが混じる。

けれどその声の裏に、自分でも気づかないほどの罪悪感が滲んでいた。

ミルクの匂い。

泣きじゃくる顔。

手の中のぬくもり。

それが、何か別の記憶を呼び起こす。

──彼女の腕の中で、あの子が笑う光景。

脳裏に浮かんで、すぐに掻き消した。

「……俺には乳は出ないんだって……」

言いながら、絶望の呼吸が強まる。笑ってみせるには、体力が足りなかった。

またすぐに泣き声が返ってくる。

フラッシュは床に座り込み、背中を壁に預けた。

頭の奥が、ずきずきと痛む。

「……俺なんかが親代わりじゃ……逆に、この子が可哀想だったかもしれないな……」

ぽつりと、誰にも届かない独り言が落ちる。

その時だった。

机の上の電話機が、目に入った。

「……!」

彼は、縋り付くように受話器を取る。

番号は、覚えすぎるほど覚えている。

ワイミーさんの電話番号。


プルル……プルル……。


数回の呼び出し音のあと、あの落ち着いた声が聞こえた。

『──フラッシュ? どうした? こんな時間に』

「……ワイミーさん……俺、もう……無理かもしれません……」

『何がどうした? まさか、ローライトが?』

「泣き止まないんです……ずっと。俺、どうしていいか分からない。……ミルクも飲まないし、寝ないし……」

『落ち着いてください。今、何時です?』

「午前……三時、です」

『あなたも寝てないんですね』

「……寝れませんよ……!この子の声、止まらないんです……」

声が震えていた。

受話器を握る手が汗で滑る。

──けれど、泣いているのは赤ん坊じゃなく、嗚咽を噛み殺しているのは、俺の方だった。

『……分かりました。フラッシュ、今からそちらへ行きます』

「えっ……そんな、夜中ですよ……!」

『夜中だからこそ、です。──その子をひとりにしないでください。いいですね?』

通話が切れる。

受話器を置いたあとも、耳の奥でワイミーさんの声が残っていた。

泣き声はまだ止まらない。

時計の針が、やけに大きな音で刻まれている気がした──


──ひぃっ、あっ……ああああああっ……!


「……………」


──あ、ああぁああっ……!


「……………うるさい」


──ひっく、ひっく……あああぁぁ……!


「うるさい……うるさい……」

その声にかき消されるように、フラッシュは呟いた。

「…………ワイミーさん、早く……」

どれくらい経っただろうか。

玄関のベルが鳴った。

フラッシュは慌てて立ち上がり、ドアを開けた。

冷たい夜気の中、コート姿のワイミーさんが立っていた。

手には小さな紙袋を提げている。

「……すみません、ワイミーさん……」

「謝ることじゃない」

ワイミーさんは穏やかに微笑み、コートも脱がずに部屋に入った。

泣き声のする方へ、迷いなく歩いていく。

ベビーベッドの上、ローライトが顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。

小さな拳を握り、息を詰まらせながら。

ワイミーさんは無言のままその姿を見つめ、慣れた手つきでオムツを替え、温かいタオルで肌を拭く。

泣き声が、少しずつ落ち着いていった。

フラッシュは壁にもたれ、ただその光景を見つめていた。

「……俺がいくらあやしても、泣き止まなかったのに……」

言葉がこぼれる。

ワイミーさんは答えず、小さく息をつきながら、ローライトを抱き上げた。

その腕の中で、ローライトはゆっくりと泣き止み、まぶたを閉じ始めた。

ワイミーさんの揺れは、驚くほど穏やかだった。

まるで重力そのものを包み込むような、柔らかな動き。

それを見ているうちに、フラッシュの胸の奥がじんわりと痛みだした。

「……やっぱり、俺じゃ駄目なんですね……」

小さな声で呟いた。

「俺なんかが親代わりじゃ、この子が可哀想だったかな……」

ワイミーさんはローライトをあやしながら、静かに言った。

「誰も、最初から上手くできる親はいない。あなたが“居る”ことが、もう充分に意味のあることだと、私は思う」

フラッシュはその言葉にうなずけなかった。

ただ、沈黙の中で、自分の手を見つめていた。

手のひらの温もりは、どこかで失ってきた“光”の記憶と重なっていた。


❅❅❅


ローライトはワイミーさんのおかげでようやく静かになった。

小さな寝息が、ベビーベッドの上で規則的に揺れている。

ワイミーさんが優しく毛布を整えると、彼の指がかすかに動いた。

「……眠りましたね」

「……はあ、良かった……」

その声が、夜に溶けていった。


──数年前。

あの臨界事故の責任を、誰よりも重く感じていたのは俺だった。

ドヌーヴを失い、コイルを失い、その中で生き残った“この子”だけが光だった。

彼を育てると言った時、ワイミーさんは反対した。

「子供が子供を育てられるわけがない」──と。

正論だった。

だけど、俺には、それ以外の生き方が残っていなかった。

ルミライトの完成報酬で手に入れた金は、想像以上であり、巨万の富を得た。

人目のつかない郊外の小さな一軒家。

研究所からも、街の喧騒からも離れた場所。

“彼”と二人で、生き直すための場所。

──案の定、上手くはいかなかった。

泣き声に眠れない夜が続き、食事の匂いだけで吐き気がした。

鏡を見るたびに、知らない顔が映っていた。ノイローゼだと自覚する頃には、もう感情の切り替え方さえ忘れていた。

……名前も、まだない。

考えたことは、何度もある。

でも、どうしても“つけられなかった”。

名前を呼ぶたび、あの声──ドヌーヴの最後の言葉が蘇る。

「俺の子供には、お前の名前をつける」

あの“余計な一言”が、心に深く刺さったまま抜けない。

だから俺は、呼べない。

この子の名前を。

“呪い”にしたくなかったから。

それでも──この子は、俺の罪の証であり、唯一の救いだった。

夜風がカーテンを揺らす。

ローライトの小さな寝息が、それに混ざって消えていく──

俺はお湯をカップに注ぐと、ワイミーさんの前に差し出した。

「……どうぞ、冷めないうちに」

ワイミーさんはそれを受け取り、香りを確かめるように目を細めた。

「あなたの淹れるココアは、昔と変わりませんね」

「ええ……でも、味を覚えてるのはこれくらいですよ」

苦笑しながら、フラッシュはカップを口に運ぶ。

目の下の隈が濃い。

頬はやつれ、髪も整っていない。

それでも無理に笑うその姿が、余計に痛々しかった。

「眠っていないのか」

「寝ても、すぐ起こされますから。……この子が泣くと、どうしても」

「母親の声が聞こえないのが、不安なんだろう」

「……多分、そうです」

フラッシュの声はかすれていた。

膝に置いた手が小刻みに震えている。

ワイミーさんは一度だけ息を吸い、湯気の向こうでゆっくりと言った。

「──フラッシュ」

「……はい」

「もし、あなたに提案をしてもいいなら、ひとつだけ聞いてもらえるか」

フラッシュは顔を上げた。

その目は、疲労の奥にほんの少しの希望を探しているようだった。

「私は、ずっと考えていた。人の才能というものが、もし“育て方”で変わるのなら──天才を、意図的に育てることはできるのではないかと」

「……天才を?」

「ええ。個人の資質や血筋ではなく、環境で育つ“頭脳”を。私のような人間を、百人、千人と育てれば世界は、もっと速く進むと思うんだ。それが、今私の構想している“ワイミーズ・ハウス”。世界中に孤児院を建て、様々な才能を育てる。 孤児院だ」

