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「校舎内に刃物を持った不審者が侵入しました! 生徒の皆さんは体育館へ避難してください! 繰り返します――――」
音割れした校内放送の中、声をあげて座り込む者、闇雲に逃げ惑う者、他生徒を押しのける者が溢れ、廊下は濁流と化していた。
「煌、行くよ」
「はぁっ!?」
ワケも分からないというのに野崎の細い腕で引っ張られ、恐る恐る教室の後ろ扉から廊下の様子を見る。
「っ……、なんだよ、あれ……!」
混乱の上流、フロア中央の大階段前に、複数の異常な存在が、猫背で震えて立っていた。
くたびれた白シャツには赤黒い液体の滝が染め込まれ、脇腹からは骨らしい突起物が飛び出し、ちぎれ落ちそうな左腕をぶらりぶらりと振るう。
頬や眼輪の骨格がはっきりと浮き出た血色悪い顔面は、明らかに正常に生きている人間のそれではない。
ぎりぎり人型を保つ生臭い見た目に、吐き気すら沸騰しかける。
見ているだけで臓物を撫で回されるような気色悪さを纏うそれらは、非現実的で、怪物的だった。
その容姿だけで、見た者たちが怯えて逃げ出すのに充分な理由になり得ると言葉なしに理解した。
「……煌、どうやら私の悪い想像が的中したみたいだ」
怪物の足元では、両脚を出血し、下半身が真っ赤に染まった女生徒が床を這いずっていたが、彼女は泣き声にも似た叫びをしばらく続けたあと、強く頭を床に叩きつけるようにしてその場に沈んだ。
それは作り物が再現できるような単調で機械的な挙動ではなく、極めて人間的な藻掻きの動作だ。
後ろから寄ってきた仁もその光景を見て、すぐさま血の気を引かせて、教室の扉に勢いよく寄りかかってしまう。
「煌、ここじゃあ人が多すぎる。 仁くんに呼びかけて、クラスの奴らを逃がすんだ。 私たちでこいつらの元凶を抑えるぞ」
「はぁっ!? オレたちであいつをどうするってんだよ!」
「冷静になって考えてみろ、あんな怪物が、どこからともなく急に湧き出てきたと思うかッ? 確実にあれは、権能の産物だ。 どんな能力かはわからないが、権能の存在を知っている私たちが対応すれば、何とかなるかもしれない。 一人でも被害者を減らせるかもしれないだろう! だが放置すれば、問題は拡大するばかりだ」
「そ、そんなこと言われたってよ……!」
あの怪物の存在は恐怖だ。
混乱する脳と、恐怖する心。
本当であれば逃げ出したい。
そんな状況下、動揺の少ない野崎の判断は、緊急事態で混乱している頭に冷水を注ぐような説得力があった。
今は野崎の落ち着いた考えに賛同した方が、事が上手く進むように思えた。
それに、勝人のことが気がかりだったのだ。
あいつは先生を呼びに行くと言って職員室に行った。
勝人のことだから大丈夫だとは思うが、もしもあいつがこの状況を把握していなければ、危険かもしれない。
「……くそ、わかったよ!」
振り向くと、教室の中には仁や遥夏、状況が飲み込めずにいる数人のクラスメイトが逃げ残っていた。
「仁っ、仁!」
動揺する仁の肩を掴み、目を合わさせる。
「遥夏たちを連れて逃げろ、オレは勝人を探しに行く」
「だ、駄目だ!」
全身から力が抜けて座り込んでいたはずの仁が、急に肩を掴み返してきた。
「何するつもりだい、煌も、煌もだ! 煌も一緒に逃げよう!」
「さっき出てった勝人が、職員室に取り残されてるかも知れねえんだ。 一階の様子を見たらすぐにオレも逃げる。 仁は先に逃げて、警察でもなんでもいいから助けを呼んでくれ!」
「駄目だ、それじゃあ駄目なんだ!」
