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新居は明穂を気遣い間取りは広く段差も少なく階段や水回りには手摺《てすり》が設置された。当初は実家と違い戸惑いや間違いも多かったが最近ようやく慣れて来た。印鑑や通帳はリビングチェストの引き出しの奥、その手前には大智から貰ったデジタルカメラが入っている。「いつか見に戻るから」という言葉を信じ、明穂は外出先でカメラのファインダーを覗いた。それは相変わらずすりガラス越しの世界だが、いつか大地に見て貰おうとシャッターを切った。
「ーーーあ、電話」
リビングの鳩時計が14:00を報せた。夕飯の献立を考えながら洗濯物を畳んでいると珍しい時間帯に携帯電話の呼び出し音が鳴った。吉高からだった。
「もしもし、吉高さん。如何したの?」
「ーーーーー」
「今夜の帰り、遅くなるの?」
「ーーーーー」
それは暫くの間無音で人の気配がしなかった。
(間違えたのかな)
吉高が誤ってポケットの中の携帯電話のリダイヤルを押したのかと思い着信ボタンを切ろうとした瞬間、誰かが息を吸い深く吐く音が聞こえた。それは直感だった。
「紗央里さんですか」
「ーーーーー」
「紗央里さんですね」
そこで遠くから吉高の声が聞こえた。
「紗央里、携帯電話忘れてなかったかな」
結局、紗央里の声を聞く事は出来なかったが《《こんな時間帯》》に2人きりで過ごしていた事は確かだった。
明穂はその着信画面をスクリーンショットで画像保存した。これで吉高の携帯電話からの着信日時を保存する事が出来た。そして案の定、明穂の携帯電話番号を入手した紗央里と思しき人物は<非通知>設定で自身の存在を主張し続けた。
(ーーーーまた、紗央里さんも飽きないわね)
<非通知>設定の電話番号を着信拒否にすれば心も騒つかないがこの執念深い行為も後々の確固たる証拠になるだろうと受け入れ続けた。余程吉高とのセックスに溺れているのだろう。日に5件、6件、酷い日は10件の着信履歴が残った。根気比べだった。
顔の分からない女同士の闘いを他所に今日も吉高は薔薇の香を匂わせて帰宅した。その面立ちは振り返らなくても《《見える》》、惚けて締まりの無い情けない28歳。
「夕飯、なに?」
「茄子のオランダ煮とお素麺」
「夏らしくて良いね!シャワーして来るよ」
(紗央里さんはさっさと排水口に流してね!)
明穂は吉高の浮気が発覚した当初は狼狽《うろた》え動揺したが相手の女性の姿を薄らと感じた時に覚悟を決めた。
(離婚しよう)
仙石の義父母や両親には申し訳ないが、浮気をした挙句に事もあろうか「セックスを愉しもう」などと平然と言い放つ男性と暮らして行ける筈がない。神の御前で「死が2人を分つまで」と誓い合ったが明穂の心の中の吉高は死んだも同然だった。
「美味しい?」
「美味しいよ、明穂と結婚した僕は幸せ者だよ」
(幸せなのはあなたの脳内お花畑だけじゃないの?)
ただやはりこれからの人生をひとりで歩んで行くのかと思うと気持ちは沈んだ。
また今日も<非通知>設定の着信音が鳴り響く。携帯電話は消音設定で2階の布団の中に押し込めたがそれでも微小な空気の揺らぎを感じて気が変になりそうだった。
ピンポーンピンポーン
紗央里の着信音から気を逸らそうと掃除機を取り出しスイッチを入れた途端インターフォンが鳴った。そのタイミングに明穂は「ひっ」と小さな悲鳴を挙げてその場に立ちすくんだ。まさか、自宅住所まで知らない筈だとモニターを覗くとカメラいっぱいに唇が映っていた。
「ど、どちらさまでしょうか」
「なに、なに言ってるの!早く開けてちょうだい!重いんだから!」
「お母さん!?」
インターフォンのカメラに顔を付けモニターの画面を占領していたのは明穂の母親だった。明穂に何度も電話を掛けたが一向に出る気配が無いので慌てて来たのだと言った。
「慌てた割に」
「そ、スイカ!仙石さんから頂いたの!」
明穂の胸はチクリと針で刺された。
「明穂、心配だから電話には出てよね!」
「ごめん」
「で、携帯電話は!」
「修理中なの」
「なに、壊したの!」
「液晶画面割っちゃって」
「おっちょこちょいね!」
母親は部屋を見回し「相変わらずなにもない部屋ねぇ」とソファから転げ落ちたクッションを座面に戻した。
「だって危ないでしょ、お掃除も大変だし埃が溜まるから」
「そうね、それが賢明だわ」
「そうだ!」
「なに、如何したの」
