男とおばさんしかいないいつもの会社。その会社の端っこの席で、皆と同じくキーボードを打っている。なんの楽しみもなく、趣味という趣味も、恋人も、日々の中に新しい事がなかった。あの、唯一の場所に出会うまでは。あのガールズバー、「Venus・Rabbits」に週一で通うようになってからは調子がいい。人ってのは楽しみがひとつ増えるだけで、それの為に頑張れるものなのだと知った。んでもって、その唯一の場所の店員さんである水兎ちゃんこと藤咲菜晴さんがうちの会社に新入社員として入社することになった。こんな偶然があるなんて素晴らしい世界だなと思った。今まではお金を払って会ってたってのに、今はほぼ毎日会えてお金が貰える。まあバニーガール姿ではないけどね。ただスーツ姿の藤咲さんも素晴らしい程に可愛い。てか、最初に言ったようにうちの会社ってほぼ中年の男性社員で女性といえばおばさんかおばあさんくらいのベテラン社員しかいない訳で、藤咲さんの人気は常に上昇し続けている。なんか、藤咲さんからしたら俺はただの客であってなんも気なんかないって分かってるけど、藤咲さんが他の人と関係を持つって考えると…ちょっとやるせない気持ちになる。「俺だけの」なんておこがましいのは理解してるんだがな……。
「梣崎さーん、この資料なんですけど」
すると、藤咲さんが資料の質問をしてきた。
「あーそこは__」
〈8:45〉
会社を出て、1人どっかに晩飯食べて帰るかなぁと思っていると、背後から藤咲さんが肩を叩きながら呼んできた。
「梣崎さーん!お疲れ様です!」
「あぁ、藤咲さん。お疲れ」
最近はよく藤咲さんが出社後声をかけてくれるんだよな。マジでこんなことある?こんな可愛い子が俺に懐いてくれてるってことだろ?最高かよ。お陰で他の男性社員からは冷たい目で見られるけど。
「今日『Venus・Rabbits』来ません?」
これは初めてだ。藤咲さん自ら唯一の場所に誘ってくれるなんて。確かに最近行ってなかったな。久しぶり行くのも悪くない。
「珍しいね。じゃあ行こっかな」
「やったー!じゃ、行きましょー」
【Venus・Rabbits】
この店の雰囲気はやっぱり心地がいい。暗めの色の木材と、目が疲れないくらいの明るさ。そして1番は美人な店員さんだ。今日は藤咲さんに呼ばれたんだが、何の用だろう。
「あ、春恵ぇ〜!」
この声はあの子、沙奈の声だ。
「こんにちは。いつの間に呼び捨てに…」
「え?ダメだった?」
「い、いや別にそんなことはないですけど」
俺の経験上、馴れ馴れしく接してくれる女性なんて高校でも大学でも縁がなかった。呼び捨てで呼ばれる事なんて家族くらいだ。だから急に呼び捨てで馴れ馴れしく接してくれると対応に困る。
「女の子慣れしてないんですよね〜?」
そう言いながら、愛美が裏からでてきた。
「ま、まあそうっすね」
俺って意外と人の名前覚えんの得意かもな。最近会った、たった2人の女の子の名前を覚えてただけでそんなこと思ってしまうなんて、新しい出会いがないのがバレバレだな。すると愛美が沙奈にヒソヒソなにか話しているのが薄ら聞こえた。
「あ、梣崎君と話しすぎるとなの…水兎ちゃんが嫉妬しちゃうから気をつけないとね」
「あー確かに!水兎って嫉妬深いもんねぇ」
ヒソヒソ話してるように見えて沙奈の声が思いのほか大きかったので、普通に水兎ちゃんに聞こえてしまっていた。
「愛美と沙奈…なんの話ししてんのかなぁ?」
「ヒェッ…!み、水兎!」
「別に私嫉妬深くないから!」
藤咲さんは頬をぷくっと膨らませ、そういった。とても可愛い。
と、俺はなぜ藤咲さんが自ら店に来いと行ったのかが気になったので話を切り出した。
