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『神よ、どうか私の大切な人達をお守り下さい。
罪に汚れた我が身ですが、どうか願いを叶えて下さい。
──彼を愛する人よ、どうか彼を守り給え。
どうか、愛する人をお守り下さい』
手帳を閉じた手を額に宛ってきつく目を閉ざしたのは、本日の診察をすべて終えて一息吐いたばかりのウーヴェだった。
今朝届けられた赤い革の手帳。その手帳の持ち主がシスター・ゾフィーだということは手帳裏表紙に刻印されている名前から察することが出来たが、手帳の内容については理解出来ない――正確には理解したくない――ことが書かれていて、深く溜息を吐いてもう一度手帳を開く。
スケジュールを書き込めるカレンダーには丸や三角、中にはアスタリスクなどが記されその横に数字が書かれ、一日一日の出来事を書き込めるページにはイニシャルらしきものが羅列されていて、そのイニシャルの数とカレンダーに記されている人数はほぼ一致しているようだった。
このイニシャルらしきものが想像通り人の名前を表すものであり、カレンダーの数字がその人数なのだとすればと思案したとき、ドアがノックされて思わずウーヴェの肩がびくりと上下する。
まるで己の心臓を直接ノックされたような衝撃に鼓動を早めつつどうぞと声を掛けると、お茶の用意をしたリアが入ってきて顔を曇らせる。
「その手帳、リオンに届けないの?」
「届けるつもりなんだが……」
少し気になって見ていた手帳を持って窓際のチェアに移動したウーヴェは、マグカップを置くリアに今朝見せてくれた新聞はまだあるかと問い掛け、すぐに持ってくると返される。
「いや……あの記事ではシスターが人身売買に荷担していたとなっていたな?」
「そうね」
「……リア、この人数とイニシャルらしきものについてどう思う?」
あるページを開きながらリアに指し示し、同じ月のカレンダーを見せて5という数字と5名分のイニシャルを再度見せると、リアの目が思案するように一度揺れるが、間を置かずに見開かれて口を手で覆う。
「……!」
「やはりそう思うか?」
「でも、あの記事を見た後だから……」
シスター・ゾフィーと直接面識があるわけでもないが、ゴシップ紙の記事を読んだ後では何ごとも人身売買という犯罪に結びつけてしまいたくなると反省したリアにウーヴェが無言で頷き、手帳の最後のページに震える文字で書かれた一文を読み上げる。
「”――私ではない別の人を愛する彼を、どうかお守り下さい”」
「それって……もしかして……」
彼女がこのメッセージ――告白文――を書いたときの心情を思うと胸が痛くなるウーヴェだが、彼という言葉が示すものが誰であるかは明白で、リアの予想通りだと肩を竦めて呟くと深い溜息を吐いて目を細める。
ウーヴェがリオンと一緒に彼の実家である児童福祉施設に顔を出すと必ずマザー・カタリーナが出迎えてくれるが、彼女がいないときなどはシスター・ゾフィーが出迎えてくれていた。
その時のリオンはまったく気付いていなかったが、リオンを見る目に宿る感情と己を見る視線に籠もった思いからある程度予想はしていたものの、彼女自身の告白を目の当たりにすると胸が締め付けられるような苦しさを感じてしまう。
リオンの過去をつぶさに見つめてきた彼女に対してウーヴェが嫉妬し、過去について教えてくれないリオンに対して腹を立てたりもしてきたのだ。
実は彼女に対する嫉妬を抑えるのにかなり苦労していたが、彼女も同じように嫉妬していたことをその文章から読み取り、額に手を当てて天井を振り仰ぐ。
「ウーヴェ?」
「……女性は、いや、彼女は本当にすごいな」
「どうしたの?」
「……リオンを守る為ならば、たとえ嫌っている俺であっても頼るのか」
