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第5章 贅沢な悩み
side 藤井香澄
夕方はオフィスは少しだけ静かになる。
喧騒が引いて、椅子の軋む音や、ペン先の走る音がくっきり浮いてくる。
パソコンを立ち上げ、メールを整理していると、机の端に置いたスマートフォンが震えた。
──【かすみー!今夜、飲まない?色々話したい】
LINEの送り主は、大学時代からの友達、小松まどかだった。
まどかの名前を見て、少し口角が緩んでいた。
こちらも今日は誰かと話をしたい気分だった。
彼女はいつだって、タイミングを外さない。
大きな会社の事務職に就いていて、職場の人間関係にもまれながらも、どこか抜けてるというか、風通しのいい人で。人の秘密をそっと預かるような静けさと、根っこからの陽気さがうまく共存している。
「話を聞いてくれる」というより、「話してるうちに、まあいいかと思えてくる」タイプ。
真顔で変なこと言うし、くだらないことで笑う。そこがずっと、好きだった。
【いいね。行こ。まだ会社だけど、たぶん七時には出られる】
送信すると、即座にスタンプが返ってくる。
ビールジョッキをふたつ持って踊るネコ。かわいくもないけど、まどかが好きなスタンプ。
そういえば、今日は時間の都合で早めに食べたお昼も軽くしか食べていない。
さっきの会議のあと岡崎も「腹減って死にそう」と言っていたけど、自分も同じくらい空腹だった。
このあとまどかと何を食べようか考える。
彼女のことだからもうお店も適当に決めているのかもしれない。
あれこれ浮かぶ食べ物たちによって一気に空腹で支配されてしまった頭のなかを仕事モードに切り替える。
さっさと残りの仕事を終わらせてしまおう。
そして美味しいものを食べて、飲んで、まどかとたくさん話そう。
資料をまとめて、チーム宛に報告のメールを流し、滞っていた稟議に目を通す。
会議中に確認できなかったチャットも
未読がずらりと並んでいて、
どうでもいい雑談にまぎれて、
返すべき確認事項がぽつぽつと混ざっている。
──「そういうの、ちゃんと伝わってると思う。俺も見てて思ったもん」
思いがけず、ふと岡崎のその言葉を思い出す。
ディスプレイに映る長文のExcelを眺めながら、
眉間に皺を寄せたまま、
わたしの思考はそこだけ
宙に浮いたように止まっていた。
褒められたからって浮かれるほど単純ではないし、
真に受けるほど青くもない。
──でも。
(ちゃんと伝わってると思う。見てて思う )
少し前、同じような場面で他部署の誰かに
「頑張ってますね」と言われたときは、 あまりに形式的で、
ただの当たり障りない“労い”だったことを覚えている。
今日の岡崎の言い方は、それとはどこか違った。
真剣にそう言ってきたからこちらも照れてしまい返事に困ってたら、
今度はお腹の音を鳴らせて
「腹減って死にそう」
とか言って笑わせてきたけど。
──ほんと、つかめない男。
けど素直にその言葉を喜んでいる自分がいた。
誰かが近くで電話を取り、その声で我に返る。
モニターに今度は集中する。
ちょうどそのとき、社内メールの通知が一つ、
タスクバーにぬるく浮かんだ。
件名:【共有資料】本日分MTG内容まとめ
差出人:岡崎 禄(Felix Promotion)
差出人の名前を見ただけで、
鼓動が少し速くなる。
言ってたファイルもう出来たんだ。
開くと、添付されたPDFファイルとともに、メール本文が目に入った。
⸻
藤井さん
本日お疲れさまでした。
社内で共有しやすいよう、該当部分の要点だけ抜き出してPDFにまとめています。
特に社内稟議でひっかかっていた点については、以下の3行で説明できるかと思います。
・現行仕様の第2案は前回の資料(ver.03)の流用。
・一部表現が旧プロジェクトと紛らわしく、意図が伝わりづらい。
・今回のver.05ではUI変更を前提に修正済。※詳細は4ページ目に記載。
ご確認のうえ、また不明点あればお気軽にご連絡ください。
ちなみにあの後大盛りラーメン食って生き返りました。
フェリクスプロモーション
営業企画部 チームリーダー
岡崎 禄
⸻
「…ほんとに3行だ」
口では「三行で済ませます」やら「三行主義なんで」なんて冗談めかしてたくせに、
ほんとうにぴたりと、そこだけを切り取って簡潔に仕上げてくる。
さらっとこういうことをやってのけるのは、正直、ズルイと思った。
でもそのあとの
(ちなみにあの後大盛りラーメン食って生き返りました。)
がやっぱり岡崎らしくて笑ってしまう。
真面目なのかふざけてるのか、
なんなんだろうほんとにこの男は。
返事をどうしようかと少しだけ迷った。
別に返さなくても支障はない。
でも、そうしないでいると、なにかこちらの中途半端な温度だけが、宙に残ってしまう気がした。
件名はそのままに、短く本文を打つ。
岡崎さん
PDF、すごく助かりました。
内容も分かりやすくて、さすが“3行主義”。
あと、大盛り食べて正解ですね。生き返って何よりです。
藤井 香澄(ふじい かすみ)
株式会社LIVEL(リベル)
営業企画部/進行管理担当
送信ボタンを押す瞬間、
少しだけ手が震えてしまっていた。
緊張していたのだ。
ヒュッと送信完了の音。
なんだか少しだけ肩の力が抜けた。
そっと一息ついて パソコンをシャットダウンし、
デスクの引き出しに資料を戻していると、
スマホがもう一度震えた。
画面には、まどかからのLINEが表示されている。
──【お店、決めた!トリバルってとこ。あの前に一緒に入ったビストロ。席とっといたから、7時ぴったりでいける?】
文章のあとに、ウインクするニワトリのスタンプ。
そんなのあったっけ、と思いながら、なぜかちょっと笑ってしまう。
──【了解。そっち向かうね】
そう打って、スマホをバッグにしまう。
髪をざっと束ね直し、リップだけ塗り足して、鏡を確認する。
いつもより少しだけ顔色がよく見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
会社を出て、ビルのエントランスをくぐると、外はすっかり夕方の色になっていた。
アスファルトはまだじっとりと湿っていて、ほんの少しだけ、雨のにおいが残っている。
東口までの坂道をくだりながら、ふと思う。
今日は、ほんの少しだけ、いい日だった気がする。
そんなふうに思える余裕があること自体、きっと、ちょっとだけ満たされていた証拠なんだろう。
交差点の信号が青に変わる。
イヤフォンから流れてくるギターの音が、ちょうどサビにさしかかる。
バッグのストラップを肩に掛け直すと、ふっと息を吐いて、まどかの待つ店へ向かった。