フラッシュはその背中を見つめながら、しばらく言葉を失った。

「……それは……本気で?」

「もちろん。私はルミライトで手に入れた巨万の財産を使って世界中の孤児たちに学びの機会を与えるつもりだ」

「……孤児、ですか」

少しだけ考えてしまった。

この手の内から離すことを。

「ローライトも──もし、あなたが希望するなら、その中の一人として迎え入れる」

その言葉に、空気が止まった。

フラッシュは思わずカップを握りしめる。

「……この子を……施設に、ですか」

「ええ。彼らの優秀な血を継ぐ子なら、必ず、何かを成し遂げる力を持っているだろう。あなたも分かっているはずだ。子供が子供を育てるには、あまりに過酷だということを」

「お、俺……もう24ですよ?」

「24でも、まだ子育てをするには早すぎると私は思う」

沈黙。

時計の針が、また一つ音を刻む。

フラッシュは、カップの中のココアを見つめた。

そこに映る自分の顔が、ひどく遠くに見えた。

「……この子を手放すのは、寂しくないと言ったら、嘘になります」

「分かってる」

「でも──この子のためになるのなら、俺の手を離れるべきなんです」

その声は震えていたが、不思議と穏やかだった。

「……あの子には、光の中から生まれた理由がある。だったら俺じゃなくても、ちゃんと導いてくれる場所に行くべきだと思う」

ワイミーさんは、ゆっくりと頷いた。

フラッシュは視線を落とし、微笑んだ。

「この子が……世界を変えるなら、それが一番の救いです」

──ローライトは、眠っていた。

小さな胸が上下し、時折指がかすかに動く。

彼の未来は、まだ誰にも見えない。

けれど、二人の間に流れたその一瞬の沈黙が、確かに“始まり”を告げていた。



「……ここが、そうですか?」

目の前にあるのは、ウィンチェスターにある教会。

車のエンジンが止まる音だけが、庭に響いた。

「Wammy’s House」と刻まれたプレートが、門の脇に掛かっている。

「ええ。ここから、たくさんの子供たちが世界に羽ばたいていく──その第一号が、君の息子だ」

「……息子」

その言葉が、胸の奥に刺さった。

まだ、実感がない。

“父親”という響きが、どうしても自分のものとして馴染まない。

後部座席。

小さな声がした。

「……ぁ、あ……」

ローライトが目を覚ます。

大きな黒い瞳が、まだ世界を知らないように揺れている。

彼は、フラッシュの指をぎゅっと握っていた。

小さな手。あまりにも温かい。そのぬくもりだけで、理屈が吹き飛ぶ。

「行こうか」

ワイミーさんの声で、我に返る。

車のドアが閉まる音が、妙に大きく響いた。

「……ワイミーさん、どうか、この子を……お願いしま──」

その瞬間だった。

ワイミーさんが両腕を伸ばし、ローライトを受け取ろうとしたとき──



「──っ、う、あああああああああ!!」



突如、耳を裂くような泣き声が響いた。

ローライトの足が跳ねる。

小さな足が、ワイミーさんの顔面を見事に蹴った。

「っ!?」

「ローライト!」

フラッシュが慌てて抱きしめる。

ローライトは、泣きながら首を横に振った。

「いやあああああっ!!いやぁあああああ!!!」

小さな身体を必死に反らせて、腕にしがみつく。

爪が皮膚に食い込むほど強く。

ワイミーさんが眼鏡をずらしながら苦笑した。

だが、フラッシュは笑えなかった。

なんで……。

なんで……。

そんな必死に俺に縋り付く──

「……ろ、ローライト……」

この子……離れたくないんだ。

喉の奥が、焼けるように痛かった。

何かを言えば、涙が出そうだった。

ローライトの小さな手が、ぎゅっとフラッシュのシャツを掴んだ。

その掌の熱は、言葉よりも確かだった。

「……フラッシュ」

「……す、すみません……」

「無理に今、別れを強いる必要はない……一度、考え直そう」

「──い、いいえ」

フラッシュは首を振った。

涙が落ちるのがわかった。

「……俺がこの子を手放せないのは、情なんです。……俺の元にいるより……友達ができるような環境の方が……この子の為なの、分かってますから」

「……」

フラッシュは、泣き叫ぶローライトを胸に抱き、そっと額を寄せた。

「……ごめんな」

声は震え、息が詰まる。

「お前は、俺じゃない誰かに育てられるべきなんだ」

「いやぁああああああ!!!」

そうして俺はワイミーさんにローライトを託す。

そう、託す。


はずだった──


結局ワイミーさんの腕にローライトを預けることができなかった。

小さな手が、あまりにも強くシャツを掴んでいた。

バタバタと暴れ、喉が裂けそうなほど泣き叫んで、息も絶え絶えになるまで泣いて──それでも手を離さなかった。

ワイミーさんは何も言わずに見ていた。

それが「理解」でも「諦め」でもなく、ただ一人の大人としての“判断”だったのだと思う。

俺はもう後悔するような人生は歩みたくなかった。

だから、彼を手放さなかった。

──それから、3年が経った。

フラッシュはまだ、同じ家にいた。

けれど、もう泣き声は聞こえなかった。

ローライトは5歳になり、恐ろしいほど大人しくなってしまった。

泣かない。

笑わない。

怒りもしない。

その代わり、黙々と床に蹲って指しゃぶりをしている。

小さな唇が、音もなく濡れた指先を包む。

空気の中で、くちゅりと柔らかい音が響く。

それがこの家で唯一の“生きている”音だった。

フラッシュは、ただ黙ってその姿を見つめていた。

母の乳を飲んでこなかったこの子にとって、口は寂しいのだろう。

それは、命をつなぐための仕草のはずなのに、ローライトのそれは、どこか違って見えた。

“生きている感触”を、ひとりで探しているような──

「……おいで」

フラッシュは膝を軽く叩いた。

だが、ローライトは顔を上げず、ただ指を口に含んだまま、何かを考えるように遠くを見ている。

その瞳に映るのは、父でも母でもない。

もっと別の何か──光の中で、ひとりぼっちで生まれた記憶そのもののようだった。