リアの問いに答えているようないないような呟きを放った後、ウーヴェが手帳をコーヒーテーブルに置き、まるで聖書に手を置いて宣誓をするときのように真剣な顔で姿勢を正す。
「――俺に出来る事ならば何でもしよう。貴女の思いの足元にも及ばないだろうが、あいつを、リオンを、俺が持つ力のすべてで守る」
貴女の思いは受け取ったと、ひっそりとだが強い声で宣言をしたウーヴェをリアが呆然と見つめてしまい、その横顔に不謹慎だと思いつつも見惚れてしまったリアは、手帳の上から己の胸元に手を移動させて何かを握るような仕草をするウーヴェの行動をじっと見つめ、視線に気付いた彼が苦笑しつつリアを呼んだ為に咄嗟に顔を赤らめて視線を逸らしてしまう。
「どうした?」
「何でも無いわ。それよりも早く届けた方が良いんじゃない?」
「そうだな。ただ、気になるのがあの記事だ」
リアが気分を切り替えるように頭をひとつ振って急かすように身を乗り出すと、ウーヴェがゴシップ紙の記事についての疑念を口にする。
「身内が犯罪に荷担していると疑われている刑事が事件を担当するだろうか?」
「あ……」
「間違いなく事件から外されているだろうし、最悪あの記事の責任ではないが、謹慎している可能性もある」
リオン自身が自ら犯した罪ではないしゴシップ紙に取り上げられているだけならばまだ良いが、大手の新聞にでも掲載されてしまえば謹慎だけでは済まない可能性も出てくると、顎の下で手を組んで前屈みになったウーヴェが重苦しく呟き、リアもその空気に負けたように口を閉ざしてしまう。
己の天職だと胸を張って働くリオンから刑事という仕事を奪い取ってしまえば学生の頃のように荒んだ暮らしに逆戻りするかも知れず、また最悪の場合すべてを放棄してしまう――それは生きることも含まれる――だろう。
そんな暗い未来が訪れないようにしてほしいとゾフィーが伝えたかった思いの一つを認識し、そうならないようにするにはリオンが今回の犯罪に無関係であり、彼が育った児童福祉施設も教会も人身売買で得た金を1ユーロも受け取っていない証明をしなければならないと気付き、それをするにはまずマザー・カタリーナに連絡を取らなければならない事にも気付くが、こんな記事を書かれた直後に連絡を取っても大丈夫だろうかと不安を口にする。
「正直分からないわ。でも、私が同じような立場になったとしたら、あなたからの連絡はすごく嬉しいし励まされるわ」
何しろリオンがもっとも信頼をし、またあなた自身もあの教会や児童福祉施設に何度も出入りをしていて顔も気心も知れている上、年間を通じてそれなりの寄付もしているのだからとリアがウーヴェの不安を払拭してくれる。
「ありがとう、リア」
「いいえ。先に教会に連絡をしてみる?」
「そうだな」
リアの提案を受けて携帯を取りだしたウーヴェが教会へと電話をかけるが、何度呼び出しをしても電話が繋がることはなかった。
次にマザー・カタリーナの携帯を呼び出すがこちらも彼女が出てくれることはなく、記事への対応に追われていることを教えてくれるようだった。
ウーヴェが連絡先を知っている教会関係者はマザー・カタリーナとリオンだけだった為、一つ溜息を吐いて膝に手を宛ってグッと力を込めて身体を起こすと、見上げるリアに笑みを浮かべ、もしもリアさえ良ければ不安を感じて連絡をしてくるかもしれない気心の知れた悪友たちに説明をして欲しいと片目を閉じると、リアの目が見開かれた後にもちろんとの言葉と一緒に強く頷かれて目を細める。
「ダンケ、リア」
心強い味方を得たウーヴェがリアの手を取ってその甲にキスをし、ウーヴェ以外の男からのそれには気取りすぎと皮肉気に見てしまいそうなそれを素直に受けたリアがにこりと笑みを浮かべて笑顔で送り出す。
