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一人静かにまるで己の存在を消し去るようにジルベルトが署を後にすると、リオンの周りで聞こえるのは他の部屋の刑事や職員の談笑、苛立ち、そして建物の外からは常にどこかで鳴り響いているサイレンの音だけだった。
そのサイレンを聞きながら今頃あの教会に出動したコニーやヴェルナー達はゾフィーがいた証拠を手に入れているだろうかと思案し、ボールペンを無意味に上下に振ってみる。
だがボールペンを振ろうが回転させようが、今回の事件に自分が関われない事実を変えることは出来なかった。
ゾフィーと連絡がつかなかった理由がコニーの危惧した通り組織による身柄の拘束の可能性は高かったし、彼女のものらしき十字架も教会で発見されたことから、すでにゾフィーは他の場所に移動させられているだろうが、その場所が何処なんだと舌打ちしつつラップトップで無駄に地図などを探してみるが、広いこの街に紛れ込んだたった一人の人間を捜す困難さを実感するだけだった。
本当に何処に行ったんだと溜息を吐いたリオンは、ふと誰かの視線を感じて顔を上げて室内を見回してヒンケルが部屋にいることを確かめるが、上司は何やら気難しい顔で書類を睨んでいるため、彼の視線ではないことに気付く。
誰が自分を見ているんだと苛立たし気に吐き捨てた瞬間、部屋の入口付近に人の気配を感じて身体ごと振り返ってその姿勢のまま動きを止める。
「…………オーヴェ……」
「仕事中だが、今少し良いか?」
ぎこちない受け答えをするリオンに対しウーヴェの表情は穏やかさの上に心配と信頼を混ぜ合わせたもので、先程会議室にやってきた時のものとは全く違っていることにリオンが無意識に安堵の溜息を零す。
「……ボスに声掛けてくる」
「ああ」
入口横の壁に寄り掛かり、ヒンケルの部屋に入っていくリオンの背中を見ていたウーヴェは、ドアが開いて二人が一緒に出てきたことに苦笑し、先程の手帳のことでヒンケルが礼を言うが、ウーヴェはそれについてはただ頷くだけで何も言わなかった。
「リオンを少しお借りします」
「ああ」
ヒンケルの了承を得て二人が向かったのは先程の会議室で、ウーヴェが先に入るとリオンがドアを閉めていつもならば考えられない間を取って二人が壁に背中を預ける。
「そー言えばさっき話があるって言ってたよな。どうしたんだ?」
「マザー・カタリーナから伝言だ」
先程立ち寄った際、今自分がリオンに電話をすることは火のないところに煙を立ててしまうような行為になるだろう、だからあなたに頼むと壁から背中を離してリオンの前に立ったウーヴェは、どんな言葉が流れ出すのかを待っているリオンの襟元を正し、シャツの皺を掌で軽く叩いて整えた後、驚きに目を丸くする恋人の額に額を重ねて目を閉じる。
「――あなたはあなたのすべきことをなさい」
たとえゾフィーが罪を犯していたとしても辛い現実が待っているとしてもあなたはあなたのなすべきことをしなさいと、マザー・カタリーナの優しく温かな言葉の足下にも及ばないが、それでもウーヴェにだけ出せる思いから囁くと、呆然としているようなリオンの腕がのろのろと上がってウーヴェの背中に辿り着くと徐々に力が籠もっていく。
「……オーヴェ……っ!」
恋人の姉が犯罪者である己と一緒にいればいつかのようにマスコミに追い回される可能性もあり、世間の一過性とはいえ好奇の目は絶対にウーヴェにも向けられるだろう。そうなればウーヴェのクリニックにまで人が押しかけるかも知れず、またそうなれば心の病を持つ患者にどのような影響が出るかも分からなかった。
それを怖れたリオンがしばらくは会わないようにしようと決めたのに、マザー・カタリーナの言葉と彼自身の思いが伝わり、抑えようとしていた思いが溢れ出す。
「……ちゃんと、食事をしているのか?」
