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『・・・・・・欲しいなぁ』
『何が欲しいのよ?』
夏の青空は高く澄んでいて、ぼんやりと見上げる彼女の耳に風の囁きのように流れ込んできたのは、少し離れた場所で煙草の煙を青空目掛けて吹き付けている彼の言葉だった。
いつも空腹を抱えていて常に何か食べるものを欲する彼だったから、さっき手作りのドーナツを食べたばかりでしょうと笑うもののそれでも何か思うところがあったのか、何が欲しいのかといつもと変わらない口調で問えば、煙で輪をひとつふたつ作った後、聞いた彼女の胸が軋むような声で家が欲しいと呟かれる。
彼が言った家という言葉は一般的な人々が思い浮かべるそれとはまた少し質を異にする重みを持っていることを彼女は良く知っており、その言葉が胸に軋みを生み出すのをじっと我慢して聞いていると、自分を、自分だけを愛して護ってくれる家が欲しいともう一度呟かれ、今度は堪えきれずに顔を伏せて唇を噛み締める。
たった今聞かされた言葉は彼女自身の言葉でもあり、それが告げられる心境を誰よりも理解できる為に苦しそうに溜息を吐いた彼女は、それでもそんな思いを振り切るように顔を上げて長い髪を揺らすと、私たちにはあの人がいるわと気丈に笑って彼を見る。
だが、ゆっくりと己に向けられる彼の顔、特にその青い瞳を見た瞬間、底なしの闇に吸い込まれるような恐怖を感じ、無意識に拳を握ってその恐怖に立ち向かう。
『……何よ』
『分かってんだろ?』
自分が何を言おうとしてるのか、何を察して欲しいのかを分かっているのにそんな一般的なことを言うのかと、煙草を銜えた唇が冷たい角度に歪んで笑みを浮かべ、見慣れたそれにも恐怖を感じそうになる。
『……分かってるわよ……あたしも……同じよ』
『──あーあ……欲しいなぁ……』
自分だけを愛してくれる、守ってくれる家という概念に収束させられる温もりが欲しい。
彼の心の底に常に居座り続けていても滅多に顔を出さないその思いが言葉となって流れ出すが、彼女がそれにどのような答えをするよりも先に爽やかな夏の風に乗って霧散してしまう。
その言葉を胸に秘め、いつかあんたの家も出来るわと言いかけた彼女だが、己の境遇を振り返ると同時に、たった今脳裏に浮かんだ言葉がペンキで塗りたくっただけの青空のような嘘臭さを感じ取ってしまう。
自らが嘘臭さを感じる言葉を伝えたとしても、粗雑なように見えて実は人の言動から真意を見抜く術に長けている彼に嘘だと分かってしまうことに気付き、もう一度長い髪を揺らして己を叱咤するように頬を両手で叩く。
『欲しいのなら自分で手に入れなさい!座して待っているんじゃないわ!』
『……なんだよ、突然に。そんなの分かってるって』
『分かってんのならこんな所に座り込んでないでさっさとマザーの手伝いをしなさい!』
『はぁ!?何で俺がババアの手伝いをしなきゃならねぇんだよ?お前がしろよ』
彼女のいきなりの言葉に彼が目を剥いて立ち上がり、煙草を投げ捨てて唾を吐き捨てる様を腕を組んで睨み付けていた彼女は、偉そうな口を叩くのならば一端の男に早くなれ、マザーが毎日のように学校に呼び出されることのないようにしろと腰に手を宛って指を突き付け、鼻白んだように身体を仰け反らせる彼にふふんと笑い、あんたが言うババアの世話になっているのだからあんたも手伝いなさいと拳を握る彼に背中を向けて家に戻ろうと歩き出す。
『……腹減った!』
『ドーナツがまだ残ってるわ。食べたいのなら一緒にいらっしゃい!』
つい先程まで顔を突き付けてケンカ張りの口論をしていた二人だが、次の瞬間にはもうケロッとした顔でいつものように仲が良い二人になっていて、駆け足でやって来る彼が横に並んだときに彼女の鼓動がひとつ跳ねる。
いつまでも小さいと思っていたが今やすっかり彼女の背丈を追い越し、顔を見て話をしようと思えば自分の頭一つ分上にある為に疲れてくるのだ。
