テラーノベル
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数日後、榛名 槙は工具バッグを提げて、間宮 循の家を訪ねてきた。作業場からの帰りに寄ったのだと言った。父との会話を繰り返す夢の話をメッセージで聞いていた槙は、目が覚めてからも声が聞こえるのかと尋ねた。循はそうだと答えた。バッグを下ろそうとしていた槙が、顔を上げた。
丸い掛け時計の下に、黒い蝶がとまっていた。捕まえようとか、追い払おうとか、そんな気さえ起きないほど完璧な漆黒の翅だった。左の翅の先が少し傷んでいた。窓を開けておいても飛んでいかなかった、と循は言った。
人がいなくなった場所には、埃が積もるものだ。虫の死骸が見つかることも、ときにはあるだろう。生きているうちはいつか片づけようと思っていたものも、その持ち主が二度と戻らないのなら、しばらくそのまま残されるしかない。残されるのは物だけではない。胸の内に描いていた夢。将来の計画。愛する人たちとの関係、必ず責任を果たさなければならないことなども残される。ただ、それらは物のように一か所に集めて、一つずつ片づけることはできなかった。
翅につやのあるあの蝶は、どうやら生きているようだった。父が死んでから入り込んできたらしかったが、循にはそれ以上気にする暇がなかった。父の残した書類が山ほどあった。葬儀場を訪れたのは、生前の父を覚えている人たちばかりで、その後、父が新しく始めることなど何もなかった。これから何をするにしても、残された人たちの仕事だった。父が自分に残した小言への答えも、今となっては誰に聞かせればいいのかわからなかった。
子供のころ、何年生だっただろう。これから幸せに生きてね、と短い言葉を残した先生がいた。循がその声をもう一度聞くことはなかった。いつか幸せになったとして、彼女を訪ね、こんなに幸せになりましたと自慢できるだろうか。どこにいるのかさえ知らなかった。たとえ会えたとしても、彼女はそんなことを言ったかどうか覚えていないだろう。自分の中には長く残った言葉が、それを口にした人には、とうに過ぎた一日の一部でしかないのかもしれなかった。
父には何を見せておくべきだったのだろう。何でも最後までやり遂げろという言葉を守るには、どこまで行って、何を成し遂げるべきだったのだろう。循にはわからなかった。今、手に取れるのは今までやっていたくだらないことばかりで、それを終えたところで、死んだ父が戻ってくるわけでもなかった。生きているうちに、もう少しでも頼もしい姿を見せておけばよかった。そう考え始めると、父に言おうとしていたことは減り、自分ができなかったことばかりが増えた。恨みも結局、自分自身に向かった。
槙は蝶の写真を撮ってから、工具バッグを下ろした。座る椅子を探していたので、循はテーブルの向かいを指さした。槙は彼の顔が見えるほうへ椅子を引いた。
「家にいるときに聞こえるってこと?」
「うん。でも、ここから聞こえるわけじゃなくて」
循は耳を指してから、手を額に移した。こっちだと指し示せる場所がなかった。頭の中で聞こえると言えば自分の考えと区別がつかなくなりそうで、どこかで声がすると言えば、父が部屋の中にいるようだった。どちらの言い方をしても、実際に体験したこととは少し違った。
「毎日?」
「ときどき」
「何て言うの?」
循は椅子に座り、父の言っていたことを伝えようとした。テーブルの半分ほどを、書類が覆っていた。槙が場所を空けようと少し押しやると、循はまだ整理している途中だからと、その手を止めた。槙は書類から手を離し、空いているところを探した。
「ここに、ちょっと広げてもいい?」
バッグから、小さな金属の箱と取り外した蓋、紙に描いた回路図が出てきた。まだ手を入れている途中の物を持ってきたらしかった。循が書類の入った封筒を一つ自分のほうへ引き寄せると、槙は空いたところに布を敷いた。物を載せて、ねじが転がらないよう、布の縁を二度折った。