リオンの身体が一回り小さくなったような錯覚を覚えてその腕の中で身体を震わせたウーヴェは、震える身体を逆に抱きしめながら囁くと、照れたような笑い声の後にボスがチョコをくれたと答えられ、少しだけ胸を撫で下ろしながら今度は鼻の頭を軽く触れあわせる。
「忙しいだろうし、そうしていたいのも分かるが、ちゃんと食べるんだぞ?」
「……うん」
「今回の事件が終わるまで帰って来られないのか?」
もう何日帰っていないと思うんだと問われ、即答できなかったリオンにウーヴェが眼鏡の下で目を光らせる。
「リーオ」
仕事で忙しいから帰れないのならば我慢できるが、それ以外のつまらない理由でならば許さないぞと目を光らせると、その眼光の強さにリオンが息を飲んで目を伏せる。
「……終われば……帰る」
だからそれまではお前の立派なあの家に帰るのは無理だと自嘲するリオンが哀しくて、唇を噛み締めたウーヴェが小さく吐息を零した後、頬を両手で挟んで視線を無理矢理ぶつけさせる。
「――終われば帰って来い」
お前と一緒に他愛もない話で一日を終えて次の始まりを迎える、つい先日まではごく当たり前に思っていたその為をまた二人一緒にする為、今度の事件が終われば必ず帰って来いと告げるとリオンがウーヴェの肩に額を押し当てて微かに身体を震わせる。
「良いな?」
リオンの口からは返事が無く、珍しく苛立ちを隠さない口調でウーヴェが念を押すように名を呼んで暫くすると、ようやく重い口を開いたリオンが掠れた声で返事をする。
「…………ああ」
「約束したぞ、リオン」
俺は約束を破られるのが大嫌いだからとリオンのくすんだ金髪に手を差し入れて抱き寄せたウーヴェが強い声で囁くと、背中がひとつ震えて頭が上下したように小さく揺れる。
この時ウーヴェが伝えるべきかどうか悩んだ言葉があったのだが、リオンが口を閉ざしたまま感情に震わせる背中を抱きしめていると伝えることが出来ず、どうかこれ以上リオンの心が傷を負いませんように、そしてゾフィーが無事に姿を現すことを強く願いつつリオンが顔を上げるまで背中を抱きしめているのだった。
久しぶりにウーヴェと話をし、互いの背中を抱きしめたら少し気分が晴れたのか、リオンが照れている証にそっぽを向きながらウーヴェに礼を言う。
「……ダンケ、オーヴェ」
「ああ。……リオン」
「ん?」
ウーヴェの呼びかけに顔だけを振り向けたリオンだが、恋人の手がテーブルに並べられたままの手帳の傍にあることに気付き、身体ごと振り返って尻ポケットに両手を突っ込む。
「この手帳は彼女がお前を守って欲しい一心で俺に送ってきたんだと思う」
「…………」
お前が今悩んでいるように、きっと世間や他の警察官達もお前を見る目が変わるだろう、それを怖れていたんじゃないのかとウーヴェが伏し目がちに囁くと、リオンも俯き加減に溜息を吐く。
「話をした時、彼女が泣いたと言っていただろう?」
「ああ……うん、そうだな……」
ゾフィーと児童福祉施設のキッチンで向かい合って話をしたあの夜がほんの数日前の筈なのにもう何ヶ月も前のように思え、そう言えばそんなことを言っていたと苦笑するとウーヴェが静かに目を閉じてテーブルに手をついて片手を胸に宛がう。
「……この手帳を必ず役立ててくれ。そう警部に伝えてくれないか」
「分かった」
人身売買組織の一員だった彼女が書き残した貴重なものだろうから必ず組織摘発の為に役立ててくれとウーヴェが頼み、この時ばかりはリオンも真剣な顔で頷くが、その時、ヒンケルが茶封筒を片手に会議室にやってきたかと思うとお前宛だと告げて封筒を放り投げる。
「何ですか、これ?」
「リオンという刑事に渡してくれと言って子どもが持って来た」
誰かに頼まれたそうだがダニエラがいま子どもから事情を聞き出していること、危険物ではないことは確かめたと告げてリオンに開封するように促すと、ヒンケルの言葉通りに封筒が開けられ、テーブルの上で封筒を逆さにして内容物を落下させる。