「早く警察に行って、ウーヴェ」
「ああ」
彼女から託されたリオンを守るための手帳と手帳が入っていた封筒をカバンに入れ、クリニックの戸締まりを頼むと告げたウーヴェは、診察室を出ようとドアノブに手を掛けた時、リアが切羽詰まった声で呼び止めたために足を止めて顔を振り向ける。
「……ウーヴェ、リオンを……お願い」
ここに来る時はいつも突然で受付でいつも冷や冷やしながらリオンを出迎え、休憩中に来ると必ずケーキを食べたりお茶を飲んだりしながら大騒ぎをし、リオンが来るまでは静かだったクリニックが一気に騒々しくなることも最早日常の一コマになっていて、ここにやってこない日が不自然に感じるようになっていた。
そしていつからか彼女もリオンのことをただ騒々しいだけの男から己にとっても大切な友人だと思うようになり、ウーヴェと三人でここで他愛もなく騒いでいられることが幸せだったのだと気付いて微かに声を震わせる。
彼女の思いを受け止めたウーヴェがくるりと振り返ってリアの前に戻ると、彼女の目を覗き込むように腰を屈めて大仰な身振りで頭を下げる。
「かしこまりました。つきましてはすべて終わった際にいつものデザートを食べさせて貰えるのであれば、持てるすべての力を出す所存です」
「…………用意、いたしましょうか」
「光栄でございます、フラウ」
舞台か何かのようにふざけた言い回しではあったが、しっかりとウーヴェの思いを読み取ったリアが小さく笑い、そこまで言うのならばとっておきのリンゴのタルトを用意しましょうと笑ってウーヴェに笑みを浮かべさせる。
「後を頼む」
「ええ」
自分たちにとっても掛け替えのないリオンを守るためにクリニックを出ようとするウーヴェの背中を見送ったリアは、彼に頼まれたことを実行するため己のデスクに戻ってウーヴェの悪友であるカスパルにゴシップ紙の件でメールを送るのだった。
ヒンケルが署長や部長らと事件の情報が漏洩したことへの対処――それはリオンの処遇にも及んだ――を話し合い、重苦しい気配を身に纏って刑事部屋に戻ってくるのを黙って見守った部下一同だったが、荒い足音をさせながらヒンケルが己の部屋から出てきた後、全員を今回の事件の資料などが貼り付けてあるホワイトボードの前に集合させる。
ブライデマンとロスラーはヒンケルのすぐ傍の椅子に腰を下ろして何やら話し合っているが、コニーはいつもの穏やかな顔に微かに緊張を浮かべ、ヴェルナーの耳に何事かを囁きかけていた。
デスクに腰を下ろしたり椅子に後ろ向きに座ったりしながらも刑事たちは集まるが、そんな中にリオンの姿はなく、己のデスクで別の事務仕事に勤しむ事で今回の事件から外れていることを態度で示していたが、だがいくら事件が己の手から離れたとはいえ、家族同然のゾフィーが罪を犯していることが確定しているとなればやはり気になってしまい、書類整理もついつい漫ろになってしまう。
皆を集めたヒンケルがリオンの背中を一瞥した後咳払いをしフランクフルトの事件についてロスラーに説明をさせ、次いで人身売買組織についてブライデマンに詳細を説明させるが、その間は腕を組んでホワイトボード横の壁にもたれ掛かりながら部下の顔を平等に見つめ、最後にもう一度リオンへと視線を投げ掛ける。
先程署長や部長と話をした際、リオンが育った児童福祉施設で働くシスターが事件に関連していること、そのシスターが罪を犯して得た金を施設が受け取っていたのかがはっきりするまではリオンを謹慎させればどうだと当然のように出たのだが、リオン自身は今回の犯罪に一切荷担しておらず、ゾフィーが組織の一員だったことすら知らなかったのに連帯責任も何もないとヒンケルが二人に詰め寄ったのだ。
