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第1話:指先の聖域
西新宿の夜は、呼吸を忘れたような喧騒に包まれている。
大手広告代理店に勤める結衣は、建ち並ぶ高層ビルの窓明かりを見上げながら、重い足取りで歩いていた。
「……また、明日までに修正か」
バッグの中で震えるスマートフォン。見なくてもわかる、クライアントからの理不尽な要求だ。連日の深夜残業、睡眠不足、そして上司からの無神経な言葉。結衣の体は、もはや鉄板でも入っているかのように固まり、呼吸さえ浅くなっていた。
そんな時、ふと思い出したのは、職場の先輩から手渡された一枚のショップカードだった。
『Salon de Saeki(サロン・ド・サエキ)』
看板も出していない、完全紹介制の整体サロン。
「ここに行けば、魂まで洗われるわよ。……ただし、覚悟してね」
先輩の含みのある言葉が気になり、藁をも掴む思いで予約を入れたのが一週間前。
案内された住所は、新宿の喧騒から少し離れた、静寂が支配する高級マンションの一室だった。
重厚なドアの前で、結衣は一度深呼吸をする。
インターホンを押すと、ほどなくして電子音が鳴り、扉が開いた。
「……お待ちしておりました、結衣様」
低い、それでいて鼓膜を心地よく震わせるような、深みのある声。
目の前に立っていたのは、白いリネンシャツの袖を無造作に捲り上げた、長身の男だった。
整った顔立ちだが、その瞳には一切の温度がない。彼こそが、政財界やセレブの間で「神の指」と噂されるカリスマ整体師、冴木だった。
「あ……初めまして。予約していた、結衣です」
「左様でございますか。どうぞ、中へ。お待ちしておりましたよ」
一歩足を踏み入れた瞬間、都会の騒音は完全に遮断された。
室内には、微かにイランイランの甘く濃厚な香りが漂っている。間接照明が落とされたリビングは、清潔感がある一方で、どこか「逃げ場のない密室」のような圧迫感があった。
「カウンセリングを始めましょうか。そちらのソファに掛けていただけますか」
冴木が指し示したのは、革張りの重厚なソファだった。
彼自身は結衣の正面ではなく、少し斜め後ろ、逃げ道を塞ぐような位置に立った。
「今の体調を教えていただけますか。どこが、どのように『お辛い』のですか?」
「えっと、肩がすごく凝っていて……最近は頭痛もします。仕事が忙しくて、なかなか休めなくて」
結衣が途切れ途切れに話すと、冴木はふっと鼻で笑った。
「仕事、ですか。あなたは随分と、ご自分の体を安売りしていらっしゃるようですね」
「えっ……?」
予想外の言葉に、結衣は思わず振り返った。
冴木は冷ややかな瞳で、結衣の項(うなじ)から肩のラインをじっと見つめている。
「首の角度、肩の上がり方……。あなたがどれだけ無意味な責任感に縛られ、他人の顔色を窺って生きていらっしゃるか、この体がすべて語っていますよ。……非常に滑稽です」
「滑稽って……そんな言い方……っ!」
言い返そうとした結衣の言葉は、背後から伸びてきた冴木の手に遮られた。
彼の大きな掌が、結衣の右肩をグイと掴む。
「……っ! いたい……っ!」
「痛いでしょうね。筋肉が悲鳴を上げていますよ。あなたは、会社やクライアントに自分の『尊厳』を差し出して、代わりにこの醜い凝りを手に入れたわけだ。違いますか?」
冴木の指先が、首筋の最も硬い一点を容赦なく突く。丁寧な敬語が、逆に逃げ場のない刃のように結衣の心に突き刺さる。
「このサロンに来たからには、あなたの意思など無意味です。私の指示に、ただ従っていただきましょう。あなたの体を、元の『正しい形』に戻してあげますから」
冴木の声は、優しく響きながらも、有無を言わせぬ支配者の響きを持っていた。
だが、不思議なことに、その冷徹な言葉が今の結衣には救いのように感じられた。
「……はい」
「いいお返事です。では、お着替えを。……下着は、そちらに用意してある紙ショーツ一枚になっていただきます。よろしいですね?」
冴木が指差した先には、シルクのガウンが置かれていた。
「……え、あの、全部、脱ぐんですか?」
「治療に邪魔なものは、一切必要ありません。……それとも、私のやり方がお気に召さないのであれば、今すぐお帰りいただいても構いませんよ?」
冴木は挑戦的な笑みを浮かべ、ドアの方を顎でしゃくった。
結衣は、彼の圧倒的なカリスマ性と、時折見せる冷酷な眼差しに、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
「……いえ。お願いします」
結衣は、震える手でガウンを手に取った。
自分の理性が、この男の支配によって少しずつ崩されていく。
施術室へと向かう冴木の背中を見つめながら、結衣はまだ知る由もなかった。
この「治療」が、彼女のすべてを暴き出し、快楽の虜にしていく、終わりのない裏コースの入り口であることを――。