幼い頃はいつも彼女のスカートにまとわりつくようにしていたクセに、今では立場が逆転してしまっていることが悔しくて、隣を歩く彼の肘を軽く抓って顔を背ける。
『痛ぇな。何すんだよ?』
『あんたが大きくなりすぎるからよ!』
『はあ!?訳分かんねぇこと言うんじゃねぇよ』
『あーうるさいうるさいっ』
『うるさいじゃねぇよ、ゾフィー!』
『うるさいからうるさいって言ってるんでしょ!ドーナツ食べるんでしょう?カインとゼップも呼んでらっしゃい』
あんたの悪友も呼んでこいと笑って告げるとあいつらになんか食わせる必要はないと断言する彼の背中を両手で押し、何でも良いから早く呼んでいらっしゃいとその背中を文字通り押すのだった。
他愛もない会話で掻き消したものの彼が与えた痛みは彼女の胸の奥に居座り続け、その痛みはふとした折りに忘れるなと言いたげに彼女に思い出させるように疼くのだった。
粗末なベッドの中で目を覚まし、胸に芽生えた痛みを堪えながら気怠げに身体を起こしたのは、昨夜教会関係者とバザーの打ち合わせをしていて遅くなってしまったゾフィーだった。
目覚ましが無くても起きるように習慣付いてしまった時刻にベッドから下り、手早く着替えを済ませて小さな物書き机に向かうと引き出しから日記帳を取り出す。
その日記帳の下に使い込まれているのが良く分かる赤い革の手帳があり、じっと見つめているが何かを諦めたような溜息を吐いて肩を竦めて日記帳を開くが、寝起きの心身は日記帳に思いを書き込ませてくれずに日記帳を閉じて元の場所に戻そうとする。
だが、諦めの溜息を吐かせた赤い革の手帳の下に色褪せている写真が見え、今度はそれを引っ張り出して眺めてしまう。
その色褪せた時の中で呆れたような笑みを浮かべる彼女と、その左右には顔中に赤や青の痣と絆創膏を彼方此方に貼りながらも自慢気に笑みを浮かべる三人の少年達がいてついつい目元を和ませてしまう彼女だったが、ふと我に返ってみればどうにもやるせない現実の真っ只中にいることに気付いてしまう。
この写真を撮った頃、毎日のように誰かを傷付けまた傷付けられて帰ってくる彼らの面倒を見ることに追われていて、ここには写っていない女性を毎日のように困らせ泣かせていた。
彼女たちが過ごす児童福祉施設は万年資金不足のために満足するまで食べることや欲しいと思ったものを買い与えることが出来ず、彼女たちの手作りのものを贈ることしか出来ないクリスマスを過ごしたとしてもそれでもあの頃は毎日面白おかしく日々を過ごし、貧しさを笑いとばせる強さがあった。
だが、時が流れあの頃の強さがただの強がりであったことに気付いてしまえばもう素直に笑うことも出来なくなり、結果この間ずっと悩み続けている事象を自ら引き寄せてしまうことになってしまったのだ。
貧しくとも仲が良い皆が集まりひとつの家を形成する、それが彼女を育てた大いなる女性の信念であり、またそれを次の世代へと受け継ぎ育てていくべきものだったが、その女性からもっとも信頼され次を任されている己は一体何をしているのかと、唐突に我が身を振り返ってしまい、写真を机に落として長い髪を両の拳でぎゅっと握りしめる。
教会の児童福祉施設に預けられて育った彼女は物心付く以前より神の存在を自然と刷り込まれていて、それは疑う余地もなかったが、神に懺悔するよりももっと身近で彼女を暖かく見守り手を差し伸べてくれる女性に対して一心に悔い改めそして許して欲しかった。
もしも己の罪が発覚したとすれば彼女の名誉が汚されるのは明白で、神の下すものや刑法がもたらす罰などよりも彼女はそれだけを恐れ、懺悔をしたくて机の隅に置いてあるロザリオを手にするものの、それから何ヶ月か前の出来事を思い出してしまい唇を噛み締める。
彼女がロザリオを僅かな慰めにと少女に与えたのだが、その少女が物言わぬ冷たい身体になって小川に浮かんでいたことを先日出掛けた際に教えられたのだ。
