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眠狂四郎
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上野文
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こはる
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第275話 身体のない意識
【異世界・王都イルダ/王国医療棟・地下保管区画・午後】
王国医療棟の地下には、通常の患者が入ることのない区画がある。
治療を終えた魔術器具。
持ち主の分からない意識片。
事故や戦闘のあと、身体へ戻せなかった微弱な反応。
それらを一時的に保存するための場所だった。
イデールが先頭を歩く。
「こっちだよ~」
その後ろにはハレル、サキ、リオ、アデル。
そして結界の確認役としてダミエも同行していた。
午前中に保護された三浦啓介は、すでに帰還保護区画へ移されている。
候補Aの女性。
佐野悠真。
三浦啓介。
三人とも、まだ帰還してはいない。
だが少なくとも、生きていることを確認し、安全な場所へ移すことはできた。
今回は違う。
候補Dには
そもそも身体が見つかっていない。
「これ、いつからあるんですか」
ハレルが尋ねる。
イデールは歩きながら答えた。
「正式な記録だと十一年前くらいかな~」
「そんな前から?」
「うん。でも最初から“人の意識”だと分かってたわけじゃないよ」
地下の最奥。
厚い石扉の前で立ち止まる。
「治療班の古い器具を整理した時に、一つだけ消えない反応が見つかったの」
アデルが聞く。
「誰かが保管した記録は?」
「ないの」
イデールの声から、いつもの軽い調子が少し消える。
「いつ入れたのかも、誰が持ってきたのかも分からない。
ただ、捨てようとすると反応が強くなるから、そのまま保存されてた」
リオが眉を寄せる。
「捨てようとしたのか」
「昔の話だよ~。ただの残留魔力だと思われてたから」
「で、残留魔力じゃなかった」
「たぶんね」
イデールが扉を開く。
中は小さな保管室だった。
壁沿いに複数の棚。
その中央。
銀色の輪に囲まれた、小さな透明容器。
中には何もないように見える。
だがサキが一歩入った瞬間、スマートフォンの中でreが淡く光った。
「ここ」
ノノの声が通信から届く。
『反応確認したよ』
透明容器の周囲に、ノノの解析表示が重なる。
《意識反応・微弱》
《身体反応・なし》
《名称反応・未確認》
《外部固定・低》
《継続時間・長期》
ハレルは容器を見る。
「本当に、この中に誰かいるんですか」
イデールが静かに頷いた。
「人なのかどうかも、まだ決められないけどね」
ダミエが銀色の輪へ手を伸ばす。
「古い」
「エリウスのもの?」
サキが尋ねる。
ダミエは首を振った。
「違う」
しばらく調べる。
「でも、似た考え方」
アデルが見る。
「どういう意味だ」
「押し戻してない」
ダミエは輪の一部を指した。
「身体がないから、閉じ込めてもいない。消えないように、薄く囲ってるだけ」
イデールが頷く。
「だから残ったのかもしれないね」
◆ ◆ ◆
ノノが現実側の日下部へ接続した。
『候補D、始めるよ』
『こちらも準備できています』
現実側では、長期昏睡患者や身元不明患者の記録を絞り込んでいた。
候補Dが本当に現実世界から来た意識なら。
身体だけが現実側に残っている可能性がある。
ハレルが容器の前へ座った。
高瀬。
候補Aの女性。
佐野悠真。
三浦啓介。
これまでの三人には、身体があった。
声もあった。
表情も見えた。
今回は違う。
「聞こえますか」
返事はない。
「俺は雲賀ハレルです」
透明な容器。
何も変わらない。
サキが隣へ座る。
「怖がらなくて大丈夫です」
しばらく待つ。
微弱な波形が一度だけ動いた。
ノノが反応する。
『今の、記録した』
ハレルが続ける。
「あなたが誰なのか確認したいです」
波形。
変化なし。
「無理に名前を言わなくても大丈夫です」
今度はほんの少しだけ反応が上がった。
サキが気づく。
「嫌なんじゃないかな」
「何が?」
「名前を聞かれるの」
リオの表情が変わる。
佐野悠真。
三浦啓介。
二人とも。
過去に頭の中で「名前を言え」と聞かれている。
アデルも同じことを考えたらしい。
「ノノ。名前への反応だけ分けて見られるか」
『やってる』
数秒。
『やっぱり』
「何がだ」
『“名前を言え”って意味の刺激を入れると反応が落ちる』
サキが容器を見る。
「怖いんだ」