あの仁の眼差しには、以前にも見覚えがあった。
そうだ。博物館の一件でも同じやり取りをしたんだ。
”オレがあいつらの視線を奪ってる間に、
仁は遥夏を連れて一つ前の展示室に戻れ。
そこに非常口があるらしい。
逃げて、すぐに通報してくれ”
仁にはあの時も、全く同じことを頼んだんだ。
事件後の病院じゃ、煌は無謀すぎると何度も何度もお叱りのメッセージを山ほど受けた。
オレはあの時と全く同じ過ちを繰り返そうとしていた。
「煌っ、君が頑張る必要なんてないんだよ! どうしてわざわざ危険な方へ向かっていってしまうんだ! 理解不能なものからは逃げていいんだ! 自己犠牲心なのか何なのか知らないが、僕らのことを本当に想ってくれるなら、頼むならそんなことはやめてくれよ!」
いつもの、ひょうきんとした様子は一切ない。
仁は本気で訴えかけてきている事が、その言の葉からひしひしと伝わる。
仁の言う通り、博物館でのオレの選択は非情の極みだった。
あれは、自己犠牲なんて美しいものではなく、ただの重責の押しつけだった。
あの時、オレは友情から逃げたかったんだ。
記憶の森を抜けるために、その暗い霧を晴らせるかもと、友情を焚べようとした。
そしてきっと、今もまだその意識は根底に残っていて、好機さえあればエゴに従おうとしている。
だからあれだけ叱られても、また同じことを言い出してしまうのだ。
「なあ、頼むから一緒に行こうよ、煌……」
「…………」
仁と目を合わせるのを避ける。
振り向いて野崎の顔色を伺うと、早くしろ、と言わんばかりの眼光が向けられていた。
彼女は片手を軽く上げて、わざと視線がぶつかる直線上に自身の手を挟み込んできた。その手の緩んだ包帯の隙間からは、剥がれた爪と切り傷だらけの赤黒い皮膚が見えている。
『爆弾作り』。
私の言うことを聞かなければどうなるかわかっているだろう、という無言の脅迫だった。
そうだ、初めからオレに選択肢なんてなかったんだ。
「……煌、わかったよ」
オレの表情を見た仁が、回答を待たず立ち上がった。
待ってくれ、と手を伸ばしかけて、そのまま何も言えなかった。
「遥夏たちはまかせてくれ。 だから、勝人のことは頼んだよ」
そう言って、オレの顔も見ず遥夏たちに声をかけ始めた。
仁との間に、隠しきれない溝が出来てしまった。
それだけは明らかで、胸が、ぎゅっと締め付けられるみたいに……、苦しくなった。
「煌、こいつを見てくれよ」
野崎に呼ばれる。
廊下に出て、指をさされた方向を見る。
そこには、さきほど床に倒れ込んで動かなくなっていた女生徒が、立ちはだかるモンスターと同様に肌が腐り落ち、血を吐き、喉を鳴らしながら這いずっていた。
「こいつ、まさか」
「にわかに信じられないが、どうやらあの怪物、ゾンビってやつみたいだな」
這いずる女生徒の両足には、かぶり千切られた痕跡があり、恐らく男のゾンビが噛み付いたのだと思われる。
「噛んだ相手にウイルスを感染させ、同種族へと遺伝子構造を変容させる生態を持つ、虚構上に死きる架空の怪物……。 仮面の持ち主は、こんなモノで何をする気なんだ?」
「あのゾンビのうちの誰かが仮面持ちじゃねえのか?」
「どうだろうね、わからない。 けれど、恐らく違うだろう。 あの乾いて穴だらけの顔面皮膚は、仮面というにはお粗末すぎる」
「今は一時的に仮面を外してるだけかもしれねえじゃねえか」
「仮面の持つ権能は、仮面を被っている時しか執行することはできないのさ。 こんな事をする犯人がどんな思考や目的で動いているのか想像もつかないが、もしも私なら、こんな大事に手を染めたからにはこんな風に姿を現さないし、素性を隠すためにも仮面は被り続けるだろうからね」