「……ローライト」

名を呼ぶ声は、やさしくも、どこか怯えていた。

あの事故以来、初めてできた“家族”を、どう扱えばいいのか、フラッシュ自身も分からなくなっていた。

そして──彼は、事故で早く生まれた影響なのか、それとも、もともと備わっていた才能なのか。



──ローライトの“頭”は、異常なほど冴えていた。



まだ5歳。

数字も文字も、誰に教えられるでもなく覚えてしまう。

大人でも頭を抱えるような、複雑なパズル。

色と形が入り乱れた数百ピースの構造体を、わずか数分で組み上げてしまう。

それが、日課になっていた。

フラッシュはリビングの隅でその光景を見ていた。

コーヒーは冷め、手の中の新聞は同じ頁で止まっている。

「……ローライト」

呼びかけても、返事はない。

ただ、カチ、カチ、と組み合わせる音だけが響く。

彼は、世界を作っていた。

自分だけの、小さな世界を。

泣く代わりに、そこに心を閉じ込めているのだと、フラッシュは知っていた。

──泣かない子どもほど、世界を深く見ている。

その裏で、確かに何かが育っていた。

感情ではなく、思考。

涙の代わりに、理性が育ち始めていた。

ふと、ローライトが完成させたパズルの中心に、小さな隙間が残っているのを見つけた。

最後のピースを指に挟んだまま、彼はじっと見つめている。

「どうした?」

フラッシュが近づくと、ローライトがゆっくりと顔を上げた。

「……これ、合わないです」

「合わない?」

「うん……“正しい形”なのに、入らない」

その言葉に、フラッシュは息を呑んだ。


──ああ、俺たちのことだ。


正しい形のはずなのに、どこか噛み合わない。

それでも、無理に繋げようとする。

その不器用さが、きっと親子の証だった。



──俺が衝撃を受けたのは、その少し後のことだ。

午後の陽射しがまだやわらかい、公園の砂場。

ローライトが一人、スコップで山を作っていた。

砂の粒を丁寧に積み上げ、崩れないように角度を調整している。小さな建築家のように。

そのとき、俺はベンチで見守っていた。

ほんの一瞬──視線を外した、ただそれだけだった。

「お前の山、邪魔なんだよ!」

甲高い声が響いた。

顔を上げると、同じ年頃の子どもが、ローライトの山を足で蹴り崩していた。

砂が舞い、ローライトの頬に当たる。

小さな手が止まった。

次の瞬間──ローライトは蹴られた。

「───」

……けれど、驚いたのはそのあとだった。

ローライトは、泣かなかった。

叫びもしなかった。

ただ、ゆっくりと立ち上がると──無言で、その子を蹴り返した。

それは、幼児の反射でも、怒りでもなかった。

どこか、計算されていた。

相手の足の角度を測り、体重のかけ方を見て、ほんの少しだけ強く、ほんの少しだけ速く。

──完全に、“仕返し”として成立する力加減だった。

俺は、息を呑んだ。

誰に教えられたわけでもない。

それでも、彼は“均衡”を取ったのだ。殴られたら殴り返す、という単純な幼児の喧嘩ではない。まるで、「痛みを返すことが正義」だと悟っているような。

泣きもせず、ただ相手を見下ろし、ローライトは無表情でこう言った。



「……先に蹴ったのはあなたの方だ。──私が正義だ」



──俺は、背筋が凍った。

その言葉に、情緒も幼さもなかった。

まるで、秤にかけるように、世界の“釣り合い”を取るような声音だった。

あの時、俺は確信した。

この子は──普通の子じゃない。

光から生まれた代償として、“正義の形”を、どこか別の場所で覚えてきたのかもしれない。


そのあとだった。


殴り合いのような幼い衝突は、すぐに大人を呼んだ。

相手の親が血相を変えて駆け寄ってきたのだ。

砂の山を踏み荒らした子どもは泣きじゃくり、ローライトは、相変わらず無表情のまま立っていた。

「あなたの子ども、うちの子を蹴ったのよ! 見て、この足!」

女の怒声が、公園中に響いた。

フラッシュは慌ててローライトの肩を掴んだ。

「すみません、すみません、本当に──」

その瞬間だった。

乾いた音が、頬を裂いた。

相手の手のひらが、まっすぐフラッシュの顔を打っていた。

思わずバランスを崩し、砂に片膝をつく。

頬の内側に、血の味。

「しつけもできないの!? 親でしょ!」

怒鳴り声が、子どもたちの泣き声をかき消した。

ローライトの小さな体が震えた。

次の瞬間、彼は拳いっぱいに砂を掴み──相手に投げつけようとした。

「──やめろ!」

フラッシュがその手を掴む。

ローライトの指の間から、砂がばらばらと零れ落ちた。

そのまま腕を抱き込むように押さえつけ、彼の小さな頭を強く押さえつける。

「謝れ」

「……」

「……謝るんだ」

俯いたまま、ローライトの唇が震えた。

その瞳は濁っていない。

ただ、理解できないというように揺れていた。

「……なんで?」

「いいから……謝るんだ」

「でも……先に手を出したのは……」

「──いいから!!」

フラッシュの声が、怒鳴りというより、泣き声に近かった。

ローライトの頭を押さえた手が震えていた。

指の間から、まだ砂が零れ落ちていく。

「すみませんでした……」

小さく、掠れた声。

それを聞いた母親は、鼻を鳴らして子どもの手を引いた。「まったく……」とだけ言い残し、公園を去っていった。

残されたのは、沈黙。

秋の風が砂をさらい、壊れた砂山を平らに戻していく。

フラッシュは、膝をついたまま動けなかった。

隣で、ローライトがじっと自分を見上げていた。


その帰り道。

風は冷たく、街灯の明かりがオレンジ色に滲んでいた。

ローライトは、まだ何も言わなかった。

小さな手の中には、さっき掴んだままの砂が少しだけ残っていた。

フラッシュは、彼の手を見下ろしながらぽつりと呟いた。

「……よくやったな」

ローライトが顔を上げる。

驚いたように見つめた。

「やられたら、やり返す──それでいい」

「……」