イデールがゆっくり近づいた。
「じゃあ、聞かないでおこうね~」
容器の前へ座る。
「名前はあとでいいよ」
微弱な光。
一度だけ、銀の輪が淡く光った。
イデールは微笑む。
「うん。それでいいよ~」
◆ ◆ ◆
日下部から候補一覧が送られてくる。
現実側。
長期昏睡患者。
身元不明。
意識障害。
原因不明。
クロスワールドゲート関連事件以前の記録も含む。
数百件。
その中から
候補Dの波形と反応が近いものを照合していく。
ノノが一件ずつ読み上げる。
『七年前。男性。違う』
『九年前。女性。反応なし』
『十一年前。男性。少し動いた』
アデルが言う。
「もう一度」
ノノが同じ記録を開く。
『十一年前。東京都内の病院。男性。当時二十八歳』
透明容器の波形がわずかに上がる。
ハレルたちが顔を上げる。
ノノも声を低くした。
『もう少し見る』
表示。
《氏名・長谷川修一》
波形が大きく乱れた。
「反応した」
ハレルが言う。
だが、すぐに弱くなる。
サキが首を振った。
「違う気がする」
アデルが尋ねる。
「なぜ分かる」
「名前を聞いて嬉しい感じじゃない」
「嫌がっている?」
「ううん……怖がってるのとも違う」
サキは言葉を探す。
「近いけど、違うみたいな」
ノノが分析を続ける。
『身体情報を照合する』
現実側の記録。
身長。
血液型。
古い手術痕。
歯科記録。
候補Dには身体がないため、直接一致させることはできない。
しかし、意識反応には記憶らしい断片が残っていた。
ノノが慎重に一つだけ刺激を送る。
病院。
白い天井。
呼吸器。
窓。
容器の反応が上がる。
次。
雨。
反応。
次。
女性の声。
反応。
そして。
踏切。
急激な上昇。
ノノが止めた。
『ここ』
日下部も現実側から答える。
『長谷川修一さんの事故記録に、踏切があります』
「事故?」
ハレルが聞く。
『十一年前、踏切付近で意識を失い、そのまま昏睡状態になっています』
リオが尋ねる。
「身体は?」
少し間があった。
『生きています』
室内が静かになった。
『現在も、現実側の療養施設に入院中です』
ハレルは透明容器を見る。
十一年。
身体は現実。
意識は異世界。
もし本人なら。
ずっと、身体と意識が別の世界に分かれたまま生きていたことになる。
◆ ◆ ◆
「でも、名前が違う反応だったんだよね」
サキが言う。
ノノが答える。
『うん。そこが問題』
日下部が過去の記録をさらに調べる。
『長谷川修一さんには、事故当時同乗者……ではなく、近くにいた人物がいます』
「誰?」
『妹です』
名前。
《長谷川美咲》
透明容器が強く光った。
全員が息を呑む。
ハレルが容器を見る。
「妹?」
ノノもすぐ反応を分離する。
『違う。今のは本人名への反応じゃない』
アデルが理解する。
「記憶だ」
『たぶん』
日下部が続ける。
『事故当時、妹の美咲さんが現場にいました。
兄の修一さんが踏切脇で倒れた直後、救急要請をしています』
ハレルが尋ねる。
「今も?」
『確認します』
数分。
その間
イデールが容器のそばで静かに待っている。
サキも何も言わない。
やがて日下部から返事が来た。
『現在も存命です』
反応。
今度は穏やかだった。
『兄の療養施設にも定期的に面会しています』
透明容器の内部。
今まで何も見えなかった場所に。
ごく薄い光が現れる。
声にはならない。
文字にもならない。
だが。
何かが。
そこにいる。
イデールが小さく言った。
「聞こえてるんだね」
◆ ◆ ◆
ノノは名前を直接聞く方法をやめた。
代わりに
本人の記憶と選択だけを確かめる。
『身体へ戻りたい?』
反応しない。
サキが言う。
「それだと急すぎるよ」
『そうだね』
ノノが質問を変える。
『美咲さんに会いたい?』
光が一度強くなる。
誰も声を出さない。
『現実世界へ行きたい?』
また強くなる。
今度は先ほどよりはっきり。
アデルが言う。
「記録しろ」
ノノが表示する。
《候補D》
《現実世界との関連・高》
《長谷川修一との一致可能性・高》
《身体候補・現実側で生存》
《本人選択・現実側への移動反応あり》
だが最後に。
《本人確定・未了》
と付ける。
ハレルが見る。
「まだ確定じゃない」
『うん』
ノノは答えた。
『反応はかなり強い。でも、名前そのものを本人がまだ受け入れてない』
イデールが銀の輪を見る。
「急がなくていいよ~」
「身体が十一年待ってるなら」
柔らかく続ける。
「あと少し、ちゃんと確かめてから戻ろうね」
銀の輪の中で。
光がゆっくり明滅した。
◆ ◆ ◆
【現実世界・関東圏/福祉施設・面談室】
「イルダ」
その言葉を口にした男性は、硬貨の写真から目を離さなかった。