背後で、廊下を走る数人の足音が聴こえる。
半身で振り向くと、仁がクラスメイトを連れてフロア奥へ向かう背中が見えた。
仁は途中で通過する教室の中にも目を向けて、逃げ残りを確認していたみたいだった。
仁の背中がオレから遠ざかっていく中、遥夏はこちらの様子をしきりに気にしながら走り去っていく。
「教室から出ていったのは何人だ?」
「…………えっ?」
「おい呆けるんじゃあない、しっかりしてくれよ。 教室から出ていった生徒は何人いたと聞いているんだ」
「五人だ、五人だった」
「全員だね」
軽く周囲を見回したあと、野崎は自身の額を包帯だらけの手で掴んだ。
それは以前、校舎の屋上で仮面について野崎に説明を聞いた時に、「実際に見せた方が早い」とか言って、その顔に仮面を出現させるためにとった直前動作と同じだった。
「あそこにいる三体、足元の新鮮ゾンビも含めれば四体。 まずは彼らを再起不能にする。 動きは鈍いし、既に満身創痍のようだけど、虚構どおりなら彼らは、あの状態でも徘徊を続けて爆発的に感染を広めるだろうからね。 ここで足止めしておく必要がある」
「再起不能って……、権能を使う気かよ!?」
自身の血液で作った槍斧を振るう、野崎の権能による再起不能とは、アニメや漫画で見るような、不意にうなじを叩いて気絶させるといった生易しいものではないことは想像に難くない。
「おい、待ってくれ野崎、そのゾンビたちの顔にはどっか見覚えがある。 恐らく、あいつらは……」
「この学校の教師たち、だろう?」
野崎もそうだが、オレもこの学校に転入してきたばかりだ。多くの先生は廊下ですれ違ったくらいで、話したこともない、名前も知らない人ばかり。
だから確証はなく憶測で語ることしか出来ないが、目の前に立つシャツを着た三体のゾンビたちには、学園生活の中ですれ違った面影を感じるのだ。
野崎もその可能性に気づいているようだった。
それなのに、彼女はほんの少しだって竦む様子なく、権能を振るおうとしていた。
「わかってんのかよ、もしオレ達の想像が正しければ、あんたは今……、先生をぶった斬ろうとしているんだぞ!? もうゾンビになっちまってるんだから殺しても大丈夫、なんて理屈は通らねえよ」
「早速、既に一人、そこの女生徒がこいつらに感染させられたんだ。 こいつらを放っておくのは簡単だけどね、それでは次の犠牲者が出るよ?」
「そうじゃねえ、話を聞きやがれ! あんたがやろうとしてるのは、どんなお題目や免罪符なんかを並べようと、人殺しみたいなもんだっつってんだよ!」
博物館の一件はこいつのためだけに決行され、結果として多くの被害を出した。
しかし、テロリストの中には銃火器で武装していた者もいたというのに、意外にも死者数はゼロだったと聞く。
野崎自身も、博物館内に来場していた一般客には危害に加える気はないと語っていた。だから、彼女はその一線だけは越えないでくれるだろうという、軽薄で身勝手な信頼があった。
友人たちを人質にオレを脅迫こそしたが、直接的な脅迫表現は常に避けていたし、実際に博物館の一件以降、今日日まで他人に暴力を振るうことは無かった。
「煌……、私はこの場でゾンビに人権はあるのか、なんていう、如何にも長編ゾンビドラマ作品の冒頭で主役たちがぶつかりそうな問いを論議するつもりはないね。 ゾンビはゾンビだから、もう人ではない。 それともまさか、お次は死体にも人権が宿るとか言い出すのかッ? くだらないな、見ろよ現実をッ」