「我慢しても、誰も褒めちゃくれない。ズルズル引きずると……それはいつか、恨みになる」

言葉を選ぶように、フラッシュは歩きながら続けた。

「俺も……昔、そうだった。友達がいた。大事なやつだった。でも、少しずつズレて、許せなくなって……それで、関係は崩れた」

夜風に混じるように、ため息がこぼれる。

「怒りを抱えたままじゃ、生きづらい。同じ土俵に立って、同じ痛みを返す。それが“釣り合い”ってもんだ」

「つりあい……」

「そう。お前は間違ってなかった」

ローライトはしばらく黙っていた。

やがて、ぎゅっと小さな拳を握りしめ、

「……じゃあ、あの人も、つりあってた?」と尋ねた。

フラッシュは答えなかった。

ただ、街灯の下で、影が二つ、ゆっくりと並んで伸びていった。

──そう言いながらも、心のどこかでわかっていた。

あのとき、俺が教えたのは“正義”じゃない。

憎しみの引き方と、痛みの返し方だった。

そしてそれが──あの子にとっての最初の道徳になってしまった。


❅❅❅


「ローライト、きょうはいい日だな」

「はい、そうですね」

「日が……出てるな」

「そうですね」

「……」

「……」

「……ローライト……」

「はい」

「今日は……いい日だな」

「……」

「……なぁ、ローライト」

「はい」

「……光が……きれいだな」

「はい」

「まぶしいな」

「……はい」

「……光って、あたたかいな」

「……」

「なぁ……お前は、光が怖くないのか?」

「……こわくないです」

「そうか……お前は、強いな」

「……」

「俺は、光が怖いよ。ずっと怖い。……俺を全てのみ尽くしたものだから……」

「……」

「なぁ、ローライト。お前の母さんも、こんな日差しの中で死んだんだ」

「……」

「……綺麗な光だったのに……」

「……」

「なんで、死んでしまったんだろう……」

「……」

「なぁ、ローライト。お前、昨日は何食べた?」

「スープです」

「スープか。……そうか、スープ。スープは……うまかったか?」

「……はい……」

「……そうか。スープは、いいな。……スープは、温かい」

「……」

「ローライト……スープ、あるか?」

「もう、ありません」

「そうか……そうか……」

「……」

「なぁ、ローライト」

「はい」

「俺は、最近ずっと眠いんだ」

「寝たらどうですか?」

「寝ても、夢を見ないんだ。……あの子も、出てこない」

「……」

「なぁ……俺、いつからここにいるんだ?」

「……わかりません」

「そうか。そうだよな。俺もわからない」

「……」

「今日、何日だ?」

「……しりません」

「……そうか……知らないか」

「……」

「……ローライト」

「はい」

「今日……いい日だな」

「……」

「……いい日だ」

「……はい」

「日が出てる」

「はい」

「まぶしいな」

「……はい」

「光が、きれいだな」

「……」

「まぶしいな……」

「……」

「なぁ、ローライト」

「はい」



「──なんでお前だけ生き残ったんだ?」



「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「なんで……」

「……」

「なんで俺の子じゃないんだ……」

「……」

「なんで俺の子じゃなかったんだ……」

「……」

「どうしてお前だけ生きてるんだ……」

「……」

「お前を見てると苦しい……」

「……苦しい?」

「……二人の死骸を見てるようで……」

「……」

「……何より、お前が父親そっくりなのが……どうしようもなく苦しい……」

「……」

「生きてるのに、死んでるように見える……。死んでるのに、生きてるように感じる……。お前は……“死の続き”にしか見えない」

「……」

「お前を見るたびに、思い出すんだ……あの光、あの匂い、あの焦げる音……」

「……」

「お前は、あのとき燃えた胎の中で──母親の死体を踏み台にして、生まれてきたんだ」

「……やめて、ください……」

「俺は全部見たんだ 腹が裂けて、臓器が溶けて……それでもお前だけが生きた」

「やめてください……」

「生まれた瞬間、母親の体温を奪って、お前は息を吸った!!!」

「やめてください!!」

「俺がどれだけ望んでも、何ひとつ残せなかったのに! お前は全部持って生まれてきた!!!」

「……」

「愛される資格もないのに……生きる資格もないのに……なんで、そんな顔で俺を見るんだ……」

「……」

「……お前の母親と結婚するのは、俺のはずだったんだ」

「……」

「ほんとうは、そうなるはずだった。……あの人の隣に立つのは、俺で……あの人の笑顔を受け取るのも、俺の役目だった」

「……」

「でも、できなかった」

「……」

「“子供がほしい”って、笑って言ったあの顔を見た瞬間……何も言えなくなった」

「……」

「抱きしめることも、手を伸ばすこともできなかった。……“付き合ってください”の一言さえ、喉の奥で腐っていった」

「……」

「だって、俺は──“被爆者”だから」

「……」

「医者に言われたんだ。“精子は死んでる”って」

「……」

「“子供は望めません”って」

「……」

「その瞬間、俺は“男”じゃなくなった。……“父親”にも、“夫”にもなれないと知った」

「……」

「だから言えなかった。……“好き”だなんて、言えなかった」

「……」

「あの人は、俺が黙って笑ってるのを、“優しさ”だと思っててくれたのに──」

「……」

「でも、あいつには──気づかれてた……」

「……」

「後悔してる。……何もかも、生き方全てに」

「……」

「お前が白い服を着てると……結婚式のドレスを思い出す」

「……」

「まぶしかった……俺にはまぶしすぎた……」

「……」

「お前の父親があの人を抱きしめた時、あの人に指輪を授けた時……あの人にキスをした時……俺はこの手をポケットに突っ込んで……自分の爪が血が出るまで掌に食い込むのを、我慢してた」

