「うぅ……」
時也の腕の中に
もたれ掛かっていた
レイチェルの意識が
ゆっくりと戻り始めた。
ぼんやりとした視界の中で
時也の体温が心地よく感じられる。
「うわぁ〜⋯。
泣いてる時也さんって
色っぽ過ぎて⋯⋯
破壊力ばつぐんの夢だわ⋯⋯」
ふわりと漏れた呟きに
思わず時也が小さく笑った。
「ふふ⋯⋯。
夢かどうか
頬っぺを抓って差し上げましょうか?」
耳に馴染んだ優しい声に
レイチェルは一気に覚醒する。
「⋯⋯へ?
本物の時也さん!?
雪音さんが言いたい事
言ってくれる夢見てて⋯⋯あれ!?」
混乱しながら
レイチェルは慌てて
身を起こそうとした。
しかし
まだ疲れが抜け切らないのか
身体は重く
シーツの中で藻掻くような
動きになった。
「無理をなさらず⋯⋯
もう少し休んでください」
そう言って
時也はレイチェルの肩を
優しく押さえた。
レイチェルが顔を上げると
其処には確かに時也がいた。
涙の痕が残る鳶色の瞳は
柔らかな光を湛え
穏やかで優しい笑みが
浮かんでいる。
その顔に
レイチェルは思わず息を飲んだ。
「⋯⋯時也さん
そんな顔するの⋯⋯反則よ⋯⋯っ」
無意識に漏れた言葉に
時也は苦笑した。
「おかげで、僕が⋯⋯
良い夢を、見させて頂きました。
⋯⋯ありがとう、レイチェルさん」
その声は、ひどく温かく
そして少しだけ震えていた。
「おい、見ろよ⋯⋯アリア。
お前の旦那の、浮気現場だぜ?」
突然の声に
時也とレイチェルは
驚いて顔を上げた。
扉の前には
ソーレンが立っていた。
その腕には
アリアが抱きかかえられている。
「⋯⋯アリアさんっ!?
いえ、これは決して浮気などでは!!」
慌てて答える時也の声は
どこか必死だった。
「いやいや。
女の部屋で、抱き合ってちゃなぁ?
言い訳は見苦しいぜ。
なぁ、アリア?」
ソーレンは口元に笑みを浮かべ
アリアの身体を揺すって
軽く持ち直した。
アリアは無言のまま
深紅の瞳で
時也をじっと見つめている。
「というか
何故アリアさんを
抱きかかえているのですか!?」
状況が飲み込めず
時也が問い詰めると
ソーレンは少し面倒くさそうに
鼻を鳴らした。
「あぁ?
お前らの事を心配して
アリアが階段下から動かねぇし
一緒に行こうかっつっても
無反応だから連れて来てやったんだよ。
有り難く思え、浮気野郎」
「 ⋯⋯そう、でしたか ⋯⋯⋯」
時也は安堵と
気恥ずかしさに
頬を指で掻く。
「それは⋯⋯
すみませんでした。
ご心配をおかけしましたね。
ですが、アリアさん!
浮気ではございませんので
どうか、ご安心を⋯⋯」
彼がそう言うと
アリアはゆっくりと腕を伸ばし
ソーレンの胸を押して自ら降りた。
床に降り立ったアリアは
静かに時也に近付く。
その深紅の瞳は
彼の目を真っ直ぐに見据えていた。
「⋯⋯⋯」
アリアは無言のまま
時也の顔をじっと見つめる。
その瞳が
彼の涙の痕をゆっくりと辿る。
「アリアさん⋯⋯」
その名を呼ぶと
彼女はそっと腕を伸ばし
時也の頬に手を添えた。
冷たい指先が
温もりを宿した時也の肌に触れる。
(⋯⋯泣いて、いたのか)
アリアは何も言わないまま
指先でそっと涙の痕を拭った。
「⋯⋯大丈夫ですよ。
ありがとうございます」
時也は、アリアの心の声に
静かに答えた。
アリアは
ただ黙って
彼の涙を拭い続ける。
その手が離れた瞬間
時也はそっと
その手を取り、甲に唇を寄せた。
「アリアさん⋯⋯大切に、します」
その言葉に
アリアは微かに目を細めた。
「はいはい
ごちそうさまってな」
空気を読まないソーレンの声が
空気を和らげた。
「おい、レイチェル。
今のお前⋯⋯
時也に抱かれた女の顔してるぞ?」
「ふぇぇぇ!?
ち、⋯⋯違っ!!