「何のディスクだ?」
テーブルの上に小さな音を立てて落下したのは、購入した店を探すのすら難しいような特徴のない無地のディスクだった。
ケースにすら入っていないそれを矯めつ眇めつしつつ会議室のデッキに無造作に突っ込んでスイッチを押したヒンケルは、テレビから流れ出した音にまず疑問を抱き、画面を見ると同時にテレビの電源ボタンを押して画面をフェードアウトさせる。
その動作は短いものだったが確実に何秒間かは音声と映像が流れ、それを目の当たりにしたリオンが不気味な静けさでヒンケルにスイッチを入れてくれと告げるが、目の前にいる部下が信じられないと言いたげにヒンケルが駄目だと言い放つ。
「ボス、俺宛に届いたものなんです。俺が見なきゃいけないでしょうが」
「駄目なものは駄目だ。良いな、リオン。お前はこれを見るな!」
どうしても見たいというのであればコニー達が教会から戻ってきてから皆で一緒に見るんだとリオンを説得しようとするヒンケルだが、コニーらはともかく、ロスラーやブライデマンらにゾフィーがレイプされている動画なんて見せたくないと拳を握ったリオンの言葉にヒンケルが口を閉ざす。
二人の態度から再び自分がここにいてはいけないと気付いたウーヴェが先程のように会議室を後にしようとするが、その腕をリオンが強い力で掴んで引き留める。
「オーヴェにいて貰います」
そうすることでボスが怖れている事態は起こらないでしょう、そう告げてウーヴェをじっと見つめたリオンは、これから限りなく不愉快なものを見せることになるが構わないかと問いかけると、ウーヴェの目が左右に泳いで己がこの場所にいる違和感を伝えようとするが、ヒンケルが仕方に助けを求める顔で見つめられてしまうと部屋を出て行くことが出来なくなってしまう。
立ったまま見るのは無理だとリオンがウーヴェに着席を促し、大人しく従ったウーヴェのこめかみにキスをした後、会議室のドアに鍵を掛けて誰も入って来られないようにすると、自らもウーヴェの横の椅子を引いていつものように後ろ向きに腰掛ける。
「……お願いします、ボス」
「…………」
デッキを再び操作し、テレビのスイッチを入れたヒンケルは、顔色を僅かに悪くしただけで表情を変えないリオンの心が分からずに溜息を吐く。
「付き合わせて悪ぃ、オーヴェ。……ワガママだけどさ……」
出来れば見ないでやってくれないか。
本当ならばウーヴェにこんな動画を見せるのは絶対に避けたいことだったが、お前にいて貰わないとボスが見せてくれないから仕方がないと肩を竦め、さっき自分で言ったようにあいつがレイプされている姿を見ないでやってくれと告げるとウーヴェがひとつ頭を振って席を立つ。
「オーヴェ?」
「俺も……お前は見ない方が良いと思う」
「ダンケ、オーヴェ。でも……これが俺の仕事だ」
たとえ姉がどのような目に遭っている動画であっても見なければならないんだと握った拳にすべての思いを詰め込んだリオンが肩を竦めると、ヒンケルも確かにお前には見せられないと再度翻意を促すものの、自分宛に送られたものだから自分が見なければならないと静かに言い放ったリオンにウーヴェがヒンケルの前ではあるが、その頭を抱き寄せて口付ける。
「……分かった。なら俺は部屋の外で待っている」
「…………」
「警部、ドアの前で待っています――リオンは大丈夫です」
あなたが密かに不安に陥るようなことは無い筈だから彼を信じてやってくれとリオンの為に告げたウーヴェは、会議室のドアの真正面で待っていることを告げて部屋を出て行き、その背中に二人がほぼ同時に溜息を吐くと、リオンがヒンケルの手からデッキのリモコンをそっと取り上げてボタンを操作する。
解像度の低いカメラか携帯の録画機能を使ったのか、大きなテレビに映し出されたのはピントがはっきりとしない粗い動画だった。
