「凄いじゃないの、蓮。
社長夫人よ」
と帰りの車、何故か真知子が浮かれていた。
「いや、それはないと思います」
彼女と後部座席に並んで座る蓮は、きっぱりとそう言った。
「なんで?」
「だって、子供を産んでくれって言われただけで、結婚してくれって言われてないんです」
そうだ、あの男。
なにか足りないと思っていたら、結婚してくれ、もないし、付き合ってくれ、もない。
いきなり子供を産んでくれとはどういうことだ。
「でも、気に入らない女にそんなこと言わないでしょ」
と真知子は言うが。
うーん、と運転中の奏汰は唸り、
「社長は確かにワンマンだけど。
そんないい加減な人じゃないよ。
よく話を聞いてみたら?」
と言ってきた。
まあ、聞いてみたいのはやまやまだが。
渚が突拍子もないことを言い出して、こちらが逃げてしまったり、向こうが忙しそうだったりで、なかなか話が進まないからな、と思っていた。
車を降り、奏汰に礼を言って別れたあとで、蓮は訊いた。
「服部さん、なんで私の横に座ってたんですか。
石井さんも、どっちか隣に座ってよ、寂しいからって言ってたじゃないですか」
と言うと、
「いやだ、だって、恥ずかしいじゃない」
と赤くなって、蓮の腕を勢いよくはたいてくる。
……うーむ。
この可愛らしさを職場でも発揮していただけるとありがたいんだが。
普段は、鬼のように厳しいからな……。
「なんだ、生きてるじゃないですか、脇田さん」
昼休みが終わり、仕事でロビーを通ったとき、蓮は脇田に出会った。
冷ややかにそう言うと、
「……あれ? もしかして、もうバレちゃった?」
と脇田は笑顔のまま言ってくる。
「私にとり憑いてる渚って悪霊は、此処の社長だったんですね」
「そうそう。
僕の古い友人でもあるんだけどね。
ああ、この間のコンビニでの話とかは、渚に……社長にはしてないよ」
まあ、ちょっと自己保身の意味もあって、と脇田は言う。
「自己保身?」
「いや、君に怪我させたなんて、社長に知れたら、殺されそうだから」
「じゃあ、うちの住所教えたの、脇田さんじゃないんですか?」
「違うよ。
どうしたの? ついに家もバレちゃった?」
「少々犯罪を犯して、住所を手に入れたって言ってましたよ、お宅の社長」
と言うと、
「あー、人事に頼んじゃったかな」
と言う。
「……社長と言えども、勝手に見てもいいものでしょうかね、それ」
と機嫌悪く言うと、まあまあ、となだめてくる。
「今日は僕がアイス買ってあげようか?」
「結構です。
そんなことより、今夜は社長を忙しくして、会社から出られないようにしてください」
と言うと、ええっ? と苦笑いして言っていた。
テレビを見ながら、蓮は欠伸をした。
もう寝たい……と壁の時計を見る。
可愛い鳥かごの形の淡い色の時計だ。
未来には相変わらず、子供っぽいのが好きなんだね、と笑われたが気に入っている。
それにしても、十一時過ぎたのに渚はまだ来ない。
いや、待ってるわけではないのだが。
寝た瞬間にピンポーンとかされても嫌なので、頑張って起きていた。
まあ、社長様は忙しいんだろうから、ああは言っても来られないとかあるかもな、と思い、立ち上がる。
歯を磨きに行こうとしたとき、スマホが鳴った。
おや? と思って出たが、もう切れていた。
見ると、『アクリョウ』と書かれた番号から着信していた。
自分で登録したのだが、こんな名前で着信して来ると怖い。
渚に登録し変えよう、と思ったとき、また鳴り出した。
『アクリョウ』
怖いよっ。
せめて漢字か平仮名にすればよかったっ。
『あくりょう』
ちょっと可愛いではないか、と思ったとき、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
ひっ、と身をすくめる。
ど、どっちに出ればっ、と思いながら、スマホを取り、インターフォンにも走る。
『蓮子っ。
このマンション、電波が途切れるぞっ』
と両方から渚の声が聞こえてきた。
だが、ひいっ、と思ったのは、それだけが原因ではない。
渚の後ろをお隣のご主人が振り返りながら通るのが見えたからだ。
『開けろ、蓮っ』
ようやく名前を覚えてくれたのか、単に蓮子と言うのがめんどくさくなったのか、そう呼んでくる。
言われなくても開けますっ、と慌ててドアを開けたときには、渚は隣のご主人と挨拶を交わしていた。
ひいっ。
昨日、脇田さんが来たのを奥さんに見られたばかりなのにっ!