「それで、藤咲さん。なんか用があるんだっけ?」
するとニヤニヤと沙奈が
「あれぇ?水兎にはタメ口?しかも苗字呼びじゃん!…なんで?」
「あ、すみません。癖で」
「お、お店だから…水兎ちゃん…でお願い」
他の客に聞こえてしまったら本名がバレてしまうという焦りの中に、心做しか自分だけ特別な呼び方と話し方であることに多少の照れがあるような気がした。ま、他の客なんていないんだけどな。やけに騒々しい繁華街の一通りが特に少ない場所にぽつんとある店だ。繁盛するかと言われれば…まぁいい回答は出てこないだろうな。すると、愛美が話を切り出した。
「それで、水兎ちゃんは梣崎君に話があって呼んだんだよね?」
「あー、そうだったそうだった…!」
「なんです?話って」
「え、えっとね…あの、その……」
水兎ちゃんは何か言いにくそう…というよりは恥ずかしそうに焦らした。
「も、もう7月に入るじゃん?」
「はい」
「そ、それで…3人でプ、プールでも行かないかって…それで……」
…なるほど。何故水兎ちゃんがあれだけ焦らしていたのか理解した気がする。うん。プールな久しぶり行ってもいいかもしれないな…
え、3人と?やばくねそれ。普通に犯罪じゃね?だってまだ19だったよな?行きたいのは山々だが…未成年3人とプールは流石にまずい会社クビになるわ。
「えっと…プールに行かないかってこと?」
「あ、えと…うん」
「…3人とも19だし、俺捕まっちゃうから_」
「何言ってんの春恵!水兎は7月誕生日だからもう20歳になるじゃんか」
「あれ?まさか水兎ちゃん…梣崎君に誕生日教えてないの?」
おっと…?展開が変わったぞ。7月に誕生日?じゃあ大丈夫なのか?
「だ、だって誕生日なんて教える機会なかったもん!」
「ふ、2人はどうなんですか…」
「ふふん!私たちは6月にはもう誕生日だったのです!」
「……なら、まぁ捕まらずに済むね…」
「ってことは…梣崎君行けるの!?」
「いいですよ。全然」
というよりご褒美に近いよなこんな展開。今まで男臭い職場で出会いなんて諦めて働いた甲斐があったよ…マジで
「でも梣崎君。私たち以外に女の子の出会いないんでしょ?」
「はい…まぁそうですけど…」
「春恵そんなんじゃ当日キョドって楽しめないんじゃ!?」
「はっ…!」
そうだった…そうだよな…若々しい女の子3人とプールなんて高校ん時よんだ漫画くらいでしか聞いたことない話だ。その主人公が俺って…無理だ無理。キョドるどころか気絶する。
「じゃ、じゃあ梣崎君、前の友達も連れてきていいよ…!」
「友達ぃ?春恵の友達!?」
「へぇ~、梣崎君って友達いたんだ」
「いますよ!」
侵害だな…。友達いないとか思われてたのかよ
「分かりました。じゃあ旬も誘っときます」
その日はモスコミュールってカクテルを飲んで帰った。ちょっと濃度高かったが結構美味しかった。また飲んでみようかな。
夜9:46
俺は「真島の食卓」の引き戸を開けた。
「お、春恵いらっしゃい」
「おう、来てやったぞ」
「何様だこら」
「お客様だ」
そう言うと、互いに笑い合う。 俺はカウンター席に腰掛けた。高校から変わらないこういうやり取り。久しぶりなようで馴染み深いやり取りは高鳴る心拍を少し和らげる。
「注文は?」
「豚骨、柔らかめ濃いめ多め頼む」
「へいへい」
旬は仕方ねぇなと言わんばかりの返答をすると、数分のうちに注文の品が届いた。
「人、いねぇのな」
「10時閉まるからな、この時間はあんなり人はこないな」
旬は店仕舞いの片付けをしながら、話を切り出した。
「それで、今日はなんか用か?」
「お前、泳げたっけ?」
「あーまぁ泳げないことはないが…」
「プール行かね?」
「…は?」