「何か、いろいろやることがありそうだけど……」
「大したことじゃないよ。思い出したついでに、ちょっと手を貸してもらおうと思って」
言い終えると、槙は循の反応をうかがった。循は苦笑した。父が何を言ったのか説明しようと座ったのに、何から話すかも決められずにいるうちに、テーブルには物ばかり増えた。それでも、槙が何もせずに答えだけを待っているよりはよかった。何を聞いたのかという問いは簡単だったが、その言葉が自分にはどう聞こえるのかまで説明するには、父が生きていたころから話さなければならない気がした。
槙も少し笑って、蓋を裏返した。それから、作業場を移ろうかと考えているのだと言った。今借りているところには、これ以上棚をつけられなかった。修理品を重ねて置くと、直った物を一つ取り出すだけでも、まだ直していない物まで下ろさなければならなかった。広いところへ行けばいいんじゃないかと循が言うと、槙は尋ねた。
「じゃあ、家賃も代わりに払ってくれるの?」
「それは難しそうだな」
「広くなったからって、仕事が増えるわけでもないんだけどね」
どこで生きていたって、誰にでも食べていく心配はあるものだった。槙は話しながら、蓋を傾けて見た。四つのねじ穴のうち、一つだけに引っかいたような傷があった。循には、ただの四角い金属だった。槙がどこを見ているのか、視線をたどりながら尋ねた。
「何か入れて、無理に閉めようとして傷がついたみたいだけど?」
「うん」
「だったら、小さいのを入れなきゃいけないんじゃないの?」
「その小さいのが壊れちゃって、そうもいかなくなったの」
槙は蓋を合わせるあいだ、箱を少し傾けて支えてほしいと言った。循が指先で支えると、思ったより重さがあった。槙はそれでいいと言って、ねじを差した。一本がかかると、残りも難なく入った。もういいと言われて手を離すと、指先に黒いものがついていた。槙がバッグからきれいな布を探して渡したので、循は手を拭きながら、蓋のついた箱を見た。何を直したのかは相変わらずよくわからなかったが、さっきより形が整っていた。
槙は、直した物を返して、預けた人が初めて電源を入れる瞬間が好きなのだと言った。もともとこんな音だったっけ、と尋ねながら、自分ももう一度聞くことができるのだという。循は、そんな話をする槙を知っていた。預かった物の電源がきちんと入るか心配しているときは口数が少なくなるが、無事に返せると、故障の原因を見つけるまでのことも長く話した。今日も部品を一つ説明しながら、それを交換したときの出来事まで付け加えた。知らない名前が出ると、循は尋ねた。槙は手にした物を指して、また説明した。
初めにするつもりだった話は、しばらく出てこなかった。循も、わざわざ話を戻さなかった。何をすればいいのかわかっている槙の話を聞いて、知らないことは知らないと言えばよかった。父の声をどう説明するか考えるときより、返事は簡単に出てきた。
「父さんは、いつも言ってたことを言うんだ」
故障の話が終わってから、循が言った。
「飯は食べたのか、とか。仕事はどうするんだ、とか」
「循も答えるの?」
「うん」
「何て?」
「そのときによる」
循は布で指をもう一度拭いた。もうきれいになっていた。槙は差し出された布を受け取り、バッグにしまった。どう答えるべきだとか、次は何を言ってみればいいとか、そんな話はしなかった。持ってきた物を片づけながら尋ねた。
「循は、少しは楽になった?」
循は、少し前まで自分が笑っていたことを思い出した。うなずいても嘘にはならない気がした。初めに槙を迎えたときより、笑いから苦みが少し消えていた。だからといって、何がよくなったのかは説明できなかった。父の声がもう聞こえないわけでも、テーブルの上の書類が減ったわけでもなかった。ただ、槙に聞かれたときに、まだ大丈夫ではないとは言いたくなかった。
