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ビストロ「トリバル」は、駅からすぐ近くのこぢんまりした店だった。名前を聞いた時はピンとこなかったが着いてみて思い出した。いつかまどかと来たことがたしかにあった。
中に入ると、すでにまどかが奥のテーブル席でメニューを開いていた。
こちらに気付き手を振る。
「あーきたきた!香澄ぃーおつかれー」
「おつかれ。ごめんちょっと遅くなったかも」
丸太のようなデザインの椅子に座って、鞄も隣の席におく。それでやっと落ち着いた。
エアコンが効いていてさっきまでまとわりついていた生暖かい空気のことなんてすぐ忘れてしまう。
店は満席だった。店内からは有線が流れているが周りの話し声や笑い声でほとんどかき消されてしまっている。
「今日はね、肉食べようって決めてたんだぁ。香澄付き合ってよ」
「もちろん食べよ食べよ。あたしも会議前にちょこっと急いで軽くしか食べてないからさあ。ほんとにお腹すいてる。いっぱい食べれるよ」
「ないす。んじゃとりあえず酒頼もっ」
すいませーんと手を挙げ、まどかが店員を呼んだ。
乾杯してからは おなかすいたねーとかこれ美味しそうあとで頼んでいい?など軽い雑談を交わす。
前菜盛りがテーブルに置かれ、店員が去っていったのを見送った後、
まどかは急に真面目な顔になって言った。
「ねえ、香澄……あたしさ、結婚したほうがいいのかな?」
「え?……急に?どうした?」
「いや、ほんとに。まじめな話。なんか最近、彼氏の親と会う機会があってさ。普通に“そろそろじゃない?”みたいな話も出て」
「……彼氏とは今何年目だっけ?」
「えーっと、付き合って……4年? あ、いや、5年かも。同棲して3年かな」
「そうだね…まぁ結婚するには十分じゃん」
「でしょ。そう思うでしょ。でもね、なんか最近ふと思っちゃうんだよね。“この人と一生一緒にいて、自分は後悔しないのかな”って」
「うわ、それすごいわかる」
「ね。なんかもう、贅沢な悩みって言われそうなんだけどさ。仕事も、まあまあうまくいってるし。周りは結婚して子どももできてっていうのに……」
「でも、まだ仕事してたいって思ってるんでしょ?」
「うん。今やっと色んなこと任され始めたところだし。辞めるのもったいない」
「そっか」
まどかは目の前のグラスの水滴を親指でなぞりながら、ぽつりと言う。
「結婚したい気持ちと、したくない気持ちが半々なんだよね。ユウくんには愛情はあるんだけどね。まだ“誰かの奥さん”になる覚悟がないというか……」
「それ、全然おかしくないと思うよ。普通に、今の時代ならむしろ自然な感覚だと思う」
本心でそう言うと、まどかは少し安心したように笑った。
「……香澄はさ、もし、あの人と続いてたら、今ごろどうしてたと思う?」
その言葉に、一瞬だけビールの泡がのどを塞いだ気がした。
「……ないよ、もう。あれは」
「そうだよね。ないよね、ごめん。でも、ちょっと気になった」
「…あれはほんと、ない」
一年前の出来事。
付き合ってる男がいた。
好きだったから真剣に結婚も考えていた。
けどその関係はある日突然終わった。
あいつから別れ話を切り出されたわけでもない。
むしろ「これからも一緒にいたい」なんて言われた。
その裏で、あいつは他の女と子どもをつくっていた。
「なんで? 好きなら、関係は続けられるじゃん」と、サラッと言われた。
いつも通りタバコを吸いながら。
意味がわからなかった。
──なにが「関係」だよ。ふざけんな。
「……でも、まだ好きだったんだよね、あのとき」
「うん。馬鹿みたいに、好きだった」
一年前を思い出す。あの頃は毎日、毎日、毎日泣いていた。
食事も喉が通らずだいぶ痩せてしまい、
職場仲間や友達からも心配されてしまっていた。
精神的にだいぶこたえていたあの日々を。
「それでも別れた香澄は、やっぱすごいよ。あたしだったら……多分、引きずる」
「引きずってたよ、実際。まどかにどんだけ電話したと思ってんの」
「うん、してたねえ。あの時はほぼ毎日だったもんね。お風呂入りながら聞いたことあるもん」
まどかと目を合わせて苦く笑う。
ゆっくりグラスを傾ける。
「でもさ、正直……いまだに、たまに思うんだよね。自分がいちばん大切にしてたものが、“そうじゃなかったよ”って言われた感じがして。なんか、信じるってなんなんだろうって」
「うん……わかるよ」
「……ああいうとき、将来とか、信じるとか、いろんな言葉が急に遠くなるんだよね」
「でも、ちゃんと働いて、ちゃんと生活してて、えらいよ。香澄は」
「…そうかな、うん、そうだね」
それはきっと、わたしが“誰にも頼らずに生きてる”ふりを、いつもちゃんとしてるからだ。
このあとどうなるかなんて、誰にもわからない。
わからないけど──。
なぜかふと、さっきの岡崎のメールを思い出す。
【ちなみにあの後大盛りラーメン食って生き返りました】
あの人は、こちらのことを何も気にしてない。
真面目なのかふざけてるのか分からない調子で、何気なく言葉を投げて、こっちの気持ちを軽くしてしまう。
「じゃあさ、わたしも、ちょっと頑張ろうかな。もう少しだけ、ひとりでいたいって思ってるうちは、焦らなくていいよね?」
「うん、そう思う」
「よし!なんかすっきりした!29歳の未来に、乾杯!乾杯しましょう香澄さん!ほらグラス持って!」
2人して笑う。
「はいはい。かんぱーーい」
笑い声にまぎれて、グラスがふたつ、やわらかくぶつかる。
冷たい飲み物の向こうに、なにかあたたかいものが、ちゃんと残っていた。