城ヶ峰が尋ねる。
「その名前を覚えているんですね」
男性はゆっくり頷いた。
「忘れたことはありません」
日本語は滑らかだった。
七年。
それだけの時間、この世界で暮らしてきた。
木崎が聞く。
「あなたの名前を教えてもらえますか」
男性は少し黙った。
そして答える。
「ここでは、山岡隆司と呼ばれています」
「ここでは?」
男性が顔を上げる。
城ヶ峰は急かさない。
「昔の名前が別にある?」
長い沈黙。
やがて、男性が言った。
「レグナ・フォルス」
木崎の表情が変わる。
日下部が遠隔で名前を記録する。
王都側データとの照合開始。
数十秒後、日下部の声。
『記録があります』
男性の肩が動く。
『王都イルダ南地区。レグナ・フォルス。七年前に行方不明』
城ヶ峰が尋ねる。
「職業は?」
『家具職人』
男性――レグナの目が閉じる。
「……そうです」
日本で付けられた名前。
山岡隆司。
異世界で持っていた名前。
レグナ・フォルス。
どちらも、七年間の彼にとっては自分を示すものだった。
木崎が静かに聞く。
「王都へ戻りたいか」
レグナはすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
施設の庭。
職員。
ベンチ。
ここで七年間生きてきた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「向こうに帰りたい気持ちはあります」
一度言葉を切る。
「でも、こちらにも……私を知っている人がいる」
城ヶ峰は頷いた。
「なら今は決めなくていい」
レグナが驚いたように見る。
「帰せるのですか」
「可能性はある」
「本当に?」
「まだ保証はできない」
城ヶ峰ははっきり答えた。
「だからこそ、先にあなたの意思を確認する」
レグナは長く黙った。
その目に。
七年前とは違う二つの世界が映っているようだった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・臨時合同分析室】
日下部の画面に、新しい項目が並ぶ。
《異世界出身者候補》
《レグナ・フォルス》
《本人申告あり》
《王都側記録一致》
《現実世界滞在・約七年》
《帰還意思・保留》
そしてもう一つ。
《候補D》
《身体候補・長谷川修一》
《現実側生命反応・維持》
日下部は二つを見比べた。
一人は。
身体ごと異世界から現実へ来た。
もう一人は。
身体だけ現実へ残し
意識だけが異世界へ落ちた可能性がある。
転移の形は一つではない。
その時、王都側のノノから通信が入った。
『日下部さん』
「はい」
『候補D、保護区画へ移す』
「容器ごとですか」
『うん。今の結界を壊さずに』
「分かりました」
ノノは少し間を置く。
『身体側の長谷川さん』
『絶対に動かさないで』
「はい」
『本人だと確定するまでは、何もしない』
日下部は画面を見る。
十一年間眠り続ける男性。
「了解しました」
◆ ◆ ◆
【異世界・王国医療棟】
ダミエが銀の輪ごと、候補Dを新しい保護結界へ移す。
イデールが横で見守る。
「ゆっくりね~」
「分かってる」
輪が新しい台座へ固定された。
光は消えない。
サキのスマートフォンでreも静かに光っている。
ハレルはその小さな反応を見つめた。
身体がある人。
名前を失った人。
名前だけ覚えていた人。
数字だけ残った人。
身体すら別の世界にある人。
同じ転移でも、誰一人同じ形ではない。
だから同じ方法で帰せるとは限らない。
ハレルが言った。
「一人ずつですね」
アデルが隣で頷く。
「ああ」
「全部、確かめる」
その時ノノの声が入った。
『次の準備も進んでる』
「候補E?」
『まだ』
ノノは否定した。
『その前に、リーネ・アスト』
ハレルの表情が変わる。
『旧実験区画の反応と、リーネさんが消えた時の線』
『似てるところが見つかった』
アデルがイヤーカフへ手を添える。
「どの程度だ」
数秒。
ノノが答えた。
『偶然とは言い切れないくらい』
王都医療棟の静かな地下で。
次の失踪者へ繋がる線が。
少しずつ形を持ち始めていた。
コメント
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第275話、読み終えました。身体のない“意識”だけの候補D……透明な容器の中に確かにいる“誰か”が、名前を聞かれるのを怖がるシーンが胸に刺さりました。一人ひとり帰り方が違うっていうのも、すごくリアルで。レグナさんの「分かりません」という答えにも、どちらの世界も自分の人生なんだなって感じさせられました。静かで、でも確かな手触りのあるお話でした。