槙はよかったと言った。次に父の声が聞こえたら、何と言っていたのか教えてほしいと言い、バッグを閉めた。
まったく、槙は勝手だった。自分の都合のいいときに人の家へ寄ったかと思うと、持ってきた物を直すのに少し手を貸してくれと言い出す。自分の話をひとしきりしてから、ようやく人の答えを聞こうとする。ところが、いざ答えようとすると、何から話せばいいのかわからないのは自分のほうだった。槙がずっと自分の話ばかりしていたとも言えなかった。何を聞いたのかと尋ねられたとき、循がすぐに答えていれば、ほかの話もあんなには長くならなかったはずだった。
玄関で槙はバッグを持ち直し、靴を履いた。ドアの外へ出ると、群青色のコートの裾が風をはらんで揺れた。循は階段を下りていく音を聞いてから、ドアを閉めた。部屋へ戻ると、槙の物が置かれていた場所に、書類を少しずつ広げた。さっきより整理する場所が増えたわけではなかったが、どこまで読んだのかは覚えていた。
◇
数日後、槙がまた訪ねてきた。
その日も父の声を聞いたと、循がメッセージを送り、少し来てもらえないかと頼んだからだった。槙は作業場に仕上げなければならない仕事が残っていて、長くはいられないと言った。循は少しでいいと返した。
前の職場の同僚に、こんな頼みまでしているのが気まずかった。けれど、自分のたわごとを聞いてくれるほど暇のある人は、槙のほかに思い浮かばなかった。いざ来てほしいと言ってみると、何から話せばいいのかわからなかった。父の声は、聞きたいときに聞こえるものではなかった。槙がいるあいだに何も起きなければ、自分が聞いたという話をまた説明するだけで終わるかもしれなかった。それでも、一人で聞いた後にメッセージを送るよりはいい気がした。
槙は前に座った椅子を引いてきた。工具バッグから、手を入れていた物の蓋を取り出し、テーブルの隅に置いた。今度は循も、自分から書類を少し寄せた。
「また聞こえたら、手を上げて」
「槙には聞こえないけど」
「わかってる。私が話してたら、やめるから。終わったら、何て言ってたのか教えて」
「内容は、ほとんどいつも同じなんだ。朝、そういう夢を見たり、じっとしてるときに聞こえたりするだけで」
「じゃあ、今日は何て?」
循は朝聞いた言葉を伝えた。一つのことは最後までやれ、という言葉だった。槙は、仕事を辞めたことを言っているのかと尋ねた。そうだと答えると、もう話すことがなかった。父が話しているときには、あんなに答えることがあったのに、人に伝えると、ほんの数言で終わってしまった。槙はわかったようにうなずいたが、循にはまだ説明できていないことがたくさん残っている気がした。
一つのことは最後までやれ、という言葉。循にとって、その意味は単純だった。人よりうまくできるようになるまで、やり通さなければならないということだ。その前に辞めたら、今まで注ぎ込んだ時間が、何の役にも立たずに終わってしまいそうだった。別の仕事を始めたからといって、その時間が自然とつながるわけではなかった。また初めから習わなければならず、そのあいだにも年は取った。父は最後までやれと言ったが、循はその言葉を聞くたびに、今辞めたらどれだけ失うのかを先に考えた。
槙はバッグを閉めず、足元に立てておいた。手を伸ばせばすぐ届く距離だった。蓋をいじりながら、作業場の話をした。循も知っている人が預けていった物なのだという。循はその人の様子を尋ね、槙の返事を聞いた。会話は途切れなかったが、気持ちは何度も別のところへ向かった。槙が帰る前に、もう一度だけ聞こえてほしかった。そのとき、自分がどう答えるのかそばで見てもらえば、言葉で伝えるよりは少しわかってもらえるのではないか。
今、一度だけ言ってくれればいいじゃないですか。初めて聞こえたときには、聞いてもいないのにあれだけ言っておいて。