誤解を生むから、やめてっっ!?」
ベッドの上で
慌てふためくレイチェルに
ソーレンが笑いながら肩を竦める。
「ま、どっちでもいいさ。
何にせよ、無事ならそれでいい。
⋯⋯なぁ、アリア?」
彼の言葉に
アリアは時也を見つめたまま
無言で小さく頷いた。
その仕草は
彼女の気持ちを
何よりも雄弁に語っていた。
「ふふ。
では、僕は……
アリアさんの誤解を
解かなければいけないので
これで、失礼しますね?」
時也の声には
どこか意地悪さが混じっていた。
彼の視線はソーレンの方に向けられ
穏やかな微笑みの裏に
〝全部、分かっている〟という
意図が隠されていた。
ソーレンは無言のまま、目を逸らす。
「行きましょうか、アリアさん」
時也がアリアの肩に手を添えると
彼女は静かに頷き
二人はゆっくりと部屋を出ていった。
ソーレンは
その二人の背中が
廊下に消えたのを確認すると
溜息混じりに頭を掻いた。
さっきの時也の表情。
あれは、どう考えても
〝気付いてる〟顔だった。
「⋯⋯ったく」
忌々しげに呟きながら
ソーレンはベッドの隅に
ドスンと腰を下ろした。
レイチェルの横で
無骨な体がベッドを沈ませる。
「⋯⋯悪かったよ」
「⋯⋯え?」
ソーレンの突然の言葉に
レイチェルが目を瞬かせた。
戸惑いの色が濃く浮かぶ。
ソーレンは
膝に肘をつき
俯いたまま、ぼそりと続けた。
「俺が⋯⋯お前の能力を見てみてぇって
⋯⋯時也に擬態させちまったからな⋯⋯」
床に落ちる彼の視線は
どこか苦々しさを滲ませていた。
「アイツの目を見てりゃ
過去は重いって分かんだよ。
⋯⋯しんどかったよな⋯⋯すまん」
その声は
普段の粗雑なものとは違い
不器用ながらも
真剣な響きを持っていた。
「⋯⋯ソーレンって、謝れるんだ?」
ぽつりと漏れたレイチェルの言葉は
明確な驚きが混じっていた。
「⋯⋯は?」
顔を上げたソーレンが
僅かに眉を顰める。
「だって、あなたが謝るのなんて
多分、珍しい事でしょ?」
「⋯⋯お前
俺の事なんだと思ってんだよ?」
レイチェルは
クスクスと笑いながら
シーツを引き寄せ
体を起こした。
「でも⋯⋯ありがとう。ソーレン」
その笑顔は
無理に作ったものではなく
心からのものだった。
頬はまだ涙の痕が残り
目は腫れている。
それでも
彼女の顔は
どこか安心したように見えた。
「⋯⋯泣いてたくせに
元気じゃねぇか」
ソーレンは口元を緩め
レイチェルの頭を乱暴に撫でた。
「ちょっ、何すんの!?
もう、乱暴にしないでってば!」
レイチェルは
慌ててソーレンの手を払いのけるが
彼は意に介さず
笑みを深める。
「⋯⋯お前が泣いてんの
見てらんねぇんだよ 」
不意に漏れたその言葉に
レイチェルは一瞬
瞳を揺らした。
「ソーレン⋯⋯」
今度はレイチェルの方が
気恥しさを感じてしまい
ソーレンの隣で
視線を床に落とした。
「⋯⋯私、時也さんの記憶を感じた時
⋯⋯本当に、苦しくて⋯⋯」
レイチェルは
声を震わせながら言葉を紡ぐ。
「妹さんの死が
あんなにも痛くて⋯⋯
それでも⋯⋯時也さんはずっと
⋯⋯ずっと、耐えてきたのね」
彼女の指先が
シーツを握る手に
ぎゅっと力を込める。
「私⋯⋯あんな苦しみ
もう二度と感じたくないって
思ったけれど⋯⋯
時也さんは、それを背負って
ずっと生きてきたんだね⋯⋯」
「⋯⋯ああ。
だからこそ、アイツは強ぇんだよ」
ソーレンの声には
どこか尊敬の色が滲んでいた。
「でも、だからって⋯⋯」
彼は視線を下ろし
溜め息混じりに、言葉を続ける。
「泣いてんの、俺は見たくねぇんだよ。
言ったろ?
俺は泣いてる女の扱い方は
知らねぇんだ。
⋯⋯だから、無理に頼んで悪かったな」
「⋯⋯ありがとう、ソーレン」
微笑みながらそう言うと
ソーレンはバツが悪そうに
頬を掻いた。
「⋯⋯ま、もう二度と
時也の真似はさせねぇよ」
「うん、絶対にお断りだから」
二人は互いに苦笑し、静かに息を吐いた。
「でも、ハンターに遭遇して
身に危険が迫ったら⋯⋯
覚悟きめろよ?」
「あー⋯ 忘れてたわ。
うん、でも⋯⋯
これで耐性ちょっと付いたかもね?
ソーレンの話も
聞いてて良かったわ⋯⋯」
ソーレンはレイチェルの背を
軽く叩いた。
「ま、そんな状況にさせねぇように
俺と時也が踏ん張るさ!」
部屋の隅
窓から差し込む月明かりが
穏やかに二人を照らしていた。
それは、彼らの心に残る影を
ほんの少しだけ和らげるように
優しく揺れていた。
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