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十二時少し前、
「ほら、急いでっ」
と真知子に急かされながら、廊下に出たとき、ちょうど、エレベーターの前で奏汰と出くわした。
「あ、石井さん」
と言うと、
「今日は外?
早いじゃない、十二時より」
と奏汰は笑う。
「そうだ。
これからランチに行くんですけど、石井さんも一緒にどうですか?」
勝手に奏汰を誘うと、横に居た真知子がええっ、と声を上げた。
「おっ、いいねえ。
じゃあ、僕が車出してあげるよ。
ちょっと待てる? 鍵取ってくるけど」
と奏汰が言うと、あれだけ急げと言っていた真知子が、
「はいっ」
と言った。
奏汰の姿が消えたあとで、真知子が肩を叩いてくる。
「でかしたっ、蓮っ」
あ、蓮になってる、と笑った。
「えーっ。
でもでも、どうしようっ。
楽しみにしてたランチなのに、きっと喉通らないわ」
と落ち着かなげに言う真知子を可愛いなと思い、蓮は眺めていた。
真知子が行きたいと言ったのは、最近リニューアルしたという店だった。
奏汰は来たことあったようなのだが、違うメニューも食べてみたかったからいい、と言っていた。
蔦の這う煉瓦造りのその店は、夜は高いお店のようなのだが、改装してからは、リーズナブルなランチも出すようになったようだった。
「ええっ。
あんた、あんな大きな会社に居たの?
ビールかけてやめるとか莫迦じゃない?」
……莫迦ですとも。
叫ぶ真知子の言葉に、蓮はおのれの立場を再確認し、ブルーになる。
「親元を離れて自立するつもりが、トホホな感じになってますよ」
とグラスで水を飲みながら、メインの肉料理を見つめ、
「でも、このメニューなら、やっぱ、ワインですよね」
と呟くと、
「呑みなさいよ。
顔に出なくて、酒臭くならない自信があるんなら」
と言ってくる。
いや、あるわけないじゃないですか、と思う。
奏汰と真知子が話し出したので、少し気を利かせて、トイレに立ってみた。
化粧を少し直して、外に出ると、見知った顔があった。
思わず、開けかけたドアを閉めようとしたが、止められる。
「女子トイレですよっ」
と思わず叫んだが、相変わらず、渚は、なにもかもお構いなしだ。
ガッシリと女子トイレの小洒落た木製のドアを掴んでいる。
「蓮子、ちょうどよかった。
今日、お前の家に行くからな」
はい?
「予告しとかないと、なんだかんだと文句言うだろう」
と言ってくるが、いや、予告して来ても文句は言いますけどね、と思っていた。
「でも、うちに来るって。
渚さん、住所、知らないですよね?」
と言うと、
「大丈夫だ。
ちょっとした犯罪を犯して、手に入れた」
と言ってくる。
どんな犯罪~!? と思ったとき、渚はトイレのある細い通路からレストラン内を見、軽く頭を下げた。
「蓮子、お前も頭を下げろ」
と言ってくる。
もう私の名前、蓮子のような気がしてきたな……と思いながら、仕方なく、言われるがままに、誰にだかわからないが頭を下げる。
顔を上げたとき、テーブルについている如何にもな紳士がこちらを見て、微笑んでいるのに気がついた。
「九時過ぎには行けると思うから。
じゃあな」
と渚は勝手に決めて行ってしまう。
待て~っ、と思ったが、人の話を聞くような男ではない。
それにしても、同席してる人、何処かで見たような、と思っていると、向こうもこちらを見て、なにか渚に言っていた。
渚はその年配の男になにか言葉を返し、笑う。
そんなときの渚は、ちょっと爽やかな感じにも見えた。
うーん。
そういう顔をしていると、なかなかいいんだが。
普段、これ以上ないくらい、押しが強くて邪悪だからな、と思いながら、蓮は席に戻った。
「遅かったじゃない、蓮」
と結構話が盛り上がったらしい真知子が少し頬を上気させて言ってきた。
椅子を引きながら、蓮が、
「今、会っちゃいましたよ~。
ほら、例の160円借りてる人に」
と言うと、奏汰が、
「え? 居たの?