槙が話を続けているうちに、父の咳が聞こえた。循が手を上げると、槙は話すのをやめ、蓋を置いた。父は、一つのことは最後までやれと言った。わかりましたと答えると、いつまでそんなふうに生きているつもりだ、という言葉が続いた。聞き慣れた言葉だった。循は、今度も辞めた理由から説明しようとした。
「辞めたのには理由があるんです。ただ何もしないつもりだったわけじゃなくて」
槙が自分を見ていた。彼女には、今自分が話していることだけが聞こえるはずだった。誰にも聞かれていないのに、一人で理由を説明している人のように見えるだろうか。循は槙の表情をうかがい、父の次の言葉を聞き逃した。何か続けて言ったことはわかったが、最後のところが聞き取れなかった。
「待って。もう一度」
咳も声もやんだ。循が待っていると、槙が遠慮がちに尋ねた。
「今の、私に言ったの?」
「いや。父さんに」
「音響の仕事を辞めた話をしてるの?」
「うん」
「あのとき、どうして辞めたのかは話した?」
「話したよ」
「それでも?」
「それでも、三か月しかやってないだろ」
答えてから、循は口を閉ざした。言おうとしたのはそんなことではなかった。三か月しかやっていないと言う相手に、どうして辞めたのか説明しようとしていたのだ。なのに、槙に聞かれると、説明より先にその言葉が出た。循は言い直そうとしたが、先に槙が答えた。
「三か月で辞めたのは、私も知ってる。ただ何もしないために辞めたわけじゃないんでしょ」
「そういうわけじゃなかった」
「じゃあ、どうしてそんなふうに言うの?」
循は何のことだと聞き返そうとして、やめた。少し前に自分の口で言ったことは、槙も聞いていた。父にはほかの理由があると言おうとしていたのに、槙には三か月しかやっていないと説明した。なぜ辞めたのかを話せばいいのに、今その話を始めたら、聞き逃した言葉がそのまま過ぎてしまいそうだった。父がもう一度だけ話してくれたら、先にそれを終えられるはずだった。
「ちょっと待って。さっき聞き逃したところだけ、もう一度聞けばいいと思うんだ」
槙は口を閉じた。循は父を呼んだが、声は戻らなかった。さっきと同じ咳でも聞こえないかと待った。何も聞こえなかった。槙はしばらく一緒に待ってから、テーブルに置いていた蓋を自分のほうへ引き寄せた。仕事を続けてくれていい、と循は思った。また聞こえれば、手を上げればよかった。どこまで聞いたのか、そのたびに説明しなくてもいいことが、少し楽だった。
「今は、何か探してるの?」
「何を?」
「仕事。辞めて、ほかを探すって言ってたでしょ」
探してはいた。求人を開いてみるのも、探しているうちに入るなら。応募書類を書きかけてやめたところもあったし、父の葬儀をしているあいだに締め切りが過ぎたところもあった。どこから話せばいいだろう。まだ応募していないところの名前を出せば、槙はそこでどんな仕事をするのかと尋ねるだろう。何とか説明はできるかもしれない。けれど、その次には、なぜまだ応募していないのかと聞かれそうだった。その理由まで話したら、探しているという答えから間違っていたように聞こえるかもしれなかった。
循が手を上げた。
「また聞こえる?」
少し前、咳が始まったときにも、部屋の中はこんなふうに静かだった。循は答えずに待った。まだ何も聞こえなかった。かといって、違うと答えているあいだに父が話し始めたら、また聞き逃す気がした。槙も話すのをやめたまま、彼を見ていた。
「いや。まだ」
槙はそれ以上尋ねなかった。循は、もう一度聞かれたら、さっき開いた求人のことを話すつもりだった。応募したわけではないが、探しているところはあるのだと。けれど、蓋の話に戻ると、わざわざ自分から持ち出すことはなかった。槙の説明を聞きながら水のボトルを開けると、手から抜けたキャップが床に転がり落ちた。槙が拾って手に置いてくれると、循はまずキャップを閉めた。水を飲んでいないことに気づいて、また開けた。水を飲み込んでいるあいだは、父の声が聞こえなければいいと思った。