署長や部長はヒンケルの手腕や人格、過去の実績に重きを置いてくれている為にヒンケルの直属の部下についてまで口を挟むことをしないと最終的には認めてくれたが、マスコミ対策の不備についてはヒンケルのミスだと声を鋭くしたのだ。
己のミスは素直に認め、部下への謂われのない非難は断固として拒否したヒンケルだが、リオンがすべてを知りながら黙っているだけではないのかとの思いは爪の先ほども思い浮かばず、人を疑うことを生業とする己だが部下まで疑ってしまうようになれば終わりだと自嘲しつつ部屋に戻ってきたのだ。
自分の部下が情報漏洩に関係しているとは絶対に思わないヒンケルは、ブライデマンが何事かを告げたことに気付いて顔を上げ、もう一度言ってくれと苦笑する。
そんなヒンケルの態度を少し離れた場所からリオンがじっと見つめていることに気付いていた彼だが、その視線に応えるように表情を厳しいものに切り替え、ブライデマンが提案してきたことを了承する。
「重要参考人のゾフィー・ハイドフェルトの住居を家宅捜索する」
彼女が疑われた時点で本来ならば行わなければならなかった事だと告げ、ブライデマンの動きにつられて皆がリオンを見るが、見られた方は蚊に刺されたほどの痛みも感じていない様に書類を乱雑に纏めてデスクの上で整える。
「コニー、ジル、ロスラーと一緒に彼女の部屋を調べてこい」
ブライデマンの皮肉を受けてリオンが激昂しない様に先手を打ったヒンケルは、三人に命じてゾフィーの部屋を調べさせ、ヴェルナーはマックスと一緒に金融機関に問い合わせて彼女名義の口座の確認とその口座の金の流れを追えと命じると、ジルベルトが複雑な表情を浮かべつつも命令に従うように頷き、コニーとこの後の手順について打ち合わせを始める。
俄に慌ただしくなった部屋の空気を感じながらも己一人がその空気を吸えないもどかしさに内心舌打ちをしたリオンは、わざわざデスクを回り込んでこちらにやって来たロスラーが己の肩に手を載せて家宅捜索で何が出るか楽しみだなと笑った為、それを見計らったようにジルベルトがにやりと笑みを浮かべてリオンを呼ぶ。
「おい、リオン、お前がずーっと隠してたエロ本が発見されたどうする?」
「お前の時代はエロ本かも知れねぇけど俺たちの時代はビデオテープなんだよ」
場の雰囲気にもっとも相応しくない、だが二人の関係を知る者からすればいつもの事だと頷きたくなる言葉を投げ掛け合うと、ロスラーとブライデマンが一瞬呆然とするが、次いで怒りの為に顔を赤らめるのを尻目に不敵な笑みを浮かべ、好きなところを好きなだけ調べても構わないし俺の腹は痛まないが、マザーにも隠していたエロビデオなんだ、見つかっても見なかった振りをしてくれと告げてジルベルトの笑みを深くさせる。
「出てきたエロビデオを皆で鑑賞しようか」
「お前たちー、今時ビデオデッキなんてないぞー。今はディスクか配信だぞー」
ジルベルトの言葉にコニーが何かを吹っ切るように暢気な声を挙げ、マクシミリアンが呆れた溜息を吐いてダニエラが目を吊り上げる、そんないつもの光景が一瞬にして刑事部屋に蘇りヒンケルが僅かに表情を緩めるが、最大の侮辱を受けたと言いかねない二人の態度に気付いて咳払いをし、馬鹿なことを言うなと二人を一喝する。
「ジル、コニーと一緒に早く行け! リオン、無駄口ばかり叩いてないで仕事をしろ!」
「ひー! クランプスが怒った!」
怖い怖いと首を竦めて書類を束にしたものを抱え込んだリオンは、怒りに肩を震わせる二人を一瞥しても特に何も言わずに書類を保管しているロッカーの扉を開け、二人に対して無言の意思表示をするように扉が外れてしまいかねない勢いで閉める。
「早く行って来いよ」