そうこうと話しているうちにも、ゾンビ達はじりじりとこちらへにじり寄り続け、既にひとつ隣の教室、廊下中腹まで来ていた。
まるで腹を空かせた猛獣のように、唾液の代わりに血流を顎骨からだくだくと零しながら。
「まったく君ってやつは、冷静なのか落ち着きがないのか分からない奴だ! ゾンビ如きに怖気付いたと思えば、すぐに人殺しがどうだのと説教を始めやがる」
「ゾンビ如きってなんだよ、充分ビビる理由になり得るだろーが! つうか、あんなグロテスクなもん見て混乱しねえ方が嘘だろ!」
「この程度のやつなら『少数派』で飽きるほど見てきた。 君も仮面の持ち主なら、もう少し精神力を鍛えるべきだな。 そんなヒヨっちい精神力じゃあ、すぐに『仮面の引力』に耐えられず、押しつぶされてしまうよ?」
「だから、オレは仮面なんて持ってねえっつってんだろ!」
もう話していても無駄だ、と言わんばかりに野崎の目線が外れる。
「そうかよ、ならオレの言うことを聞かざるを得なくしてやるよ」
オレにはこれまで、野崎との関係において常に弱者だった。
『少数派』の存在を秘匿することを条件に、彼女に人質にされている生徒たちには危害を加えない。
一見は成り立っていそうな構図ではあるが、主導権は武力を持つ野崎に偏っている。
この交渉は、あまりにも不平等なものだ。
だが、この一手でその偏りを押し戻す。
「……すげえよな、最近のカメラってさ。 小型化が進んで、こんな小せえもんにも内蔵できるようになったんだぜ」
オレがポケットから取り出したのは、一本のボールペンだった。
それを、さも柄の部分に何か仕込まれているかの様に慎重そうに見せつける。
「さっき教室で盗聴器のことを聞かれた時、昨日は制服にアイロンをかけたって言ったよな。 実はその時、こいつを見つけたんだよ。 オレが元々ポケットに入れていたペンと外見は一緒だったが、明らかに胴体のインクチューブに残ってたインク残量が明らかに新品みてえに新しくなってたもんだから、違和感を感じてよおく見てみたんだ。 それで気付いたよ、柄の部分に小さなカメラレンズが仕込まれていることにな」
オレが言ってることは全てハッタリだ。
口からの出任せだ。
「きっとあの刑事に仕込まれたんだ。 でも安心しろ、既に電源は切ってある。 ここまでの会話も、今この会話も、録画録音はされてねえ。 でもよ、こっから先はどうだろうな?」
野崎のやつは、以前から素性がバレることだけは強く警戒し続けてきた。さっき教室からクラスメイトがいなくなるのを待ってたのだって、話を聞かれたりするのを恐れた行動だったはずだ。
そう、恐れだ。
そこが野崎の最大の弱みだ。
その弱点を、刺す。
「野崎! こいつの電源をオンにすりゃあ、カメラを通して映像と音声の中継が刑事に届く。 意味はわかるだろう? いいか、ゾンビを殺すな。 もし彼らが感染者なら、生きてさえいれば治す方法はあるかもしれない。 それこそ映画みてえにワクチンや血清でも打ってな!」
オレだってそんなことが出来るなんて到底思っていない。それでも、可能性を捨てきれないんだ。
たとえ教師とはいえ、人死にが出ればこの学校に通う生徒たちの学園生活、彼らの輝かしいはずの青春に影響が出る。そしてそれは、仁たちも例外では無いから。
「今度こそ対等な交渉をしようぜ、野崎」
「……そんな虚勢で私と対等に立てるとでも?」
「たったペン一本だ、信じなくたっていいんだぜ。 でもよ、困るのはお前の方なんじゃねえのか?」
これは一か八かの賭けだ。
ここで、曖昧だった野崎との関係を確立させる。
そして、このワケわかんねえ状況を収拾つけるのに協力させる。
オレが手網を握った上で、だ。