「……」

「それでも、笑って見てた。笑って、見送った。……その罰が今なんだろうな」

「……」

「俺が卑怯で、弱虫で、嘘つきだったから……」

「……」

「罰が当たったんだ」

「……」

「お前が生まれて、あの人が死んで……俺だけが生き残った」

「……」

「なのにお前は、俺の子じゃない」

「……」

「お前の顔は俺に似ない……」

「……」

「どうしてあの人に似なかったんだ」

「……」

「……お前に“ルミエル”って名を、つけようと思ったことがある……」

「……」

「でも、つけられなかった」

「……」

「俺にとって光は罪の名前だからだ」

「……」

「俺が、あの人を焼き殺したあの光の中で──生き残ったお前に、“光”の名なんて、つけられるはずがなかった」

「……」

「呼ぶたびに、思い出すだろう。……あの眩しさを。……あの人の肌が、光に溶けた瞬間を」

「……」

「……名前と顔ってのはな」

「……」

「どちらも、“親からもらうもの”なんだ」

「……」

「人間として生まれて、最初に授かる“愛の形”だ」

「……」

「この世に出てすぐ、最初に与えられる“証明”だ。……お前は、誰かに“名を呼ばれ”、誰かに“顔を見つめられて”初めて、人間になる」

「……」

「でも──お前には、どちらも存在しない」

「……」

「母は名を呼ぶ前に死んだ。……父は顔を見る前に焼けた」

「……」

「だからお前には、“始まり”がない。……名前を呼ぶ声も、顔を撫でる手も、どこにも存在しない」

「……」

「生まれた瞬間から、愛の形を奪われた子供だ」

「……」

「愛されるために生まれたのに、誰もお前を抱かなかった。……誰も“おめでとう”って言わなかった」

「……」

「それがどれほど残酷なことか……お前はまだ知らない」

「……」

「愛を知らずに生きるというのはな……死なないことより、ずっと重い罰なんだよ」

「……」

「お前は、生きながら光に焦がれる……」

「……」

「“光”って名を与えられなかった俺の罪のかたちだ」

「……」

「もし俺が、あの人と結婚していて……俺の子だったら、どれほど、可愛かっただろう」

「……」

「……どれほど、愛してやれただろう」

「……」

「だけどそれは全部、“もしも”だ。……現実には、愛も、名も、顔も、もう存在しない」

「……」

「お前は、愛を貰えなかったまま、生き残った」

「……」

「──“罪な存在”なんだよ」

「……」

「……」

「……キリスさん」

「……なん、だ」

「わたしは、うまれてきてよかったとおもいます」

「……」

「おかあさんが、しんだひかりのなかに、わたしがいたなら──」

「……」

「そのひかりのつづきに、いまもあなたがいるからです」

「……」

「だから、わたしは“罪”じゃない」

「……」

「あなたがまだ、生きている“理由”です」

「……」

「キリスさん──」

「……」

「ひかりは、こわくありません」

「……」

「だって、わたしが、あなたを照らせるから」

「……」

「──それだけで、うまれてきた意味があると思うんです」

「……ローライト……」

「はい」

「……お前は……ほんとうに……」

「……」

「……まぶしい……」


❅❅❅


それから、ローライトが8歳の時──

──いつもの朝のはずだった。

目が覚めると、部屋の空気はいつもより澄んでいた。

カーテンは閉じたまま。

廊下に誰の足音もなかった。

「……キリスさん?」

呼んでも返事はなかった。

少年は毛布を跳ねのけて、家中を走った。

書斎。

キッチン。

温室。

ガレージ。

「キリス……さん?」

どこにもいなかった。

誰もいなかった。

リビングの机の上。

置かれていたのは、大量の分厚い封筒。

一つ開けてみる。

札束。

次のも、札束。

その次も、札束。

札束、札束、札束。

──そして、中央に一枚だけ紙切れが置かれていた。

たった一行。



──ローライトへ。



部屋中に散らばった紙の山の中で、息を荒げながら、ローライトは膝を抱えた。

震える手が、自分の喉を掴んでいる。

爪が皮膚を裂くほど、必死に押さえつけた。

──どうして、これしか残さなかったんだ。

──どうして、名前じゃなく金を残した。

──どうして連れてってくれなかった。

──どうして顔を見てくれなかった。

──どうして、最後まで“赤の他人”のままだった。

白い光が、カーテンの隙間から差し込む。

その光の中で、浮かぶ紙切れ。


──ローライトへ。


その一行が、最後まで脳を焼いた。


❅❅❅


◤ヴォクスホロウ研究所・地下第七分析室◢

爆弾の構造データを、ワイミー博士がホロモニターに映し出す。

その横で、ひとりの少年がじっと画面を見つめていた。

ワイミーは、その横顔を見ていた。

歳は、まだ8つ頃か?

だが、その瞳の奥には──何かが燃えていた。

自分が信じたものの代わりに戦う者だけが持つ、“光”を。

「臨界温度は28.7度以上。外気温では超えないが……“爆弾の内部で電気が発生”している以上、いつ臨界に達するかわからない」

ワイミーの言葉に、少年はうなずいた。

「つまり──温度の問題ではなく、“中の電気”が問題ってことですね?」

「……あ、ああ」

理解の速さは、8歳のそれとは思えなかった。

「中に蓄積された電気が、“光”となって放出される。過去の臨界事故と同じだ」

少年は椅子の上で膝を抱えるように座ると、まるで報告書でも読むように口を開いた。

「Q(犯人)は、どうやって爆発させるつもりでしょうか?」

「……恐らくは、爆弾自体の温度を28.7度以上に上昇させ、ルミライトを臨界に導くつもりなのだろう。外気温は低いが、内部に発熱素子を仕込んでいれば──」

「それじゃ、遅いです」

少年の声が、ワイミーの言葉を切った。

「……遅い?」

「28.7度に到達するまでの“時間”が、あまりに読めません。不確定要素が多すぎます。爆弾を“予告どおり”に起爆させるには、もっと確実な方法が必要です」

ワイミーは言葉を失ったまま、少年の目を見つめた。

「Qは、“近づいたら爆発させる”と言っていました。つまり、あの爆弾には“即時性のあるトリガー”が組み込まれている可能性が高いです」

「……それは、遠隔からの起爆か……?」

「はい。“28.7度”はあくまで物理限界。でも、“人の意思”で起爆するにはそれでは遅い。だから、爆弾は監視カメラなどで見張られている。リアルタイムで状況を把握し、犯人の指一本で世界を焼ける構造になってるはずです」

「……」

ワイミーは、何も言えなかった。

子どもが語っているとは思えなかった。その口調には、確信めいた冷静さがあった。

「……ならば、起爆方法はおそらく“電力の遮断”だろう」

ワイミーは、研究室に拡げられた資料の山から電線図面を拾い上げた。

「超伝導状態で電流を流し続けるループ構造なら、通電が断たれた瞬間、磁束が崩壊し、溜まったエネルギーが一気に熱へ変換される──“電気を止めたら爆発する”。それが最も単純で、確実なトリガーだ」

「……じゃあ……」

少年が口を開く。

「ただ電気を止めるだけじゃ、だめなんですね。逆に、爆弾の“中の電気”を抜き取る方法があれば──爆発は最小限で済む」

ワイミーは顔を上げた。

その時だった。


──グラリッ!