その後、槙は持ってきた物にもう少し手を入れた。先ほど話していた人のことを、また持ち出しもした。循は遅れて答え、槙も返事をせかさなかった。小さな工具がテーブルに触れる音が、ときどきした。循はその音を聞きながら待った。もう一度聞こえたら、今度は槙の表情を見ずに、最後まで聞くつもりだった。
そうして、さらに一時間が過ぎた。
槙の携帯電話が鳴った。彼女は返事を送り、持ってきた物を片づけ始めた。今日仕上げなければならない仕事があるので、そろそろ行かないと、と言った。循はそこで初めて、こんなに時間が経ったのだとわかった。待っているあいだも何度となく時計を見たのに、槙が立ち上がろうとすると、過ぎた時間が一度に惜しくなった。もう一度だけ聞こえればよかった。まだ聞けていない言葉があり、それを聞くために来てもらったのだった。
槙は蓋と工具をバッグにしまった。循は、もう少し待ってほしいと言おうとしたが、いつまで待てばいいのかは自分にもわからなかった。部屋のどこにも、槙がもう少しいるべき理由は見当たらなかった。バッグのファスナーが閉まり始めると、言葉が出た。
「まだ話、終わってないだろ。話をするなら、最後までしないと」
槙はバッグを閉めかけて、彼を見た。循は自分の言ったことを聞いてから、ようやく口を閉ざした。もう少しだけいてほしいという意味だった。なのに、最後までしなければならないという言葉が出た。父にそう言われるときには、何をどこまですればいいのかと聞きたかったのに、今は自分にもいつ終わるかわからないことを持ち出して、槙に同じことを言っていた。
「私が聞いたことには、答えてもいないのに。長くはいられないって言ったでしょ」
そのとおりだった。少しでいいと返したのは自分だった。そのときは、槙がいるあいだに一度くらいはまた聞こえる気がしていた。実際、聞こえてもいた。ただ、自分が次の言葉を聞き逃し、それだけもう一度聞ければいい気がして待っていた。槙は来てくれただけで、もう頼みを聞いてくれたことになる。そう思いながらも、循は彼女にバッグをもう一度下ろしてほしかった。
「ごめん。もう少ししたら、聞こえる気がして」
謝っても、望んでいることは変わらなかった。槙はバッグのファスナーを最後まで閉めた。循がそれ以上話さずにいると、また聞こえたら連絡してと言った。仕事中はすぐに見られないこともある、とも付け加えた。循はうなずき、玄関までついていった。
槙が靴を履いているあいだに、さっき尋ねられた仕事の話を今からでもしようかと思った。探しているところはあるのだと。まだ応募はしていないが、ただ何もせずにいるわけではないのだと。けれど、今話せば、それまで彼女を引き止めるために持ち出したように聞こえそうだった。次はいつ来られるのかという言葉も出なかった。
「仕事、頑張って」
「うん」
循はドアを開けた。槙が階段を下りてからも、しばらく取っ手を握って立っていた。今、父が話し始めれば、まだ下の階にいる槙を呼べるかもしれなかった。けれど、彼女がまた上がってきて聞くのは、結局、自分の返事だけだろう。父の言葉が終わったら、自分が伝えなければならなかった。循は階段から足音が聞こえなくなってから、ドアを閉めた。
部屋へ戻り、テーブルについた。槙の物を置くために寄せていた書類の封筒が、自分のほうへ突き出していた。置き直せばいいのに、そのままにした。携帯電話で求人を開き、槙に聞かれたときにこれを見せればよかったのだと思った。どんな仕事をするところなのか読んでいると、応募書類に書くべき職歴に目が行った。劇場で働いた期間をどう説明すればいいのか考えながら、古いメッセージを探した。