約束は2年だった。2年働けば稼いだ金を持って家に帰ることが出来ると信じ込ませられた少女は、まるで荷物か何かのような扱いをされながらこの国に連れて来られ、偽造した身分証を持たされて売春宿で強制的に働かされていたのだ。
まだまだ幼さの残る顔に不似合いの化粧をし、精一杯偽造証明書の年齢に見えるように見た目を変えさせた少女は、それでも泣き言ひとつ言わずに頑張って働いていた為、彼女が定期的に訪れているFKK近くのカフェで用意したロザリオを手渡し、辛いことがあるだろうがこれで祈りなさいと伝えたのだ。
その時に少女が自らの名前を彫って欲しいと彼女に告げた為、少女の名前-偽造ではなく本名-を彫って後日手渡すと、この世で縋れるただ一つのものと言うように受け取って両の拳の中にロザリオを包んで短く祈り、彼女が一緒に渡した布に大事そうに包んでいた姿も思い出し、少女の本当ならば続くはずだった時間を、未来を奪ってしまったことへの懺悔をすると、どうか異国の地で命を落とした少女の魂が安らげるようにと真剣に祈りを捧げる。
祈りを終えて机から立ち上がった彼女は、色褪せた時の向こうから笑いかけてくる己と彼らの視線から逃れるように写真を伏せて引き出しに戻すと、表情を切り替えて部屋を出て行くのだった。
己が尊敬するただ一人の人物であり育ての親でもあるマザー・カタリーナの精神的負担を少しでも軽くしようと今日もいつものように雑多な事務処理や来客の対応をしていたゾフィーは、携帯が鳴ったことに気付いて煩わしげに耳に宛がい、聞こえてくる声に無言で聞き入るが、短く分かったとだけ答えて携帯をポケットに戻して溜息を吐く。
その彼女の様子に何かを感じたマザー・カタリーナが苦笑しつつどうしたのですかと声を掛けた為、ゾフィーの肩がびくりと揺れてしまい、更にマザー・カタリーナを訝らせてしまう。
「ゾフィー?」
「……マザー、今夜急なんだけど出掛けなくちゃいけなくなったの」
「今夜ですか?また急ですね」
いつも出掛けることがあれば数日前に報せてくれるのにと彼女の言葉を借りながらマザー・カタリーナが少し口調を改めると、高校の同級生が何やら相談があるそうだと答えながらゾフィーが肩を竦め、いくら相談があったとしても今日連絡をしてきて今夜会いたいというのは非常識過ぎるわと自身も困惑している顔で溜息を吐き、マザー・カタリーナと自らの為にコーヒーの用意を始める。
「そうですね。突然の相談は本当に困りますね」
「でも仕方ないかぁ・・・久しぶりなんだし」
「高校のお友達なんですね?」
「うん、そう。だからちょっと行って来ます。あ、遅くなるかも知れないから先に寝ていてね」
「分かりました。気をつけて行くんですよ」
「はい」
血の繋がった親子のような会話を交わし、ゾフィーはマザー・カタリーナの前にそっとコーヒーカップを差し出すと、自らもお気に入りのマグカップに注いでテーブルにつく。
「そう言えば昨日リオンとカインが来てましたよ」
「え?二人が揃ったの?」
「はい。随分と久しぶりに二人が揃ったのですが・・・あの頃と変わっていませんでしたよ」
昨夜あなたがいない間に二人の大きな息子がやってきたが、そのうちの一人が持って来たバラの花束がそこにあると視線で指し示したマザー・カタリーナは、ゾフィーがのろのろと顔を振り向けて窓辺に飾ってある淡いピンクのバラに微笑ましそうに目を細め、一体どんな顔をしてこのバラの花束を買ってきたのかと呟くと、花屋の店員が色目を使ってきたから本数を増やさせたことを苦笑混じりに告げる。
「色目って……あいつ、全く変わってないのね!」
「相変わらず、あの子の周りには女性の影があるようですよ、ゾフィー」
長身で端正な顔立ちの赤毛の少年がここにやってきた時のことを思い出し、それから月日が流れてもやっていることはあの当時とほとんど変わっていないことに気付いたゾフィーは、頭が痛いと言って実際に額に手を宛がいながら溜息を零し、マザー・カタリーナに苦笑されてしまう。