次から次へと違う男が来るとかご近所さんに思われたくないっ。
「あ、こ、こんばんはっ」
と笑顔を作り、人の良さそうな隣のご主人に頭を下げ、渚の腕をつかんだ。
中に引っ張り込むと、渚が、
「どうした。
積極的だな」
と言ってくる。
そこに立ってられたら、困るからですよーっ。
「……遅いじゃないですか」
「ああ、待たせて悪かった。
予定より長引いて」
そう言われると、なんだか渚を待ちかねていたようで、腹立つなと思っていると、
「上がっていいか」
と訊いてくる。
「……どうぞ」
なにかこの人にはもう逆らっても無駄な気がしてきたな、と中へと通した。
それにちょっと予感があったのだ。
確かに、言うこともやることも無茶苦茶だが。
何処か育ちのいいお坊ちゃんっぽいところがあるというか。
口ではいろいろ言ってはいるが、いきなり、ご無体なっ、という真似はしそうにないというか。
古い友人だと言っていたが、そういうところは、ちょっと脇田と似ている、と思った。
「ふーん、可愛い部屋だな」
と何故か意外そうに渚は部屋を見回して言う。
「ご飯、食べられましたか?」
と言うと、
「途中で脇田が弁当買ってきてくれたから、食べた」
と言う。
「なんかすごい重箱のお弁当とか?」
阿呆か、と渚は言う。
「その辺のコンビニのだ」
座っていいか、と本当に疲れているらしく、そう言いながら、もうラグの後ろのソファに腰を下ろしていた。
そういう姿を見ると、ちょっと可哀想になるな、と思う。
社長とか言うと、ふんぞり返っているイメージだが、実際は誰よりも働いていて、休む暇もないことが多い。
「お茶でもどうですか?」
「珈琲以外な」
飲み飽きたから、と言う。
蓮はキッチンに立ち、寝る前だから、カフェインの強いのはやめた方がいいな、と思い、ルイボスティーを淹れてみた。
「で?」
と訊く。
「なんで、今すぐ子供が居るんですか?」
弱っている今ならロクでもないことを言って、茶化したりはしないかもしれないと思い、訊いてみた。
まあ、渚がその若さで社長ということから、なんとなく想像はつくのだが。
ソファで目を閉じていた渚は、案の定なことを言ってくる。
「ジイさんが後継ぎを作らない奴は出て行けと言い出したんだ」
やっぱりか。
「ジイさん、本人が望むなら、とりあえず、子や孫たちを系列の会社に入れたり、任せたりはしてくれるんだが。
あのジジイ、身内だろうが、経営手腕がイマイチだと平気で解任したり、僻地に飛ばしたりするからな。
それで気が抜けないから、ずっと仕事ばっかりしてたのに、今度は子供を作れとか……」
眠いのか、呟くように言いながら、渚は肘掛に頭を置いた。
「無茶を言うなってんだ。
こっちは、てめえの言うがままに働いて、女なんぞ知らんと言うのに」
その顔でか、と思った。
いや、顔は関係ないが。
蓮は溜息をつき、ルイボスティーを彼の前のテーブルに置いた。
「何度も言うようですが、貴方が誘えば、ついていかない女は居ないですよ」
渚の前に膝をつき、そう呼びかけると、
「お前は俺を買い被りすぎだ」
と言ってくる。
……そうだろうか?