家宅捜索をされることで痛む腹は持ち合わせていないが今まで聞き流してきた暴言に対して立てる腹なら持っていると振り返りつつ低く呟いたリオンは、ブライデマンが鼻先で笑い、ロスラーが顔を引き攣らせたのを尻目に己のデスクに腰を下ろしてラップトップを立ち上げる。
「表にはマスコミがいるはずだ。何を聞かれても後で部長の記者会見があるとだけ答えろ。いいな」
マスコミ対策として情報の窓口を一本化すること、たとえ顔見知りの記者がいたとしても今回の事件についてはノーコメントを押し通せと念を押したヒンケルは、己が信頼する部下がその信頼に応えるように頷いて出て行くのを見送り、急に静まりかえった室内に溜息を吐く。
そんなヒンケルの背中をリオンが密かに申し訳なさそうな顔で見つめているのだった。
コニーとロスラーがリオンが育った児童福祉施設の家宅捜索を終えて戻って来た時、手には大ぶりの段ボールを抱え、めぼしいものをすべて運んできたこと、教会と児童福祉施設はゴシップ紙の記事を読んだ人達が大勢押しかけていて大混乱していたこと、その中で赤毛の長身の男が頭に怪我をしていたようで包帯を巻いていたこと、そしてマザー・カタリーナが憔悴しきった、だがゾフィーのことを信じて疑わない顔で自分たちの捜索に全面的に協力してくれたことをヒンケルに報告し、背中でその報告を聞いていたリオンを気遣うように声を掛けたのは一足遅く深刻な顔で戻って来たジルベルトだった。
「残念だったな、リオン。お前の秘蔵のビデオテープはすでに破棄されていたようだ」
「誰だよ、勝手に捨てたヤツ」
「頭に怪我をしていた、赤毛の兄ちゃんが言ってたな」
「カイン?」
「赤毛でカインか? ハイドフェルトと言っていたが……」
ジルベルトの言葉を継いでコニーが肩を竦めるが、己の言葉から何やら重大な疑問を引き出してしまったようで、顎に宛がった手を離して少し呆然気味にリオンに問いかける。
「リオン、そのカインというのは……」
「ゾフィーと血縁関係は無い筈だぜ。カインは五歳の頃に双子の姉と生き別れたって言ってたけど、ゾフィーとカインは双子じゃねぇ」
カインの生き別れの姉もゾフィーと言うらしいが、俺たちと同年代の女でゾフィーという名前の女など掃いて捨てるほどいるだろうと笑うとコニーも肩を竦めて己の杞憂を笑い飛ばす。
「それもそうだな」
「そうそう。それにゾフィーは赤毛じゃねぇ」
カインの双子ならばその姉もきっと赤毛だろうとのリオンの呟きにコニーも頷いてそれならば良いと手を挙げた時、ブライデマンとヒンケルが部屋から出てきたかと思うと、ゾフィーの私物を検証する、だから彼女をよく知るお前も来いとリオンの襟首を掴んで立ち上がらせるが、いつもとは違って大人しく立ち上がるリオンに不気味さを感じつつも押収してきたものが会議室にあることを教えて一緒に向かう。
会議室のテーブルに並ぶのは今までリオンが意識して見ることの無かったゾフィーの持ち物ばかりで、ひとつひとつを見ていくうちにそれを彼女が手にしていた時の表情や言葉などを思い出してしまい、無意識に拳を握りしめる。
「すべて知っているとは思わないが、彼女が肌身離さず持っていたものがあれば教えてくれ」
ヒンケルが最大限に気を遣ってくれている、その事実を感じ取ったリオンがひとつ頷き、押収された日用品で己が知る限りのものを上司や同僚達に説明をしていくが、やはりゾフィーが肌身離さず持っていたと言えばマザー・カタリーナが作ったロザリオだと告げ、そのロザリオが無い事に首を傾げる。
「ロザリオも無いし財布も無い。ああ、あと、手帳とかは無かったか?」
「手帳?」
「俺は手帳なんて持たないけど、ふつうは大切な予定とかがあれば手帳に書き込んだりするんだろ?」