「……ねえ、マザー、もしかしてみんなの部屋に飾ってあるバラの花って・・・」
「ええ。カインが来る時に持って来てくれる花束ですよ」
この街に帰ってきていることを伝えに来てくれた夜は真っ赤なバラだったが、その日以降何だかんだと理由を付けてはマザー・カタリーナの前に顔を出してはビールを飲んだりコーヒーを飲んで話し相手を務めた後で自宅に戻っているらしいカインの行動について彼女が顔中に笑みを浮かべて告げると、ゾフィーの目が思い切り見開かれてしまう。
「学生の頃はあんなにマザーのことをバカにしてたのに、毎日来てるの!?」
「ええ。─本当は優しい子なんですよ」
だがそんな優しい彼の性格を歪めるような出来事が幼い彼の身に起きてしまい、結果随分と捻くれた性格になってしまったと目を伏せたマザー・カタリーナに、あいつの性悪は生まれつきだと口悪く罵ったゾフィーは、マザー・カタリーナが悲しそうに己を見つめることに気付いて前言を取り消すことを告げると安堵に胸を撫で下ろした顔でマザー・カタリーナが笑みを浮かべる。
「本当に……わたくしの子ども達は皆誰も良い子です」
「……うん」
マザー・カタリーナが彼らを信じ心より愛してる、その思いが伝わる言葉と笑みにすぐさま頷くことも返事をすることも出来なかったゾフィーは、胸が痛むのを堪えながら笑みを浮かべ、久しぶりにカインに会いたいと目を伏せると今夜も来るだろうからお話をしておきますとマザー・カタリーナが告げ、お願いしますと軽く頭を下げる。
だが伏せた顔には、こんなにも己を信じ愛してくれるマザー・カタリーナを誰よりも裏切っていることに堪えきれない痛みが浮かんでいるが、それをグッと堪えて笑みを浮かべ、今夜の相談はどんなことだろうかと育ての母であるマザー・カタリーナと語り合うのだった。
久しぶりに幼馴染みと顔を合わせて下らない話で盛り上がったリオンは、その日はウーヴェの家ではなく自宅に戻り、食べるものが何もないと言いながら翌朝出勤した。
リオンが己のデスクで情けない顔で腹が減ったと文句を垂れていると、ジルベルトが朝から爽やかな男前を地でいく出で立ちで現れ、何を思ったのか手にした袋からゼンメルのサンドを二つもリオンの前にそっと置く。
「ジル?」
「腹が減ったら仕事も出来ないだろう?食えよ」
「ダンケ、ジル!愛して……ねぇけどダンケ!!」
「……」
その微妙なやり取りを呆れたような感心したような顔で見守っていたコニーは、リオンがゼンメルにかぶりつくのを見ながら昨日の話はどうなったと問い掛ける。
「ん?あー……マザーがあの教会を知ってるかどうかだったよな?」
「ああ。知っていたのか?」
「……それがさ……」
1つをあっという間に食べ終えてもう1つに手を伸ばしたリオンは、コニーの質問に溜息を吐いてマザーは知らなかったと答えて彼を驚かせてしまう。
「知らなかった?」
「ああ。ゾフィーが知ってるからてっきりマザーも知ってるって思ってたんだけどな」
昨夜ホームに帰ったリオンは電話が出来なくて悪かったとマザー・カタリーナに謝られて肩を竦め、こちらに戻ってからは毎日顔を出しているカインと一緒にコーヒーを飲みながらその教会について改めてマザー・カタリーナに問い掛けたのだが、彼女から得られた返事はその教会については知らないと言う言葉だった。
リオンが用意したコーヒーを前にマザー・カタリーナが語ったのは、人がいなくなって放置されたままの教会が近くの村にあることは何となく聞き知っていたが、その司祭がどんな人物なのか、またどんな経緯があったのかも全く知らないという事実だった。
電話でゾフィーと話をした時にリオンが得た感触はマザー・カタリーナならば何某かの事情は知っているし、もしかするとその教会に直接足を運んだことがあるかも知れないという希望だった為、その言葉に肩すかしを食らったように瞬きをし、知らないのかともう一度問い掛けて苦笑混じりに何度言われても思い出せないと答えられたのだった。