画像が粗くて音声もあまり明瞭なものではないのがせめてもの救いだったが、テレビには誰も救われることがない光景が映し出され、時折聞こえる雷鳴と稲光に刺激されたように画面が上下に揺れたりしていた。
不明瞭ながらも聞こえるのは女性の悲鳴とその女性を殴る音や嘲笑する声に重なる男達を煽っているような楽しそうな声で、リオンが煙草を取りだして火をつけたものを咥えると、ヒンケルが煙草を寄越せと手を差し出してくる。
「一本につき一ユーロでどうですか、ボス」
「ばか者。それにそもそも建物内は禁煙だ」
いつも廊下で吸っているが本来建物内は禁煙なのだ、煙草を吸いたければ外に行けと部下を微かに震える声で怒鳴りながらも同じようにリオンから煙草を受け取って火をつけたヒンケルだったが、彼が何気なく見たリオンの手は小刻みに震えながら握りしめられていた。
他愛もない話をしていないと理性が抑えられない、理性を失えば自分は刑事という仕事をも失うことに繋がる、それを一見するだけでは分からないほどの冷静さで理解しているリオンが感情を表す術として拳を握っていることを見抜いたヒンケルが事務的な口調で問いを発する。
「……この二人の男に見覚えはないか?」
「ありませんね……ボスはどうですか?」
彼女の顔を殴り服を剥いで白い肌を露わにさせている男達に見覚えはないかと問いかけて逆に問い返されて首を振り、あの教会で間違いがないこと、恐らくこのシーツをクリスとその母親が発見したのだろうとリオンが呟くと、ヒンケルの瞳に思案の色が浮かぶ。
「彼女の知人や友人でもないんだな?」
「この二人みたいな筋肉バカはゾフィーは嫌いでしたし。それに、あいつの友人に友人をレイプするような奴がいるとは思えません」
だから教会関係者ではないことを伝え、小さいとはいえ礼拝堂でレイプをするような教会関係者はいないだろうと苦笑するリオンに同意をし、ならば組織に関係のある者かと顎に手を宛がったヒンケルだが、リオンが何気なく放った言葉に目を瞠って動きを止めてしまう。
「ボス、これ、画面が時々揺れてますよね」
「あ、ああ、そうだな」
「手で持ったまま録画してたってことですか?」
「そ、う、だな……」
「さっきの楽しそうな声、そいつが録画していたってことですか」
ゾフィーがレイプされている所を録画しているヤツがいると気付いて顔を見合わせると、ゾフィーのくぐもった悲鳴と男達の下卑た笑い声以外に聞こえてくる声が無いかに耳を澄ませ、その中にイイ声だなだの息を長く吐き出すような音が微かに聞こえ、程なくして小さな金属音が床の軋む音の合間に聞こえてリオンが呆然と呟く。
「ライターの音……?」
「煙草を吸いながら録画していたというのか?」
「その可能性もあるんじゃないですか、ボス」
この録画している人物はそれ以外にすることがないのだから、喫煙者なら煙草を吸うだろうと腕を組むリオンにヒンケルも頷いて同意をするが、その時、画面が大きく上下したかと思うと、突如音割れを起こしそうなほど大きな声がテレビから流れ出してくる。
その声に二人が飛び上がりそうになり、思わず声を小さくすると同時に画面が真っ暗になって動画が終了したことに気付く。
「最後の声は録画していたヤツのものですよね?」
「その可能性は高いだろうな」
声がする前に画面が揺れた事、聞こえてきた声は今までの不明瞭なものからはっきりとしたものであることを思えば、マイクに近い場所で誰かが怒鳴り声を放ったと考えるのが自然だろう。
途切れた動画の後にどんな事態が起こったのかは不明だが、録画されているものもこれで終わりだろうかとフェードアウトした画面を穴が開くほど見つめていると、今度は背景が一変した動画が流れ出す。
「教会から場所を移動したみたいですね」
「そうだな……」