重たい、地鳴りのような揺れが床を突き上げた。

研究室の壁が軋む。

棚に置かれた資料が雪崩のように崩れ落ちる。

「地震……!? 違う……これは──!」

「ワイミーさんッ、下がってください!」

少年が、反射的にワイミーの腕を引いた。

刹那、研究棟の西側から白い閃光が走った。

目を焼くほどの光。

──次の瞬間、照明が一斉に落ちた。

ワイミーが非常灯を手探りで点ける。

空気が震えていた。

「電源が……全部、落ちた?」

「違う、EMP(電磁パルス)か?」

「恐らく。爆発によって強力な電磁波が発生して、電力系統と通信網が一斉に死んだんだろう」

ワイミーが報道用のモニターを操作する。

画面は、砂嵐。

ノイズだけが部屋に響いた。

「……映らない……!」

「情報が遮断されましたね……。でも、ひとつ確かなのは──」

少年は確かな声で言った。

「今の爆発、あれは“意図的な起爆”じゃない」

「……なに?」

「もし犯人が狙っていたなら、こんなに広範囲のEMPを出す必要はない。爆弾が“想定外の臨界”を起こした──つまり、暴走です」

ワイミーの喉が鳴った。

「……ということは、残る3基も──」

「連鎖します!」

少年が立ち上がる。

「猶予なんて、もうありません──急ぎましょう!!」

彼は立ち上がり、私をじっと見つめた。

「ワイミーさん、お願いです……! 一緒に爆弾を停めましょう。誰かが……今この瞬間にも、あそこにいるんです──」


❅❅❅


「ひいいぃっ……!!」

空が、光で割れた。

瞬間、あたりの空気が“ひゅん”と引き締まる。

続いて、凄まじい風圧と熱の波が押し寄せてきた。

Aが叫び声をあげてしゃがみこむ。

耳を押さえ、顔を伏せ、路地にうずくまる。

「怖い……怖い……っ……!」

喉の奥から、子供のような声がこぼれる。

「──こわいよぉ……! お母さん……お母さんっ……!」

その隣で、Bは──


笑っていた。


「どっかーん!どっかーん!ばびゅーーん!……わははははははは!」

跳ねるように両手を広げ、空を仰ぎ、破壊の光を“祝福”するかのように笑っていた。

いや、笑っているというよりも、“目を輝かせて”いた。まるで、遠足で初めて花火を見た子供のように。

「見た? 今の……!」

Aの肩をぐいっと抱き寄せながら、Bは興奮した声で言った。

「空が裂けた……真っ白だった……!!」

「や、やめて……B……!!」

「ねえA、あれが“世界の終わり”ってことだよ……!」

Aは、崩れ落ちるように地面に座り込む。

「やめて……やめてよ……もういやだぁ……!」

声が震え、息が詰まり、嗚咽がこぼれた。

「こわいよぉ……お母さん……お母さんっ……!」

手のひらで耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じる。

それでも、Bの笑い声だけが、止まらなかった。

「わははははっ! すごいね、A! これが“世界の寿命”だあ!」

Aの涙と、Bの笑いが、光と闇のように交錯していた。

「……最高だね、うきゃきゃ」

その瞳は、爆発の閃光を終わりのものとして映していた。

「なんで……笑ってるんだよ!!」

Aは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、Bの袖を掴んだ。

声は震え、怒りと恐怖が混じっている。

「人が、死んでるかもしれないんだぞ……!?」

Bは瞬きを一度だけして、首をかしげた。

「……だって、死なないんだよ?」

「はあ……?!」

「“Aは死なない”って、神様が言ってるんだ」

さらりと。まるで天気の話をするように。


──その無邪気さが、何よりも恐ろしかった。


Aは呆然としたあと、涙を拭い怒鳴った。

「ふざけるなよ!! 帰るぞ!! みんな避難してんだ! 勝手な行動するな!!」

「……みんな?」

Bは目をぱちぱちさせる。

「ハウスの皆がだよ! Cも、Eも、Fも、みんな……! 心配してるに決まってるだろ!!」

その言葉を受けて、Bはゆっくりと視線を下へ落とした。

誰かの家の玄関の横──何かが、鈍く光っていた。

「……あ」

Bは小さく息を吸うと、笑顔になった。

「ねえ、A。見つけたよ」

「なにを──」

Bは両手で丸い金属の球体を持ち上げた。

銀色で冷たい、無数の電線が繋がった球。


「わあい! 爆弾だあ!」


Aの顔から一気に血の気が引いた。

「ああああああああぁぁぁああああああああぁぁぁああああああああぁぁぁ!! B──ッ!! それ置け!!! いますぐ!!」

「どうして?」

Bは首を傾げたまま、球を胸に抱え込む。

「これ持って帰るんだあ。中、見たい? あけてみよ──」

「やめろやめろやめろ!!!」

掴みかかるA。

Bはするりと避けると、

「逃げろー! うきゃきゃきゃ!!」

爆弾を頭上に掲げて、住宅地を駆け回る。

「バカ!バカバカ!!何やってんだよ!!」

Aが後ろから必死に追いかける。

「爆弾だぞ!? 本物だぞそれッ!!」

「うっきゃー! ピッピッピッ……ボンッ! ドッカーン!」

Bは自分で効果音をつけながら、にこにこと跳ね回る。

「置けッ!! 今すぐ置けェッ!!!」

Aは喉が枯れるほど叫んだ。

「中でなんかピカピカしてる!」

「見んな!! 見るな!! それ“爆発”するから!!」

Bはまったく悪びれる様子もなく、にこにこ。

「ねえA、これハウスに持って帰ったらどうなるかな?」

「ッ──ッ! ふざけんなあああああッ!!」

Aの叫びが、灰色の空に消えていった。


❅❅❅


爆弾を抱えたまま、Bはその場にしゃがみ込んだ。

Aは肩で息をしながら、数歩離れたところで魂が抜けたように腰を抜かしている。

「……あつ……」

ふいに、Bが小さく呟いた。

爆弾の表面を撫でるように触れ、手を引っ込める。

「ねえ、A。これさ……段々、熱くなってる」

「え、ええっ……?」

「ほんとうだよ。さっきより、あったかい。手、赤くなってるでしょ?」

「……ッ、も、もう、触るな!それもう!」

そんなやり取りをしていると、後ろから冷たい声が降ってきた。

「──何してるの?」

振り向くと、Kが立っていた。

腕を組み、呆れたように眉をひそめている。

「K、おかえり。出戻りか?」

「違うよ。AとBの声が聞こえたから来ただけ。──それより……」