その一連の会話を思い出しながらコニーに告げたリオンは、ゾフィーが知っていてマザーが知らない教会があるなど不自然だと眉を寄せ、2つ目のゼンメルもきれいに平らげ、背後のデスクで何やら書き物をしているジルベルトに肩越しに礼を言い、その逆ならばおかしくはないと肩を竦める。
「マザーが知っていてゾフィーが知らないのならあり得る話だけどな、その逆はなぁ……」
リオンが生まれてからずっと見つめ続けてきたマザー・カタリーナの背中から彼女は彼女なりに保護している子ども達に見せられない貌や思いを持っている筈だから黙っている事実もあるだろうが、自分と同じ立場であり、成長してからはマザー・カタリーナの右腕的存在であるゾフィーが彼女に黙っていることなどあるだろうかと天井を見上げて溜息を吐くが、そんな彼の脳裏に幼馴染みが発した昨夜の言葉が甦る。
昨夜、マザー・カタリーナが席を外している時にカインが煙草に火を付けながらゾフィーは何処に行ったと問い掛けたが、リオンも彼女を捜していると答えて同じように煙草に火を付けると、次いでカインの口から煙と共に流れ出たのは、フランクフルトで何度か彼女を見かけたとの言葉で、さすがにそれに驚いたリオンがテーブルに身を乗り出すようにどういうことだと鋭く問い掛けたが、言葉通りだと返されて舌打ちをしたのだ。
いつカインがゾフィーを見かけたのかは分からないが、ゾフィーにも休みはあるだろうし、その休みを利用してフランクフルトに出かけることもおかしなことではなかったが、ただそれが回を重ねているのであればフランクフルトに何らかの用事があると考えるのが自然で、彼女を見かけたときの服装や様子はどうだったと問い掛けると、何かを思い出すように天井を見上げて椅子を軋ませたカインは、パンツスーツやロングスカートで化粧も少ししていたこと、いつも手には荷物を持っていたこと、そして何よりもカインとすれ違ったことを認識した瞬間に蒼白な顔で足早に立ち去ったことを告げると同時に舌打ちをし、あの時に話を聞いておけば良かったと後悔の言葉を並べる幼馴染みに肩を竦め、次に会ったときにでも話を聞けばいいとその話を終えたが、一晩たった今でもカインの言葉が脳裏で引っかかっていた。
「どうした?」
「んー……まだ何がどうなるかも分かってないから、何か分かったら言う」
「ああ」
コニーの問いに肩を竦めてもう少し時間をくれと告げたリオンは椅子の上で反り返って伸びをし、挨拶をしながらやって来るヒンケルに気付いてのそのそと立ち上がる。
「おはようございます、ボス」
「ああ。どうした?」
自らの部屋に向かうヒンケルの傍に向かいドアを開けて室内に入ったリオンをコニーが先程聞いた話をするのだろうと気付いて書類に目を通し始め、その前ではヴェルナーがジルベルトと共に追いかけている事件について今回の相棒に話を聞こうと顔を上げるが、室内にジルベルトの姿はなく、一体何処に行ったんだと訝りながら戻ってくるのを待つのだった。
ヒンケルの部屋に入っていつもの丸椅子を引き寄せたリオンは、訝りながら先を促す上司にひとつ頷いて一度深呼吸をすると、昨日コニーと訪れたあの教会にもう一度行ってみたいと告げてヒンケルの返事を待つ。
「めぼしい手がかりは得られなかったんだろう?」
「Ja.ただ司祭は来なかったがシスターが不定期に来ているとの情報がありました」
「ああ、報告書に書いてあったな」
「そのシスターなんですけど……あのロザリオ、覚えてますよね、ボス」
「当たり前だ」
まだ事件が発生して数日しか経っていないしお前がひどく悩んでいる姿を見ているのだから忘れるはずがないと不愉快そうに告げたヒンケルにリオンが肩を竦め、そのロザリオの何が気になっていたのかが分かったと苦笑しながら答え、視線で促されてひとつ頷いて広げた足の間で手を組み、いつものように親指をくるくると回転させ始める。