腕組をしながらじっと見つめているヒンケルの顔を見、同じように押収物を見てひとつひとつ問いかけるコニーに手帳は無かったと問いかけたリオンは、手帳と問われて微苦笑し、自分たちの職種とは違って三ヶ月先の予定なども入るような仕事をしていた為、大切な予定は手帳なりメモ帳なりに書き込んでいたはずだと天井を見上げた時、会議室のドアがノックされてその音に皆が一斉にドアへと顔を振り向ける。
「忙しい所を申し訳ない。ヒンケル警部がこちらにいると聞いたのだが?」
会議室のドアノブに手をかけ申し訳なさそうな顔で苦笑しつつ言葉を発したのは、いつもと変わらない穏やかさを少しだけ緊張に押し包んだようなウーヴェだった。
「……っ……オーヴェ……」
いつもいついつまでもどこまででも愛してると公言して憚らない恋人が突然顔を見せた感激よりも、己の姉がしでかした罪によって恋人にまで迷惑を掛けてしまうのではないかという危惧から連絡を取れなくなっていたリオンがややぎこちなく名を呼んだあとに視線を逸らすと、冬の初めを思い出させる冷たい声が投げ掛けられる。
「――携帯に電話をしたが出なかったな。故障でもしているのか?」
「……いや、故障していない。ちょっと……忙しかった、し」
「ふぅん、そうか。故障しているのならさっさと修理に出せと言いたかったんだけどな。そうじゃないのなら良かった。……後で話がある」
恐る恐る顔を振り向けるリオンに見向きもせずに呆然と見つめてくるヒンケルとコニーに親しげな顔で目礼をし、誰だと目つきを鋭くするロスラーとブライデマンには慇懃無礼にならないように名乗ったウーヴェは、壁に背中を預けて腕を組んでいるジルベルトを軽く一瞥したあと、拳を握って俯くリオンを気に掛けつつもヒンケルに来訪した理由を告げる。
「見てもらいたいものがあるのです」
「何だ?」
「……これが今朝、正確に言えば昨日の郵便でうちの上のクリニックに間違って届けられました」
ウーヴェがカバンから取りだしたのはゾフィーが彼に託した手帳だったが、訝るヒンケルの前に封筒を差し出して僅かに目を伏せるとリオンを視界の端に収めながら口を開く。
「シスター・ゾフィーの手帳と思われるものです」
「!?」
ウーヴェの声や表情に特段緊張したような色はまったく無かった為に何を言っているのか誰も理解できていないようだったが、もう一度落ち着いた声でシスター・ゾフィーが手帳を自分宛に送ってきたと再度告げるとヒンケルの顔に緊張が走り、その緊張があっという間に室内にいた全員に伝播していく。
リオンが視界の端で驚くのはもっともだったが、反対側にいる初対面の男――ロスラーの顔色がもっとも悪くなり、忌々しい出来事が起こった時のような顔で舌打ちをしてウーヴェから視線を逸らし、そんなロスラーの様子を反対側の壁に凭れかかっていたジルベルトが無表情に見つめていた。
「何故これを私に送ってきたのかは分かりません」
彼女の中でどんな葛藤があったのかは不明だが、とにかく送られてきた手帳を持参し、マスコミへの対応と教会本部からの問い合わせに大わらわになっている教会に立ち寄ってマザー・カタリーナに確かめて貰ったと告げ、シスター・ゾフィーの手帳であること、また彼女の筆跡などが分かるものもお借りしてきたので鑑定してくれと告げて封筒をヒンケルの前に置く。
「手帳の内容ですが、カレンダーには数字、その日のページにはイニシャルらしきものが記入されています」
後もっとも重要だと思われるものが後ろのページに纏められているとウーヴェが告げると、ヒンケルが白い手袋を嵌めながら封筒から取りだした手帳を捲っていく。
「……電話番号?」
「携帯と固定電話らしきものもある」