どいつ?」
と言ってくる。
「あれですよ」
と蓮はちょうど横に幾つか並んだ観葉植物の向こうを見ながら言う。
植物が邪魔なだけで、意外に席は近かった。
二人が上体を傾け、そちらを見る。
「ほら、あの生意気そうな若い男の人ですよ。
まあ、イケメンって感じの……」
何処が、まあ、イケメンだ、と突っ込まれるかと思った。
好みにもよるが、自分が今まで人生で見た中で、一番のイケメンのような気がしていたからだ。
「あんた……」
と呆れたように真知子が呟く。
「秋津さん……。
あれ、社長だよ」
と奏汰が言った。
「社長?
何処のですか?」
「うちのっ!」
と二人が声を揃えて言う。
「そうだ。
そういえば、さっき、駐車場に居らしたから、挨拶したよっ」
と慌てたように奏汰が言う。
「えっ。
でも、石井さん、あのときは、誰も居なかったって言ってたじゃないですか」
「いや、君が、生意気そうで高飛車そうな社員は居たかって訊いたから、居なかったって言ったんだよっ」
あれ、社員じゃなくて、社長だよっ、と奏汰が叫んだとき、ぶっ、と誰かが吹き出した。
渚のようだ。
どうやら、三人とも声が大きくなり過ぎているようだった。
気づいた奏汰が身を乗り出し、小声で叫ぶ。
「だって、まさか、社長を知らないと思わないじゃないっ」
なんとなく一緒に身を乗り出し、蓮も反論する。
「だって、私、派遣社員ですし。
入社式とかないから、社長なんて見てないですもん。
私が来てから、総務に来られたことなかったですし」
と言うか、来ていても、あんなに若くては、どっかの若造が来たとしか思わなかったことだろう。
「おい」
と振り向いた渚がこちらに向かい、呼びかけたらしく、真知子たちが、びくりとする。
ひょい、と観葉植物の向こうから顔を出して、渚が言った。
「蓮子、ちょっと来い」
奏汰たちが慌てて立ち上がり、頭を下げていた。
二人に頷いて応えた渚は蓮の背中に気安く手を置き、さっきの紳士の許に連れていく。
「高坂さん、秋津蓮子です」
おい……。
「一応、これが私の子供を産んでくれる予定なんですけどね」
ははは、このお嬢さんが、と高坂が笑った。
なにか二人の間では通じ合っているらしい。
「では、この方が未来の奥様ですか」
と高坂が言ったとき、それだよっ、と蓮は思った。
この男、なにか一言足りないと思ったらっ、と思った瞬間、高坂が笑顔で言ってきた。
「おめでとうございます。
お幸せに」
「……ありがとうございます」
取引先かなにかの人のようだったので、渚の顔を潰してはと思い、作り笑顔で応じた。
「もう戻っていいぞ」
と言われ、
上から物を言うな~っ。
この社長様め~っ、と思いながらも、
「失礼します」
と頭を下げ、その場を去った。
だが、高坂に背を向けたときには笑顔はなかった。
ふたつばかり言いたいことがある。
私は蓮だ。
蓮子じゃないしっ。
なんか言葉が足りないと思ってたんだが。
普通、子供を産めの前に、結婚してくださいとかないか?
いや、ないんだろうな。
ただただ、子供を産んで欲しいだけなんだろうな。
ってことは、私は愛人か?
いや、正妻が居ないのに、何故、愛人?
なんだろう。
よくわからない。
状況が?
それとも、この渚という男が?
さっき、
『一応、これが私の子供を産んでくれる予定なんですけどね』
と渚が言ったとき、ああ、という感じだった。
なにかの陰謀に巻き込まれている気がする。
そういえば、と気がついた。
脇田さんは社長秘書のはずだが。
あの悪霊が駐車場に居ると言ったら、ありがとう、と言っていた。
私につきまとっているのが、この社長だと気づいていたのか?
ってことは、住所は脇田さんから訊いたのか?
いや、だったら、犯罪を犯したってのがおかしいな。
脇田さんを脅して情報を得た。
脇田さんを殺して情報を得た。
いや、どっちもおかしい、と思いながら、渋い顔をして食べていると、奏汰と真知子が、
「えーと。
どっから事情尋ねたら、いいのかわかんないんだけど……」
と言ってきた。