それがこの部下が考え事をしている時の癖だと理解してるヒンケルは、普段はどれ程ふざけていようが仕事になれば鋭い勘を発揮するリオンの口からどのような言葉が流れ出すのかを待ち構え、聞かされた言葉に目と口を丸くしてしまう。
「あのロザリオ、俺が持ってる物とそっくりなんです」
「どういうことだ?」
「写真を借りてオーヴェにも見せたので俺の思い込みではないと思います。俺のロザリオはマザーがくれたものです。ホームで育った子どもは余程の事情がない限り、皆マザーが用意したロザリオを持っています」
他の教会などでは分からないが、マザー・カタリーナは己の教会へと足を運び、改心した人にはそれを与えていること、ホームで働いているシスターやブラザー達も同じものを持っていることを告げて言葉を切ると、遺体で発見された少女はお前が育った教会に関係がある人物なのかとヒンケルが問いかけ、もしくは関係者と知り合いという可能性があると答え、くるくると回していた親指を止めてグッと手を組む。
「……で、あの教会ですが、司祭がいなくなった教会があることを何となく知っている程度でした。でも──」
ゾフィーは知っているようでした。
リオンの脳内で引っ掛かっているものがいくつかあるがそのひとつを口に出して組んだ手に自然と力を込めると、ヒンケルが顎を撫でつつそれの何が引っ掛かるんだと問いを発した為、ひょいと肩を竦めて自分でも分かりませんと返す。
「おい」
「や、マジで分からないんです、ボス。ただ、マザーがこの近辺の教会を知らないのにゾフィーが知っているのが気になるんです」
だから己の中の疑問を解消する為、もう一度あの教会に行かせて下さいとヒンケルを真正面から見つめたリオンは、上司の顔に逡巡の色が浮かんだ事に気付き、デスクに椅子ごと躙り寄って拳をデスクに押しつける。
「被害者の傍に落ちていたロザリオ、あれは間違いなくマザーが渡したものだと思います。それをチェコからやってきた被害者が持っていた、しかも小さな村の教会の住所を書いたメモを持っていた」
「……その教会で誰かと待ち合わせをしていた?」
「Ja.探している相手と待ち合わせをしていたのかそれとも別の誰かを捜しているのかは分かりませんが、人と約束をしていたことは間違いないでしょう」
「その待ち合わせをしていた人がお前の教会に関係があると?」
「可能性は高いと思います」
あの遊歩道の草むらに偶々捨てられていた可能性もあるが、あの鎖がちぎれたロザリオには東欧系の名前が彫られていて、それについて見覚えも聞き覚えもないことを思えば被害者自身の持ち物に間違いはないだろうと告げてもう一度あの教会に行かせて下さいと再度頭を下げる。
「……そうだな……」
「不定期に訪れていたシスターも気になります」
「ああ……分かった。コニーともう一度行ってこい」
「Ja.」
今度は以前のような漠然としたものではなくある目的を持って行くのだから必ず達成してくると胸で呟き、上司が溜息を吐いたことに気付いて首を傾げる。
「どうかしたんですか?」
「……ロザリオなどみな同じに思っていたが・・・」
「ああ……うちで配ってるのは特別なんですかね。マザーがひとつひとつ手作りをしたって言ってました」
「彼女が作っているのか?」
「俺のもマザーが作ってくれました」
幼い頃はロザリオなどただ煩わしいだけだったが、高校の時に密かに抱いた警察官になる夢。それが叶ったことを合格の通知を見せながら彼女に告げた翌日、ひとつの夢が叶ったことへの祝いと次の夢を叶える為に頑張りなさいと言ってマザー・カタリーナがリオンにロザリオを手渡したのだ。
その頃にはもう思春期特有の反抗期から抜け出していたリオンは、それでもまだ青春の残滓が蟠っていて、ありがとうの一言だけでそれを受け取り、部屋に戻って肌身離さず持っているだろう財布のコインケースに大切に仕舞い込んだのだ。
リオンや同じくホームで育った子ども達にとって拠り所となりえる重みを持ったロザリオと酷似したものが発見現場に落ちていたのだ、その関連を疑っても仕方がない事だった。