堀口 達郎が機材をどこに置くようにと言った言葉が残っていた。あのころは、次の予定がいつなのかわかっていた。誰が何を担当し、自分がどこへ行けばいいのかも、尋ねればよかった。辞めてからは、達郎に予定を聞かなくなった。うまくやっているかと尋ねるより先に、また呼ばれたらどうすればいいのかと思った。戻るつもりもないのに、メッセージをさらにさかのぼった。少なくとも、あのときはやる仕事があった。
父の声が聞こえなくても、循はその言葉に答えていた。何を探しているのか、辞めてから何をしたのか。誰にも聞かれていないのに、見せられるものを探した。生きていたころには聞きたくなくてやり過ごした言葉が、今では求人を読み、応募書類に一行書くところまでついてきた。父が実際に話しているわけでもないのに、答える準備ができていないと、何もしていない人間のように感じられた。死んでから初めて、その言葉にこれほど動かされるのなら、生きているうちに交わした、あんなにたくさんの会話は何だったのだろう。
◇
その夜、循は脇に寄せていた封筒を一つ開け、書類を広げた。
父の残した書類を整理することと、これから自分が生きていくのにいくら必要なのかを計算することは別だった。一方を終えればもう一方も少しは片づいている気がしていたが、実際には、別々の紙に別々の数字を書かなければならなかった。もう払ったもの。まだ払っていないもの。今月はどうにか乗り切れても、来月また払わなければならないもの。循は父の名前の書かれた書類を脇へ寄せ、新しい紙に「今月の生活費」と書いた。
その下に固定費を書いた。家を維持するためのお金、通信費、毎月同じ日に引き落とされる金額。家族で使うお金は別に書こうと線を引いて、消した。どこまでが生活費で、どこからがほかの出費なのか、うまく分けられなかった。すべて、生きているあいだには必要なものだった。名前を分けて書いたからといって、合計が変わるわけでもなかった。
母が食卓に置いていったレシートも持ってきた。一行ずつ読み進め、いくつかの箇所に印をつけた。これも買ったのか。この前買ったばかりのような気がするのに。なくなればまた買わなければならないことはわかっていた。ただ、なくなったと聞くたびに、どうしてもうなくなったのかと先に思っていたのも確かだった。循はレシートの日付を見て、計算した金額に抜けがないか、もう一度足した。
翌日、母が家で使っていた物を一つ買い替えたいと言ったときにも、何が壊れたのかを聞く前に答えた。
「今、どうしても買わなきゃいけない?」
「今すぐじゃないけど、いつかは買わないと」
それなら、後で買えばいいのではないか。循はそう言いかけて、口を閉じた。後がいつなのかは、自分にもわからなかった。来月は今よりお金があるという根拠もなかった。今すぐ必要ではないということは、そのときなら買ってもいいという意味ではなかった。それでも、母がそれ以上話さないと、循はそのままにした。
母が帰ったあとになって、何を買い替えるつもりだったのか聞かなかったことを思い出した。ずっと前から不便だったのかもしれない。自分は一度も使ったことのない物かもしれなかった。循は母に聞き直そうかと思い、計算していた紙を広げた。それでも、今すぐは必要ないと言っていたのだから、今月の分からは外していいはずだった。
そう思うと、また数字を見ることができた。それが嫌だった。
◇
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うわ、めっちゃ刺さったわこれ… 循が父の幻聴に縛られて、答えの出ない問いをぐるぐる回してる感じが、読んでて息苦しいくらいリアルだった。特に「三か月しかやってないだろ」って自分で言っちゃうところ、あれ完全に父の口調が乗り移ってるよな。槙が「まだわからないんだね」って返すシーンは、優しさの中にちょっと厳しさもあって、めちゃくちゃ好きだわ。 黒い蝶が消えてたラストも不気味で、続きが気になりすぎる。SMMUさんの心理描写の解像度、やっぱズバ抜けてるわ🔥