じっとKは爆弾を見下ろした。

「ああ。爆弾だ!」

Bが子犬のように爆弾を持ち上げて見せる。

「拾ったんだ!」

「それ、爆弾よ?」

「うん」

「放せ」

「やだ」

Kは深く息を吐いた。

「……とにかく、今は下に置いて。ほんの少しの振動で、爆発する可能性もある」

「揺すったけど」

そう言ってBはゆさゆさ振って見せた。

「バカ!もう……ッ!!」

Aが悲鳴混じりに怒鳴ると、Bは文字通りケタケタと笑って爆弾をそっと地面に置いた。

「……ほんと、見てられない」

Kはしゃがみ、爆弾を囲むケーブルを慎重に観察し始めた。

「……中に電気が溜まってる……これが起爆源ね」

「えっ、じゃあ電線を抜けば──」

「それはダメ。抜いたら爆発する可能性がある。絶対触らないで」

「は、はい」

Kの圧にAは息をのむ。

「──この家、見て」

Kが指差した。すぐ横の住宅の屋根。そこの電線から爆弾に繋がっている。

「ソーラーパネルがある。しかも──あの壁面、逆潮流対応型の分電盤」

「ぎゃく、ちょーりゅう?」

Aが眉をひそめた。

「簡単に言うと、家で余った電気を“外”に流せる仕組み。普通は電力会社から電気をもらって家の中に流すけど、逆に“家から外”に電気を流す。これが“逆流”」

「それが何さ」

「つまり──そっちの方向に電気を流して……爆弾の中の電気を抜くの!」

「そういうこと」

「……おもしろい……」

Bが爆弾をじっと見つめる。

「中の電気さえ抜けば、温度は自然と下がるはず。──外はこんなにも寒いしね」

「なるほど」

「このケーブル、壁の中に入ってる……たぶん、あのブレーカーから来てるね」

Kは爆弾のケーブルのルートを目で追った。

「この家のブレーカー、外にあるわね。電気工事用に出しっぱなしにされてる。今なら私でも開けられるかも」

「でも、勝手に触って大丈夫なの?」

「誰もいないし、非常事態。しかも、今触らないと……」

Kは爆弾を見た。

「この熱……28度は超えてる。ワイミーさんが作った金属で出来てるなら、28.7度に到達したらまずい──」

Aが唇を噛んだ。

「……やるしか、ないの?」

「うん」

「……こ、怖いよ……!」

「大丈夫だよ、A」

「……?」

Bが唐突に立ち上がると、Aの右手を引っ張った。

「“死なないさ”」

「…………ほんと?」

「ああ」

Aは震える手で拳を握った。

「あっ、でも怪我はするかもしれない」

「っ!?もうやだあああぁぁぁ!」

Kは無言ですでに家のブレーカーに向かって歩き出していた。

抵抗するAを引きづりながら、Kの背中だけが頼もしく見えた。

まるで、誰かの“意思”を背負っているかのように──


❅❅❅


風が刺すように吹きつける。

気温は-2度。

雪は降っていないが、路面は白く凍り、街には人気がない。

ローライトは、“袋を片手で摘み”息を切らしながら走っていた。

「……間に合え……」

手にした小さな袋の中には、──“もしも”の時のために、ワイミーさんが託したものが入っていた。

最悪これで何とかなるかもしれない。その希望を胸にローライトは走る。

「はっ、はっ……はっ」

凍りついた肺が、吸い込んだ空気に悲鳴をあげた。

胸の奥が焼けるように痛い。

──早産の後遺症で、肺がまだ脆いのだ。

寒さは毒だ。走ることは、なおさら。

それでも彼は止まらない。

目指すは、ウィンチェスター大聖堂──

あの爆弾は間に合わないかもしれないという予感が、頭を焼くように疼いていた。

どう考えてもあれが大物の爆弾だから。

簡単に解除できるはずがない──そう思った、その瞬間だった。

「──見つけたッ!!!」

声が、風を切った。

振り向くより早く、全身がぶつかるような衝撃。

「ッ──!」

ローライトは、勢いよく抱きしめられ、肩がキュッと縮まる。

腕が背中を締めつけ、息が詰まった。

「ダメだろ……勝手にいなくなっちゃ!!どれだけ心配したと思ってる……!」

震える声。

頬を伝う涙が、肩に落ちた。

「AもBも、Kも……ッ、みんな、俺のせいで……俺がちゃんと見てなかったからっ、俺が、しっかりしてなかったから……!」

少年はその腕の中で、完全に硬直していた。


──誰だ、この人。


「さ、帰ろう、B──って、違う……!?」

顔を覗き込んだ男が、目を見開く。

「……ご、ごめん……キミじゃなかった、キミじゃ……」

彼はワイミーズハウスの職員──ロロだった。

AとBを探して街中を走り回っていた途中、よく似た背格好のローライトを見かけて、思わず取り乱したようだ。

「……A……B……K……どこに行ったんだ……」

「あの……」

「君くらいの子たちなんだよ……俺の、大事な……子どもたち……!」

目の前で、涙ぐみながらしゃがみ込むロロ。

しかし、ローライトは彼にかまっている暇などなかった。

この人は無害だ。けれど──今は、止まっている時間がない。

「……あの……すみません、どいてください」

小さな声で、しかしはっきりとそう言うと、ローライトはロロの横をすり抜けて、また走り出した。

「……え、あっ……待って……君、どこへ……!」

「ウィンチェスター大聖堂に、行かなきゃいけないんです」

「ウィンチェスター大聖堂!? 何しに!?」

問いかけたロロの声には、疲労と困惑が滲んでいた。

ローライトは短く答えた。

「爆弾を止めます」

「な……」

ロロの表情が凍った。

「あそこは、近づくだけで爆発するって──」

「だから行くんです! 何もしないより、マシですから」

ただ、迷いのない──“覚悟”。

8歳前後とは思えない勇敢な姿にロロは言葉を失う。

「……止められる方法があるんです。たぶん……でも、もう時間がない」

ローライトは再び前を向いて走り出そうとした。

そのとき──ロロが立ち上がる。

「──待って」

その声に、ローライトの足が止まる。

ロロはすぐさまポケットから車の鍵を取り出した。

「車出してやる、乗れ」

「……え?」

「大聖堂まで送る。走るより早い。君一人で行かせられるか」

「でも──」

「いいから乗れッ!」

ロロの目には、かすかに涙が残っていた。

「……君の目を見たら止められないよ。俺にはそれしかしてあげられないし。君には君のやるべきことがあるんだろう?だったらせめて、俺が送ってやる。行けるとこまで、全力でな」