今度は手ブレのような画面の揺れはなく、映し出されるものも一定の高さを保っている為に三脚か何かを利用して録画していることを教えてくれていたが、先のものに比べれば遙かに画質も音質も良くなっていて、ゾフィーの表情も時折大きく映し出されていた。
「――!」
「……良い趣味してんなぁ、こいつら」
煙草を灰皿に押しつけて新たな一本に火を付けたリオンの心の裡をまったく想像させない暢気な声が煙とともに舞い上がり、ヒンケルの心に沈んでいく。
さっきは不明瞭だったために何とか耐えられたが、明るい室内で女性が何度も殴られ陵辱される場面など正視できるものではなかった。
直視する為にはテレビに映し出されているのが知人女性ではなく、刑事として事件を追っている被害者だと思い込まなければならなくて、そんなヒンケルの横ではリオンが安っぽいアダルトビデオを見ているようだと呟き、さすがにその言葉に己の部下の精神構造を疑いたくなり睨み付けてしまう。
ここにウーヴェがいれば今のリオンの発言が心と真逆のものであることを察するが、さすがにヒンケルはそこまで見抜けず、また動揺している今本心を見抜けずについリオンを非難しようとするが、テーブルの上に無造作に置かれている拳の下に赤い滴をいくつか発見して目を瞠る。
感情を爆発させれば身の破滅を招くことをリオンは良く知っているが、抑えきれない思いをこうして掌に閉じこめているのだと改めて気付くとこの軽口もいわばガス抜きであることを察して煙草を揉み消し、もう一本パッケージから取り出して火をつけると一ユーロと呟かれて拳をくすんだ金髪に落とす。
「ぃて」
「うるさい、ばか者」
こうして可能な限り平静さを保つ為にいつもの軽口を叩きながらも画面の中の非道な行為を一切合切を見逃さないとテレビから視線を外さなかったリオンは、画面の奥のベッドに横たわっていたゾフィーがカメラに向かって何かを投げつけたシーンで一時停止をし、コマ送りで巻き戻す。
「何を投げた?」
「……煙草の箱、ですか?」
カメラを掠めるように飛んでいった物体が煙草の箱のように見えた為、ゾフィーのノートの最後を破いて素早く書き込みをする。
「リオン、再生をしろ」
「Ja.」
再生を続けていくと画面が左右に揺れて今まで横たわっていたゾフィーが画面の中で縦に映し出されたことからカメラが倒れたことを伝え、九十度傾いた場面が長く続くが誰かの足音らしきものとコードバンと呼ばれる高級な革を使った特徴的な靴が画面一杯に写りこんだ直後に場面が切り替わったことから動画が編集されていることに気付く。
そして動画は唐突に終了し、結局二つの動画から得られたのは、ゾフィーが手酷い暴行を受けて負傷をしている事、彼女をレイプした男二人の容貌と、最後に映し出された革靴の情報だけだった。
「……要求があるわけでもなし。何のための動画だ?」
重苦しい溜息を吐いたヒンケルの言葉にリオンがさり気なく握りしめていた拳を隠すように腕を組んで椅子を軋ませ、俺を怒らせるためでしょうと呟き、もしそれが狙いならば半分は成功していると冷笑する。
「どういうことだ?」
「んー、やー、そりゃあこれを送りつけてきたヤツの思惑通り、俺は怒ってます」
自分の姉をレイプする動画を見せられて怒らないヤツがいるのならば見てみたいと肩を竦め、行儀悪くテーブルに両足を載せて組んだリオンが椅子が背後に倒れそうになるギリギリまで倒しては身体を戻す。
「でも……俺が怒ったことで何らかのアクションがあると思っているのだとすれば、それは失敗だなぁって」
アクションを起こすとしてもこの会議室の中だけだと口調も表情もまったく変えること無く呟いた直後、二人の正面にある壁に何かがぶつかって床に転がる。
重い音を立てて床に転がったものへと目を向けたヒンケルがその正体に気付き、今まで自分が目の当たりにしたことのない怒りの発現をさせる部下に背筋に嫌な汗が流れ落ちた事に気付く。
自分が投げつけたジッポーを拾うために立ち上がったリオンは、その足で背後の壁を一度蹴り付けた後、気怠そうに歩いてジッポーを拾って何かを閃いたように顔を上げる。