「すぐに出掛けられるか?」
「大丈夫です。ボス、チェコからの連絡は?」
「まだだ」
「随分と手間取ってるんですねー」
本当に国が違えばこうも違うのかと肩を竦めて口笛を吹いたリオンは、丸椅子から立ち上がり、コニーと一緒にもう一度教会に行って来ることを再度告げて部屋を出て行くのだった。
今度はコニーの運転で郊外の小さな村の教会に向かったリオンは、その前にホームによって欲しいと告げて立ち寄り、何事だと顔色を変えるマザー・カタリーナに耳打ちして何枚かの写真を借りてくる。
それはこの教会で働くシスター達の写真だったが、あの教会を不定期に訪れていたシスターが万が一己の予想通りこの中に写っている誰かであればとの思いから拝借し、車内で待っていたコニーにも借りて来た写真とその理由を手短に語る。
道中どうしても話題になるのは事件に関係することばかりで、ロザリオの裏面に刻まれているのが女性の名前で今現地の警察に問い合わせていること、遺体の少女についての情報もまだ入ってきていないことを知らされ、本当に暢気な警察だと二人で苦笑してしまう。
そうこうするうちに到着した村に車を停め、通りすがりの人物に再度教会について質問をしていくが、以前シスターが来ていたことを教えてくれた女性と再会出来た為、リオンが己の緊張を押し殺しながら表面上は全く変わらない笑顔で何枚かの写真をその女性の前に差し出す。
「この中にそのシスターはいますか?」
「え……そうだね……この人、かな?」
確証が持てないが多分このシスターだったと思うと女性が指し示したのは、気丈な性格を瞳に宿しながらも穏やかに笑っているゾフィーの顔だった。
「……やっぱり」
「リオン?」
「あ、何でもねぇ。このシスターは不定期に来ていたんですよね?来ていた時の滞在時間とかは覚えてますか?」
コニーの視線と言葉を受けて我に返り、シスターがいつ頃に来てどのくらい教会にいたのかを聞き出していると、少し離れた場所から指を咥えた5歳にもならないだろう子どもがじっと自分たちを見ている事に気付き、コニーに合図を送ってリオンはその子どもの前に大股に歩み寄る。
「ハロ、ママかパパはどうした?」
「ママはおはなししてる」
「そっか。家はどこだ?一人で出てきちゃダメだろう?」
いくら郊外の小さな村と言っても幼い子供が一人で出歩くことは危険が多すぎると気付き、子どもの前にしゃがみ込んで上目遣いに見つめる大きな瞳に片目を閉じる。
「ママの所に帰ろうぜ」
「……おじちゃん、ママを知ってるの?」
子どもの純粋な言葉にぐさりと槍か何かを胸に突き刺されたような痛みを感じ、まだまだお兄ちゃんだと地を這うような声を出すと、その声に驚いた子どもが顔を歪めて泣き出す寸前の形相になる。
「やべっ・・・!」
泣かれてしまうと何かとややこしい為、慌ててコニーを手招きして子どもをあやして貰って一息吐く。
「あら、クリス、また出てきたの?」
コニーがリオンの要請に応じて駆けつけた時、たった今話を聞いていた女性が彼の腕の中で機嫌を直し始めている子どもに気付いて苦笑し、ママに怒られるわよと苦笑する。
「勝手に一人で外に出て、前みたいに怪我をしたらどうするの?」
「あー、家を抜け出す常習犯なんだな、クリス?」
「じょう・・・?ううん、ちがうよ?教会のね、シスターを待ってるの。だから教会に行くの」
子どもの呟きに三人の大人が顔を見合わせ、コニーが声に緊張感を滲ませながらも極力穏やかな口調でシスターを知っているのかと問いかけると、クリスの頭が上下に揺れる。
「クリスが頭をごつんってした時に、痛くないよーっておまじないをしてくれたの」
そのシスターとまた教会で会う約束をしたのだと純真な顔で笑われてもう一度顔を見合わせたコニーとリオンは、そのシスターはいつ来るんだと問いかけ、ママがプールに行く日と答えられて苦笑する。