ローライトは小さく頷いた。

「……ありがとうございます」

ロロは無言で頷き返すと、すぐさま車に向かって走った。

冷たい空気を割って、教会の鐘が今日も響いた。


❅❅❅


Kが分電盤の前に立ち、操作を始めた。

Aは膝を震わせながらも、Bの隣にしゃがみ込み、爆弾を押さえる。

Bはもう笑っていなかった。

ただ、何かを見届けるように──その金属の球を見つめていた。

「いい? 流すよ」

Kの声は震えていた。

「ま、まって。なにがどうなるの……?」

Aが喉を詰まらせる。

「電線の“向き”を変えるの。今は街→家→爆弾に電気が来てるけど、逆に、爆弾→家→街へ流す。──“逆流”させるの」

「……爆弾の電気を、外に逃がすってことか」

「そう。ルミライトは温度と電荷が揃って暴走する。温度は自然に下がる。だから、抜くのは──“中の電気”。」

Bがぽつりと呟いた。

「賢いね、K。……さすがそっちの専門だ」

Kは答えず、ブレーカーのロックを外した。


カチッ。


切り替えスイッチが入る。

その瞬間、空気が変わった。

電流が流れる音が、かすかに“ひゅう”と唸る。

爆弾の表面に、淡い光の糸が走った。


Aが息を呑む。

Bが手を添える。

Kが見つめる


ひゅう……。


「……!」

Aは思わず目をこすった。

「光、消えた……?」

Bが淡々と指を離し、爆弾を押し出すようにそっと置いた。

「──止まった、ね」

Kは手の甲で額を拭った。

呼吸が荒くなり、足から力が抜けたように座り込む。

「……はぁ……っ、止まった……止まった……!ソーラーパネル付いてて良かったね……不幸中の幸いよ」

Aは泣き笑いのような顔で、地面に座り込んだ。

「……や、やったぁ……! 生きてる……」

「“死なない”って言ったじゃないか」

Aはハッとして顔を上げる。

「お前……まじで、心臓止まるかと思ったんだぞ!」

「止まらなかったでしょ」

「いや、そうだけど……!」

「Aの顔、すごく面白かった」

「笑いごとじゃないっ!!」

Aは涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら怒鳴った。

「こっちは死ぬかと思ったんだぞ! ほんとに爆発したら──」

Bは肩をすくめて笑った。

「うん、まぁ……寿命は3年くらい縮んだかもね」

「……は、はあ?」

「さっき、ちょっと短くなった」

にやり、と笑う。

「でも安心して。死にはしないよ。まだ、ね」

Aは一瞬、言葉を失い、声が詰まった。

「……お前、そういう冗談やめろよ」

「冗談だよ?」

「……ほんとに?」

「……さぁ? どうだろうね」

ふざけてるのか、そうでないのか。

Aには分かってない。

手のひらには冷たい金属の感触が残っていた。


❅❅❅


ワタリは車のブレーキをかけた。

ウィンチェスター大学の構内──誰もいない。

避難命令はすでに行き渡っていたのだろう。

彼はすぐさま後部座席から袋を掴み、構内へ走った。

構内は不気味なほど静かで、掲示板の紙が風でめくれる音だけが聞こえる。

目指すのは──爆弾が設置されている3階の物理実験室。

大学の“ヒーター”が爆弾処理の鍵になるだろう。

ローライトが示した通り、ルミライト爆弾は“中に電気が蓄えられている”。

その電気が熱と光になれば暴走が起きる。

ならば、その電気を抜く──“電位差”を作ることが唯一の道だ。


❅❅❅


ウィンチェスター大学・理工学部棟──3階、物理実験室。

普段なら、学生たちが電気抵抗や回路演算を学ぶ部屋だ。

しかし今、その部屋の中央に置かれていたのは、人類を焼き尽くす可能性を持つ金属──ルミライトの光爆弾だった。

ワイミーは慎重に教室へ入り、用意した工具と回路素子の入ったケースを広げる。

爆弾にはコードが繋がれており、外部の主幹線と連結されていた。

彼は爆弾の下部を覗き込み、電圧モニターを確認する。

内部電圧:302V

温度は26.5℃──間もなく臨界温度だ。

(今、止めなければ──)

ワイミーは床下にある非常電源切替盤を開く。

この建物には、ディーゼル発電機が非常用バックアップとして設置されている。(商用電力──国の電力会社から電気を受けているため、逆流して電気を返すことができる)

それは停電時、自動で切り替わるが──今は“逆流モード”に切り替えられるよう細工した。

さらに、屋上の避雷針ルートを通じて、電気を“地面に流す”接地極(アース)に直結できる回路を作っておいた。

「……問題は、流量だ」

蓄積された電気が一気に流れれば、配線が焼け、電気が途絶える。

電気が途絶えたら、爆発──

しかし、避雷針ルートは雷と同等の放電を想定して設計されている。

十分に持つだろう。

ワイミーは深呼吸し、切替レバーに手をかけた。

「──行くぞ」

ガチン。

レバーを倒すと同時に、機械が唸った。

金属の奥から、「ビィィィ……ィ……ィ……ッ」という、沈むような共鳴音。

ルミライトが、微かに発光し、そして──徐々に徐々に光を失っていく。

モニターの数字がみるみる下がる。


302V → 190V → 60V → ……0V。


ワイミーは、固唾を呑んで見守った。

そして──数分で放電完了。

ルミライトの発光は止まり、表面の温度は25.8℃へと下がっていった。

臨界点に届くことなく、内部の電気はすべて大地に還元されたのだ。

「……止まった……」

ワイミーは力なく、胸を撫で下ろすと、最後の爆弾へ目を向けた。

ウィンチェスター大聖堂。

少年が今向かっているところだ。

後に向かうとは言っていたが、あんな子供一人を爆弾の近くに行かせるなんて無茶だった。

早く迎えに行かなくては──


❅❅❅


さて──ひとつ、不可解なことがあった。

それが何か、分かるか?

AとB──そして、少年ローライトが真っ先に気づいたことだ。

ヒントは新聞とニュース。

“爆弾に近づけば爆発する”という、あの脅し文句だ。

思い出してほしい。

犯人は、誰かが爆弾に近づいた瞬間に起爆すると言っていた。

ならば、本来あの時──“B”が両手で爆弾を抱えて振り回した瞬間、街ひとつ吹き飛んでいてもおかしくなかったはずだ。

少なくとも、ワイミーさんの顔は真っ青になり、Aは泡を吹いて倒れていたに違いない。

だが、実際は何も起こらなかった。

なぜか?

その答えは──少年が研究所を飛び出す、ほんの少し前にあった。



──遡ること、約2時間前。

廃ビルの一室。

机の上には、複数の映像モニターと操作パネルが並んでいた。

だが今、そのほとんどは──砂嵐。

「……やっぱり、壊れたか」

男は窓の外を見もせず、手元の紅茶を口に運ぶ。ぬるい液体が喉を通り、わずかな鉄の味が残った。

「EMPの範囲、予想以上だな……ワイミーさんの金属、優秀すぎるよ」

モニターのノイズが、かすかに空気を震わせる。

彼は爆弾の“操作系統”を遠隔で握っていた。

とはいえ、起爆は自動ではない。

爆弾は監視カメラと連動し、映像を確認したうえで、手動で指一本──それが彼の設計思想だった。

自動化すれば、誤作動のリスクがある。

だからこそ、「見たものだけを爆破する」。

“見えない相手”を殺すつもりは、最初からなかったからだ。

──だが今、その「目」が失われた。

原因は、2時間前の連続爆発。

湾岸地下施設で起きた第一の爆発は、ルミライトの内部温度が臨界を超えて暴走した結果だった。

そして、その爆風と熱波が近くの送電線を焼き切り、第二の爆弾を巻き添えで爆破させた。

その瞬間、周囲の電磁環境が死んだ。

EMP──電磁パルス。

ルミライトの光爆発に伴う衝撃波が、電子機器のすべてを焼いた。

監視カメラも、通信ラインも、制御端末も。

結果、モニターは一斉に沈黙した。

「……まあ、いい」

男はカップを机に置き、笑う。

「二基で充分だ。世界はもう気づくだろう。“夢の金属”がどれほど危険かを……」

彼はスイッチに触れない。

押す必要などないのだ。

Qの目的──“知らせること”は、もう果たされたのだから。

「……さて」

冷めきった紅茶を飲み干し、立ち上がる。

「見えないなら、見に行こうか」

窓の外には、まだ白い煙が立ちのぼっていた。

男は一度だけ、それを確かめるように見上げ、呟いた。

「……もうすぐ会えるな、ローライト」

──そして、いよいよ動き出す。

後に“ウィンチェスター爆弾魔”と呼ばれることになる、その男が。

ウィンチェスター爆弾魔事件

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