「ボス、この動画からあの筋肉バカの顔写真だけ取り出せないですかね?」
「ああ、フランツに頼めばやってくれるだろう」
それがどうしたと問いながらデッキからディスクを取りだしたヒンケルは、その写真をロスラーとブライデマンにも確認させればどうだろうと返されて先程の言葉を思い出す。
確かにフランクフルトから来たロスラーやBKAのブライデマンに対してリオンは良い印象を持っておらず、この動画を見せる気持ちにはならないだろう。
額に手を宛てて鑑識にこの動画を見せることになると告げると、一瞬リオンが戸惑う思いを口にするべきか悩んでいる様に口を開閉させるが、赤い滴が付着する掌をじっと見つめて静かに頷く。
「ボスに任せます」
「ああ……コニー達が教会から手がかりを持って帰ってくるだろう」
彼らが戻ってから明日の朝一番にこのディスクについての検証とコニーらが持ち帰ったものを調べる事にしようと溜息を吐き、リオンも同意を示すように頷いて己の掌へと目を向けて苦笑する。
短く切っている筈の爪が掌の皮膚に突き刺さっていたようで、掌の窪みに血が溜まり、その下に三日月型の傷跡が見え隠れしていた。
「……リオン、傷の手当てをしてこい」
「えー、こんなの舐めてりゃ治りますって」
病院は嫌いだが救護室や救急箱も嫌いだと笑って舌を出したリオンを睨み付けたヒンケルだが、会議室の外でウーヴェが待っていることを思い出してにやりと笑う。
「外にドクがいるだろう。手当てをして貰え」
「……帰ってくれねぇかな、オーヴェ」
本音と照れ隠しの言葉を嘯くリオンに肩を竦めて一足先に会議室を出たヒンケルは、真正面で腕を組んで壁に寄り掛かっているウーヴェにも肩を竦め、中にいるリオンを頼むと伝えて自らは部屋に戻っていく。
その後すぐにリオンが姿を見せるが、心配と信頼を上手に纏めて信じている思いを瞳に浮かべたウーヴェが姿勢を正して一歩を踏み出す。
「もう終わったか?」
「あー……うん」
終わったと呟きながら鼻の頭を掻いたリオンの掌から手首にかけて赤い小さな流れが生まれ、目敏く気付いたウーヴェが目を瞠ってリオンに問いかけながら掌を見ると、救急箱は無いのかと医者の貌になって呟く。
「あー、うん、多分部屋にあると思うけど……」
こんなの舐めてりゃ治るとヒンケルに告げた事を同じ口調でありながら全く違う表情で告げると、ウーヴェがリオンを会議室に押し戻して待っていろと命令する。
「大丈夫だって、オーヴェ」
「良いから待っていろ。良いな、リオン」
さすがに負傷者を前にしては放っておけないのか医者の貌で厳しく告げたウーヴェにリオンが渋々頷いてテーブルに腰を下ろし、足をぶらぶらさせながらウーヴェの帰りを待つが、退屈を極めそうになる直前、ウーヴェが救急箱を持って急ぎ足で入って来たかと思うと、リオンのすぐ傍の椅子に腰を下ろして手際よく救急箱の中から必要なものを取りだしていく。
その作業をぼんやりと見つめていたリオンの脳裏に、受けた暴行の酷さを想像させる痣を体中に浮かべ、気が強いがそれなりに整っていた顔も見る影がないほど腫れ上がり、長かった髪も無造作に切り捨てられていたゾフィーの姿が浮かび、ウーヴェの手当てを受けながらも拳を握りしめてしまう。
「リオン、手を開け」
「へ?開いてねぇか?」
自分のことなのに理解出来ていないらしい驚いたような声に顔を見上げたウーヴェは見下ろしてくる表情が己の想像外だったことに驚いて一瞬手を止めるが、握りしめられた赤い拳をそっと撫でて凝り固まっているような指を一本ずつゆっくりと開いて行くとリオンがぽつりぽつりと語り出す。
「……ゾフィーさぁ、長い髪がトレードマークだったんだよな」
「そうだったな」
「俺が好きだって言ってたからだって……」
「……そうだったのか」