中にはドイツ国外らしき番号もあったと伝えて頷いたウーヴェが立ち寄った教会で069の市外局番について詳しい人がいたので確かめて貰ったとそのナンバーを指し示すと、コニーが会議室のドアから上半身を廊下に出して近くにいた職員に鑑識のフランツを呼べと珍しく声を張り上げ、ヒンケルがリオンを手招きして内容を確かめろと命令をするが、俄に慌ただしくなった部屋の隅で携帯に向かって深刻な顔で小声で話すジルベルトに誰も意識を向ける者はいなかった。
ヒンケルから受け取った手帳をテーブルに置いて同じく手袋を着けたリオンは、ウーヴェが差し出したノートを手帳の横に並べて開き、微かに震える指先で手帳とノートの文字が同一の特徴を数多く持つもの――つまりは同一人物が書いたことを示す――であることを確かめ、重苦しい溜息と同時に無言で頷く。
「……ゾフィーのもの……であっていると思います……」
「そうか。……ドク、ここに書かれている番号に電話を掛けたと言ったな?」
「ええ。フランクフルトから越してきた人がいたので彼に協力して貰いました」
それが誰を示すのかはリオンにとっては明白で、この時ばかりは恋人に対する申し訳なさなどを押し殺してカインが電話を掛けたのはどれだとウーヴェに問い、ウーヴェも当然の顔で頷いてチェックマークが付いている番号を指し示す。
「電話を掛けた後に彼がチェックマークを付けたが、繋がったのはFKKの関係者だった」
電話に出たのは最近台頭してきたらしいFKKの関係者だったとひっそりと告げると、リオンの手が拳の形になってテーブルに叩き付けられる。
「リオン」
「…………」
ヒンケルの声にリオンが肩を揺らして深呼吸をし、無言で頭を下げた姿をウーヴェが痛ましそうに見つめるが、その視線を振り払うように頭を上げるとヒンケルが素っ気ない顔で頷く。
「FKKの関係者に繋がったと言うことは、この手帳は……」
「彼女が組織に繋がるものを残してくれた、その可能性が高いな」
今行方が掴めなくなっているゾフィーが密かに書き残しておいてくれた事実にヒンケルが腕を組み、今回の姉妹を殺害した犯人に直接結びつくかどうかは不明だが、ブライデマンが追いかけている人身売買組織の摘発への手がかりになるかも知れないと溜息を吐いたヒンケルは、慌ただしく入って来たフランツに手帳と一緒にウーヴェが持って来たノートを差し出すものの、どちらもざっと目を通しただけでフランツが同一人物が書いたものだと断定する。
「詳しく調べるまでもないほど特徴がありますよ、警部」
その具体例を手帳とノートの双方で指し示されて一斉に覗き込むと確かに同じ特徴を有する文字や数字がいくつも見つかり、望むのならば詳しい鑑定をするがと肩を竦めてヒンケルの判断を仰いだ時、壁際の内線電話が緊張を打ち破るように鳴り響き、傍にいたコニーが受話器を取り上げて話を聞くものの、徐々に表情が険しいものになっていく。
「警部、彼女が不定期に通っていた教会なんですが、情報をくれた親子が今朝教会に行ったら中が荒れていて床に血痕らしきものがあったそうです」
「!?」
電話の相手が以前教会について調べた際に対応してくれた親子であること、ゴシップ紙の記事を見たマスコミが押しかけて来て小さな村は大変だったこと、そんな騒ぎの中でクリスが一人で教会に出向き、その中でロザリオについていただろうメダイや十字架が床に散らばっているのを発見したことなどを聞かされたコニーが口早に伝え、その十字架の裏にはゾフィーと名前が彫られていたことを伝えた瞬間、リオンが会議室を飛び出そうとする。
リオンの行動を先読みしたヒンケルが文字通り襟首を掴んで動きを封じ、コニーがとにかく誰かに今すぐそちらに向かわせるから中に入らないでくれと電話口で指示をする横ではウーヴェが席を外した方が良さそうだと室内を見回し、リオンよりも小さな身体で引き留めているヒンケルにひとつ頷いて後を頼むと伝えて俄に慌ただしくなった会議室を後にするが、深刻だが何やら諦めたような顔のジルベルトの前を通った時に小さな呟きを聞いた気がし、ちらりとその顔を見るが特に何の言葉もそれ以上は聞こえなかった為それ以上気にすることなく会議室を出ていくのだった。