これは子どもではなく母親に話を聞いた方が早いと頷きあい、教会の話を聞いていた女性にクリスの家がどこなのかを聞き出すと、礼もそこそこにクリスを抱き上げたままコニーが走り出し、リオンも同僚を追いかけて駆け出す。
村の大通りの石畳を足音高く駆け抜けていると前方からクリスの名前を呼びながら慌てた素振りの女性がやってくるのを発見し、クリスの母親かとリオンが声を張り上げて注意を惹き付け、コニーが抱えている子どもを彼女によく見えるようにすると、安堵に顔を歪ませながら駆け寄ってくる。
慌ててコニーから息子を抱き取り、勝手にいなくなってはダメだと厳しい声を出した後でぎゅっと抱きしめた彼女は、二人が何やら聞きたそうにしていることに気付いて首を傾げ、プールに通っているそうだが直近ではいつプールに行ったのかを問いかけられて目を瞠る。
「プール?」
「そうです。……司祭が亡くなって放置されている教会にシスターが訪れていたそうですね。クリスがそのシスターに会う日はあなたがプールに行く日だと言っていました」
子どもから聞き出した話を織り交ぜて手早く事情を説明したコニーだったが、何かを思い出した顔でジャケットの内ポケットに手を差し入れて身分証を広げ、リオンもそれに倣って広げた為に彼女の顔がさっと青くなる。
「……大丈夫ですよ。子どもを一人で外出させたからと言って児童虐待や保護責任者遺棄で逮捕するつもりはありません」
「……家に帰れば手帳に書いてあります。この子がお世話になったので何度かシスターとお話をしたこともあります」
「次はいつ来るのか聞いていませんか?」
「プールの日なので週明けの月曜かしら?」
首を傾げる彼女に分かる範囲で構わないのでそのシスターがこの村を訪れた日を教えてくれと告げ、訝りつつも頷いてくれる彼女を家に急いで走らせて今最も欲しい情報を入手する。
「あ、そうだ。そのシスターなんですけど・・・」
この写真の中にいるかどうかを先程の女性と同じ口調で問いかけると、すぐさまゾフィーの顔を見て笑みを浮かべ、最初は取っ付きにくいシスターに感じたがクリスが怪我をした時は本当に優しく手当てをしてくれた事、彼女が持っていたロザリオをクリスに与えてくれたことを感謝の思いから告げ、二人の刑事が意味ありげに視線を交わす。
「そのロザリオ、見せて貰っても構いませんか?」
「ええ、もちろんです」
今回の事件でまずリオンが疑問を抱いたロザリオに始まり、聞き込みに回るにつれ教会の影が見え隠れするようになっていた。
そしてここでもまたロザリオの存在を知らされ、彼女が持って来たそれを鄭重に受け取って矯めつ眇めつしたリオンは、証拠写真を取りだして酷似していることを確かめ、ロザリオの裏にクリスの名前が彫られていることを確認すると携帯を取りだしてロザリオの裏面を写真に納めていく。
「これがどうか?」
「いえ……良ければクリスの為に取っておいて下さい」
「ええ、そのつもりです」
「週明けの月曜にシスターが来たらこちらに連絡を下さい。シスターには我々のことは内密にお願いします」
コニーが名刺を差し出して自分たちがここに来て事情を聞いていたことは口外しないでくれと告げて緊張気味の面持ちで頷く彼女に念を押し、時間を取らせてしまったがいただいた情報は有効活用させて貰うと告げて一礼をする。
「クリスー、もうママの目を盗んで家を出て行っちゃダメだぞ?」
「……うん」
「良い子だな。では失礼します」
母親の足にぎゅっとしがみついて上目遣いに見つめてくる子どもと視線を合わせるようにしゃがみ込んだリオンは、子ども達からも子どものようだと称される笑みを浮かべて白い頬を一つ撫でて髪を撫でると立ち上がり、少し先に停めた車の横で待っている同僚の元に駆け寄るのだった。
事態はリオンの予想通りに動き始めているが、動き出したそれが辿り着く結末など当然この時のリオン達に想像出来るはずはなく、何故ゾフィーがここの教会を一人で訪れているのかをホームに戻って聞き出そうと帰りの車中でコニーと話をするのだった。