と思っていると、渚は片目を開け、
「とりあえず、お前、ついて来ないじゃないか」
と言う。
「私は行かないですけど。
貴方が花でも贈って、申し込めばきっと……」
そう言いかけたところで、渚は起き上がり、蓮の後ろのルイボスティーに手を伸ばす。
おっと、と避けると、彼は熱いそれを一口飲んで、立ち上がり、いきなり出て行った。
バタン、と閉まった玄関の扉を見ながら、なんか怒ったのかな? と思う。
ほとんど飲んでないじゃん、と思いながら、せっかく淹れたルイボスティーを見て、溜息をつく。
……寝るか、と思い、洗面所に行った。
歯を磨いたあとで、そうだ。鍵かけてなかったな、と気がつき、玄関に行くと、勝手にドアが開いた。
「ほら」
と渚がビニールに包まれた緑のものを差し出してくる。
「花はなかった」
包みに貼られたシールには見覚えがある。
どうやらこの間のコンビニに行ってきたようだ。
「……これ、しきみですよ」
せめて、榊ならよかった、なんとなく……。
夜のコンビニだ。
仏壇に飾ったりするような生活必需品しかなかったのだろう。
「しきみは毒があるから、虫がつかなくていいんだ」
とよくわからないことを言う。
本当は虫に弱いという話もありますが。
まあ、とりあえず、今は貴方が悪い虫ですけどね、と思っていた。
だが、疲れているのに、わざわざ買ってきてくれたのは嬉しくもある。
「ありがとうございます。
じゃあ、お茶でも飲んで帰ってください」
さりげなく、そろそろ帰って、と言ってみたのだが、渚は、
「此処、会社から近いな」
と言い出す。
「……入り浸らないでくださいよ」
と睨んだが、聞いていない。
ソファに戻り、お茶を飲んでいた。
「来年のジイさんの誕生日までに子供がいるんだ。
十月十日で産まれるんだったかな」
と言ってくる。
「本当に十月十日なわけじゃないですよ。
一月の数え方が違いますから。
ところで、お爺様の誕生日は、来年のいつですか?」
と訊いてみたら、ほぼ一年後だった。
どうやら、最近あった誕生会でそう言われたらしい。
「それ、他の独身の方も言われたんですか?」
と訊いたが、いや、と言う。
ふーん、と思ったが、渚には言わなかった。
「まあ、でもあれですよ。
お爺様がおっしゃってたのはですね。
子供を作れってことじゃなくて、貴方に結婚して家庭を持てと……
ちょっと、聞いてますか?」
振り返ると、渚は腕を組んで座った体勢のまま、爆睡していた。
「……この人と結婚する人、大変そうだな」
他人事のようにそう呟き、重い渚の身体をなんとか横にした。
毛布と布団を持ってきてかけてやる。
身体が大きいから転がり落ちそうだが、これ以上はどうにもしてやれない。
せめてネクタイだけでも外してやろうとしたが、うまくいかず、起こしてしまいそうだったので、少しだけ緩めてやった。
やれやれ。
誰にもこんなことしたことないのに、トホホだな、と思いながら、戸締りをして寝た。
眩しいな。
よく眠れるように、厚い遮光カーテンがつけてあるはずの部屋が光に満ちていた。
瞬きしていると、
「おはようございます」
とやたら丁寧なおばさんの声がした。
一瞬、未来のおばさんかと思ったのだが、違った。
更に厳しい感じの声だ。
「おはようございます」
と繰り返され、目を開けると、地味だが品のいいスーツを着た年配の女性がベッドの横に立っていた。
「お……おはようございます」
いきなり寝室に現れた見知らぬ女に、目が覚めたら、商店街のど真ん中にベッドがあったくらいの衝撃を受ける。
「お目覚めでございますか。
秋津蓮様」
そう彼女は言った。
「わたくし、徳田と申します。
昨夜は、渚様がお世話になりましたそうで。
ありがとうございます」
は……はあ、と思っていると、
「渚様は、早朝用事があったのを思い出され、仕事に行かれましたが。
蓮様の家の鍵を所有していなかったので、鍵をかけられず、わたくしを呼びました次第でございます」
と言ってくる。
「いやあの……起こしてくれたので、よかったんですが」
「朝食も運んで参りました。
そろそろお召し上がりください。
冷めますので」
はあ、朝食も……とぼんやり思いながら、部屋を出る。
テレビの前のテーブルではなく、普段あまり使わないダイニングテーブルの方に、立派な朝食が並んでいる。
朝からナイフとフォークがいっぱいあるんだが……。
時計を見ると、いつも起きる時間より早い。
まさか、これを全部食べさせようと、早く起こしたとか?
さあ、と一歩近づいて徳田が言う。
「今すぐ顔を洗ってお召し上がりください、蓮様」
「わ、わかりました……」
食べねば、斬るっ! くらいの感じだった。
後ろにタスキがけをした介錯人が刀を持って立っているように感じる。
いや、徳田は前に居るのだが。
分身の術くらい平気で使って後ろにも居そうだ。
顔を洗って出てくると、ソファの上に綺麗に畳まれた布団と毛布が見えた。
徳田さんがやったのかもしれないが。
なんとなく、渚さんかな、と思う。
ああ見えて、きちんと、しつけられてそうだから。
身支度を済ませ、
「では、いただきます」
と手を合わせ、頭を下げると、真横のキッチンに立っている徳田が重々しく頷いた。
が、やはり、真後ろにも徳田が居る気がして、緊張して食べる。
刀を振り上げた徳田の幻影はともかくとして、美味しかった。
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