離婚をするならば先立つものが必要だ。結婚前から僅かだが毎月貯金をしていた。それが幾らになっているか母親に確認して貰おうと思い付いた。明穂はチェストから取り出した預金通帳を開いて渡した。
「お母さん、貯金幾らある?」
「貯金?あら?」
母親が訝しげな顔をした。
母親のその面立ちに明穂は異変を感じた。
「お母さん、なに、如何したの?」
「明穂、あなた毎月幾ら貯金してたの?」
「60,000円、50,000円の月もあるかな」
「それは吉高さんにお願いしたの?」
「うん、入金は吉高さんにお願いしてあるの」
「明穂、よく聞いて」
それは俄《にわ》かに信じられるものでは無かったが預金通帳が全てを物語っていた。毎月の入金が確認出来なかった。
「ーーーー嘘」
しかも300万円あった貯蓄もここ1年前から目減りし現在では150万円しか残っていなかった。1年前、もしかしたら紗央里との交際が始まったのもその時期なのかもしれなかった。
「なに、明穂、知らなかったの?」
「え、あ、あっ!色々買っちゃったかな!」
「あぁ、もう駄目じゃない。なにやってるの」
「ごめんなさい」
素知らぬ振りは出来ていただろうか、不自然では無かっただろうかと脇に汗が滲んだ。そして母親が預金通帳を片付けようと引き出しを開けた。
「お母さん、違うよ。1番右端、上から2段目」
「あ、ごめん。あら!」
「如何したの」
母親は封筒と葉書の束を取り出した。
「あら、まぁ。明穂には教えてたのね」
「なにが?」
「返事はちゃんと出したの?」
「なんの事?」
母親の言葉に耳を疑った。これまでの3年間、仙石の義父母には差出人の無い絵葉書が送られて来ていた。当然、吉高にも大智からの無愛想な絵葉書が届いていた。
「え、だって吉高さんが」
「なに、あなた知らなかったの!」
「だって聞いてない」
母親が見た封筒の束は明穂宛で《《差出人の住所が書かれていた》》。大智は明穂には自分の住所を伝えていた。その事を吉高は明穂には教えず引き出しの中に仕舞い込んでいた。封筒を捨てなかったのは良心の|呵責《かしゃく》だろうか。
「大智くん、ニューヨークに住んでいたのね」
「ニューヨーク、アメリカ」
「なにをしているのかしら、ねぇ」
浮気の事は元より貯金の使い込みもそうだが大智の住所を教えてくれなかった事は明穂にとっては許し難い裏切りだった。
明穂は母親に大智からの手紙の朗読を願い出た。3年前の手紙にはアパートが決まらず困っている、その日暮らしで辛いなど如何にも後先考えずに渡航した泣き言が綴《つづ》られていた。
「それはそうよね」
ただ2年目には住居も定まり生活に余裕が出来たらしく勉強し直していると書かれていた。
「お母さん、勉強し直すってなに」
「まさか算数ドリルじゃ無いわよね」
「流石に大智でもそれは無いよね」
「アメリカで算数ドリル?」
「意味あるの?」
「さぁ」
大智も吉高と同じ遺伝子で体《てい》を成している。地頭《じあたま》は良かったのだろう。便箋には《《なんらかの》》試験を受けて合格した。今度面接を受けるとあった。
「面接ってハンバーガーショップとか」
「なんでハンバーガーなの」
「アメリカだから」
「あぁ、アメリカだものね」
2社落ちたが3社目で採用された。
「あぁ、採用良かった」
「これで食べ物には困らないわね」
「なんで」
「賄《まかな》いとか無いの?」
「ハンバーガー、ぶくぶく太っていそうね」
「残念なイケメンね」
奪いに行く、待ってろ。
「奪う?待つ?なにが」
「主語述語が無い辺りが大智くんらしいわね」
「語彙力《ごいりょく》がね」
「残念なイケメンだったわよね」
次の封筒を開いた母親の顔が赤く色付いた。
「なに、なんて書いてあるの?」
「読んでも差し支えないかしら」
「差し支えもなにも、吉高さんは読んだんでしょう?」
「そうね、そうね、明穂、驚かないで頂戴ね」
「なによ大袈裟な」
明穂、愛している。
母親は便箋を持ったまま床に突っ伏して笑いを堪えている様子だった。明穂の顔も赤く色付き心臓は飛び跳ねた。
「お、お母さんこれって不倫になるの」
「なる訳ないでしょう!手も握っていないのに!」
「じゃ、浮気?」
「知らないわよ!」
そして最後の封筒を開けた母親は明穂の顔を凝視し、カレンダーを二度見した。
「明穂」
「なに」
「明後日帰って来るって」
「誰が」
「大智くん」
「はぁー?大智が!」
明穂の窮地に算数ドリルで勉強をし直しハンバーガーショップに採用された大智が日本に帰って来る。