リオンの首根っこを文字通り抑え込みながらフランツを連れてコニーに教会へ行けと命じたヒンケルは、彼女を発見した際の対応についてブライデマンと話をする必要がある為後で部屋に来てくれと告げると、漸く大人しくなったリオンを見つめながら口を開く。
「…………リオン、……」
「分かってます、ボス。だから離して下さい」
クリスが見たものがロザリオの残骸ならば間違いなくゾフィーがそこにいたのだろう、そして今は別の場所にいるはずだと肩を竦めて天井を振り仰ぐリオンにヒンケルも頷き、みんなを信じているので任せますと答えられて溜息を吐く。
「確かにそうだな」
「Ja.――俺は今俺が取り掛かっている仕事に戻ります」
だから後の事は頼んだと頭を下げたリオンは、ロスラーやブライデマンには何も言わなかったが、大切な何かを言い出そうとしているようなジルベルトの肩に手を置くと、黙ったまま会議室を出て行く。
一見すれば静かだが、実はかなり憔悴しているリオンの様子を痛ましさと意味が分からない愉悦のようなものを浮かべた目で見送るジルベルトをロスラーが軽く驚いたように見つめ、その視線に気付いた彼が底冷えのする目で睨み返すが、目を伏せ今度は天井を見上げた後に自嘲にも似た笑みを浮かべる。
「そろそろ潮時かもなぁ。……なあ、ルーク」
その呟きはジルベルトの口の中でのみ発せられた為に誰の耳にも届かなかったが、何かを吹っ切ったように表情を切り替えてヒンケルを呼んだジルベルトは、家宅捜索に出向いている時にフィレンツェから電話が入り、祖父が亡くなった事、その件で俺のサインがなければ葬式すらできないと教えられたことを伝えると、ヒンケルが一瞬難しそうに考え込むものの、その件については部長や署長にも話をしてある、今まではっきりと回答出来ずにいて苛々させただろうと返され、気にしていない事を伝えるように首を左右に振る。
「こんな大変な時に本当にすみません。刑事失格ですね」
「仕方がない。ただ可能なら一日でも早く戻ってきてくれ」
そして、いつもお前と下らない言い合いをしているあいつのフォローをしてくれと、心底申し訳なさそうな顔のジルベルトの肩を叩いたヒンケルは、なるべく早く戻りますと頷かれて信頼の証に頷く。
「…………面倒を見てくれたじいさんなので盛大に見送ってきます。……すべてにケリがつけば連絡します」
「ああ、そうしてくれ」
今更だがお祖父さんの事はご愁傷様だったなと伝えたヒンケルは、頭の中を事件へと切り替えたのか、何故か顔色が悪くなったロスラーと対照的に興奮しているようなブライデマンに合図を送って会議室を出て行く。
無人になった会議室に一人残ったジルベルトは、ゾフィーの手帳とノートの中身をじっくりと調べるが、特に何らかの感情も口に出すことはなかった。
そして静かに部屋を出る寸前に肩越しに振り返って何事かを呟くと、今度はリオンが一人静かに書類と向き合っている刑事部屋をじっと見つめる。
今一人で事務仕事をしているリオンとは刑事として同僚になって以来、それはそれは毎日面白おかしく過ごしていた。
同じ事件を追いかけて悪戦苦闘したり、意見が食い違って殴り合い一歩手前にまでなったこともあったが、事件が解決すればそれらすべてを忘れた様に二人で飲みに出かけたりもした。
それらすべてがジルベルトの中では決して忘れえない思い出として焼き付いていて、リオンの寂しそうな背中に愛おしそうに目を細めてキスを送った後、何もかもを諦めるように拳を握りしめ、ゆっくりと階段を下っていくのだった。