リオンの呟きに感情が籠もっていないことが怖かったが、今は目に見える傷の手当てを済ませるべきだとウーヴェが手早く傷を消毒し、日常生活では不便だが我慢しろと告げて救急箱を閉じるが、蓋が閉じられると同時にリオンが包帯を巻いた手を再度握りしめる。
「リオン、止めろ。手が痛いだろう?」
蒼い瞳が底なしの闇に通じているように暗く光り、こんなのは痛くも何ともねぇと笑うと背筋に冷たい汗が流れ落ちるが、何度かこんな目をするリオンを見てきたウーヴェは、そっと溜息を吐いて握られている手を取り再びゆっくりと指を開かせ、そのままにしておくとまた拳を作って包帯の下で血を流させることになると気付いてリオンを正面から見つめながら掌を重ねる。
「痛くねぇんだ、オーヴェ」
「……そうか」
「ああ。痛くねぇ。……ゾフィーが、あいつが受けたのに比べたら全然痛くなんか……!」
それが、リオンの中で感情と理性の鬩ぎ合いが終了を迎えた合図だった。
ウーヴェの傍にあった救急箱がリオンの手で振り払われて壁にぶつかった後床に中身を撒き散らすと、振り払った手をテーブルに叩き付けて悔しそうに歯軋りをする。
「シャイセ……!」
一体誰がゾフィーを、俺の大切な家族をあんな目に遭わせたんだと怒鳴り、ウーヴェの手を振り払って包帯を巻いた手で壁を殴りつけたリオンだったが、そんな恋人の突然の暴発でさえもウーヴェにとっては想定されたもので、感情のあまり犯人に対する憎悪の言葉と自身に対する不甲斐なさへの罵倒を続けて壁を殴り続ける姿をただじっと見つめるだけだった。
何度も殴っている内に壁のモルタルに微かな亀裂が入り、さすがにそれに気付いたウーヴェが止める為に口を開こうとするが、その時ドアが開いてヒンケルが顔を覗かせようとする。
「何を騒いで……」
「警部、申し訳ないがリオンと二人にして下さい」
ここが警察でリオンは勤務中であり自分は部外者であることを重々承知しているが、彼を守る為に必要なのだとヒンケルに背中を向けたまま告げたウーヴェは、己の言葉が多少の驚きを持って受け入れられた事に感謝の言葉を告げると、今度は打って変わった口調でリオンを呼ぶ。
「リオン、ゾフィーは、彼女はひどい目に遭わされていたんだな?」
「あぁ!?」
咄嗟に相手が誰だか分かっていない、そんな貌でウーヴェを睨み付けたリオンに怖じ気つく事無く近づき、包帯の外側にまで赤い流れを作り出した拳を両手で包んで胸元に引き寄せる。
「――早く彼女が、お前の姉が見つかることを祈っている」
もちろん、お前達警察の力も分かっている、信じているから早くゾフィーが見つかりますようにと祈り、意味を成さなくなった包帯を解き、床に散らばる消毒薬とガーゼを拾い上げて慣れた手付きで今度は掌だけではなく手全体を消毒していく。
消毒薬が傷に染みたのか顔しかめて腕を引こうとするのをやんわりと制して再度手当てを終えたウーヴェは、先程よりは幅広く包帯に覆われた手の甲にキスをし、激情に上気する顔を一つ撫でてくすんだ金髪を胸に抱き寄せる。
「良く堪えた」
姉が罪を犯した結果暴行を受けたのだとしても、感情を爆発させることなくお前はそれを見届けた強い人だと囁き、お前は本当に強くて優しく、シスター・ゾフィーの自慢の弟だとも告げるとリオンの身体がウーヴェの腕の中で一つ震える。
「……オーヴェ……っ……!」
「事件はまだ解決していない。シスター・ゾフィーも見つかっていない。だからもう良い、もう十分だとは言わない」
だから彼女が発見され事件が解決するまで頑張れとリオンの心が自然と前を向ける強さと優しい声で励ますと、しがみつくように包帯を巻いた手がウーヴェの背中に回される。
「良いな、リーオ。――顔を上げろ、前を見ろ。お前が……お前と一緒にお前の姉が歩んできた道を蔑むな」
誤った道へと足を踏み入れてしまった彼女に気付かなかった、正せなかった自分を恥じて俯くなと、不思議と心に入り込む声にリオンがウーヴェにしがみついたまま頷き、その背中にウーヴェが安堵の溜息を零す。
そして俯く背中を愛おしそうに撫でて早くこんな辛い事件など終わりを迎えればいいと本心から告げて髪にキスをしたウーヴェは、リオンがゆっくりと顔を上げたことに安堵の表情を浮かべ、その頬を両手で挟んで額と額を触れあわせる。
触れた箇所から互いの温もりが伝わり心の中にまでそれが伝わると、顔を上げて一歩を踏み出す勇気に生まれ変わる。そう信じて目を閉じると、小さな安堵の吐息が二人の間にぽつりと落ちる。
「……ダンケ、オーヴェ」
「ああ。もうこれ以上自分を傷付けるような事はするな」
「……ああ」
いくら哀しくても腹立たしくても自らを傷付けても何一つとして良い事はない、いざというときにその傷が原因で役に立てなくなる可能性もあることを告げ、互いの瞳に互いの顔を映すと、ウーヴェがリオンの鼻の頭、触れあわせていた額、こめかみや頬にキスをし、最後に薄く開く唇にそっと唇を重ねる。
「マザー・カタリーナが仰有っていたように、お前はお前のなすべきことをするんだ」
お前ならば出来ると確信を持って囁き返事をキスで貰ったウーヴェは、瞳だけではなく顔を視界に納められる距離まで離れると、リオンの瞳に浮かんでいた狂気が姿を消して力強くてきらきらと光る蒼い瞳に戻っていることに目を細める。
「行って来い、リーオ」
「ダンケ、ウーヴェ。行って来る」
お前が信じてくれるお陰で俺は前を向ける、歩き出せると頷くリオンに頷き返したウーヴェは、救急箱の中身を元に戻してテーブルに置き、ドアを開けてヒンケルを手招きする。
「警部、壁にひびが入ってしまいました」
「何だと!?」
途中激しい物音が聞こえたがそれはリオンが壁を殴っている音だったのかと目を瞠りながら怒鳴るヒンケルにウーヴェが苦笑で答えている後ろ、リオンがそっと忍び足で通り過ぎていく。
「何処に行く、リオン!」
「ひー! 書類仕事が残ってるんですっ!」
それを終わらせる為に部屋に戻るだけですと口早に叫んだリオンは、警察とは何の関係もないウーヴェに後を頼むと言い残してヒンケルの魔の手から逃れるために脱兎のごとく部屋を飛び出していく。
「まったくあいつは……!」
「じゃあ警部、私はそろそろ帰ります」
苦笑一つで肩を竦めたウーヴェが表情を切り替えて怒りのために顔を赤くしているヒンケルに正面から向き直ると、フランクフルトから来た刑事についてですがと声を顰め、ヒンケルが無言で先を促した為にやや躊躇った後でその時ウーヴェが感じた思いを口にする。
「何か不安を覚えている、気にしているように見えました」
「不安?」
「ええ。何か知られては拙い事がある人特有の仕草にも見えたので伝えようと思ったのですが、電話が掛かってきた時だったので言いそびれていました」
自分は彼と面識がない為にその時の様子から感じた事だがと断りを入れたウーヴェにヒンケルがやや上の空で礼を言うが、彼の様子がおかしいと感じたのはいつ頃だと問われ、少し考え込むような仕草で爪先を見下ろしたウーヴェは、彼女の手帳に電話番号が書かれていることを伝えたあたりだと答えると、ヒンケルに向き直って軽く目を伏せる。
「どうした?」
「今回の事件が終わればすぐにリオンにカウンセリングを受けさせた方が良い」
警察が契約している産業医がいるだろうから、それを受けさせた方が良いと、リオンを思うというよりは優秀な刑事を失いたくないのならばとの思いから提案したウーヴェは、ヒンケルが言いたいことを先読みして微苦笑し、今回は別の医者の方が良いと伝えて手を挙げる。
「リオンをお願いします」
「ああ」
その言葉に安堵した顔で軽く礼をしたウーヴェが刑事部屋でデスクに向かっているリオンの姿を目に留めた後、ゆっくりと階段を下りていく。
その背中を黙ってヒンケルが見送るが、刑事部屋に戻ると無意識にため息を一つ零してしまうのだった。