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第一章:
高橋悠大(28歳)は、東京のデザイン会社での連日の残業に疲れ、久しぶりの休暇を利用して山奥の老舗旅館へ向かっていた。パソコン画面と向き合う日々に疲れ果て、体も心も限界に近づいていた。山深い場所で、ただ静かに雨音を聞きながら眠りたい――そんな気持ちで車を走らせていた。予約した旅館の情報はほとんどなく、祖父の友人が経営しているという話だけを頼りに決めた。
都心を抜けると、車窓には徐々に緑が増え、森の匂いが漂い始める。細い山道を進むと、霧がかかり、雨粒がフロントガラスを叩く。雨に濡れた木々が不気味な影を落とし、車のライトが照らす道以外は暗闇に包まれていた。ハンドルを握る手に緊張が走るが、それ以上に、都会の喧騒から離れた安堵感が胸を占める。
峠を越え、森の中に古い木造の旅館が姿を現す。雨に濡れた瓦屋根がしっとりと光り、森に溶け込むように静かに佇んでいた。車を停めると、木の香りと湿った土の匂いが鼻をくすぐる。建物は古いが手入れが行き届き、落ち着いた威厳を漂わせていた。
傘を差して玄関に向かうと、笑顔の若女将が現れた。傘を受け取り、柔らかい声で案内するが、その瞳にはどこか計算された鋭さがあった。悠大は無意識に背筋を伸ばす。
「こちらのお部屋です。どうぞごゆっくり」
部屋は和室で、障子越しに庭が見える。雨に濡れた苔と木々が、薄暗い光の中で幻想的に揺れていた。悠大は荷物を置き、畳に座ると、久しぶりに静かな時間を味わった。だが、ふとした瞬間に廊下の奥で影が動いた気がして、胸がざわつく。
布団を敷き、旅館の案内書を眺めていると、押し入れの隙間に薄い封筒が挟まっているのに気づいた。表には日付も差出人もなく、紙は古びていた。蓋を開けると、中には手書きの平面図と短いメモが折りたたまれている。
「風呂場の下に通気口あり。夜は廊下の灯りの並びに注意」
唐突だが具体的な指示が並んでいる。悠大は不思議に思いながらも、ページをめくる手が止まらなかった。これはただの迷信やいたずらではないような、妙なリアリティがある。ページをめくると、文字は古びてにじみ、鉛筆の跡が微かに残っている。紙の手触りから、何十年も前に書かれたものだとわかった。
夕食の席では、他の客も加わる。常連と思われる中年男性が冗談めかして言った。
「一度入ったら、出られないんですよ」
その言葉に、誰も笑って返すことはなかった。悠大は軽く笑い、心の中で「そんなわけは…」と否定するが、背筋には小さな寒気が走った。女将は微笑んでいるが、目だけが何かを見透かすように光っていた。
食事を終え、部屋に戻ると、雨の音だけが静かに響いていた。静寂の中で、先ほど見つけた封筒のことが頭をよぎる。もしこの旅館に秘密があるのだとしたら、夜になれば何か動きがあるのかもしれない。悠大は布団の中で、眠れない夜を覚悟した。
時計の針が深夜を指す頃、廊下の向こうで微かな物音がした。風のせいだろうか。悠大は息を殺し、耳を澄ませる。廊下の向こうで、足音が止まり、わずかにドアが軋む音がした。まるで誰かが部屋の前に立っているような錯覚を覚える。心臓が早鐘のように打つ。
悠大は布団をそっと抜け出し、懐中電灯を手に取り、封筒を再度手にした。計画書の指示を頼りに行動すれば、閉ざされた夜を抜け出せるかもしれない。しかし、その静けさと暗闇は、ただの夜ではないことを悠大は直感していた。旅館の影は深く、静かに彼を見つめているように思えた。
第2章:夜の脱走
雨音が屋根を叩く夜。高橋悠大は布団に横になりながらも、眠れずに天井を見つめていた。押し入れの隙間で見つけた手書きの計画書が、今は心の支えになっている。「風呂場の下に通気口あり。夜は廊下の灯りの並びに注意」——指示通りに行けば脱出の糸口がある。しかし、旅館の静けさは、逆に恐怖を増幅させていた。
布団の中で手が震える。廊下の向こうから微かに木の床が軋む音が聞こえる。雨のせいか、風のせいか、それとも――誰かがいるのか。悠大は息を殺し、耳を澄ませる。音は徐々に近づき、止まった。目を閉じると、暗闇に浮かぶ影がこちらを見ているような錯覚に陥る。心臓が跳ねる。背筋に冷たい汗が伝う。
深呼吸を整え、悠大はそっと布団を抜け出す。懐中電灯を握り、廊下に足を踏み出す。木の床は雨で湿り、踏むたびに軋む。壁に沿って手をつき、音を立てないよう慎重に進む。廊下の灯りは薄暗く、光が揺れるたびに壁に伸びた影が歪む。息を整え、心拍を感じながら、一歩ずつ進む。
計画書の指示通り、風呂場の下に小さな通気口を見つけた。手で押すと、わずかに隙間が開き、冷たい空気が流れ込む。指先に触れる金属の冷たさが、異様な現実感を突きつける。悠大は体を折りたたみ、慎重に通気口に滑り込む。狭く、湿った通路は埃と木の匂いで鼻腔を刺激し、呼吸を整えるたびに微かに咳が出る。
通路を進むうち、床の一部に微妙な沈みを感じる。踏めば音が鳴る仕掛けだ。悠大は片足ずつ慎重に踏み出す。背後で低く人の声が聞こえ、心臓が跳ねる。
「…誰だ?」
息を殺し、体を壁に押し付けた。声はやがて遠ざかり、静寂が戻る。冷たい空気が体を包み、湿った匂いが鼻腔を刺激する。悠大は体の震えを抑え、進む方向に目を凝らした。
狭い通路の先には、古い押し入れが現れる。扉には鍵がかかっている。計画書の最後の指示を思い出す。
「梁の赤い印を押せ」
懐中電灯で梁を照らすと、かすかに赤い印が光った。手を伸ばすと、カチッと小さな音がして扉が静かに開いた。
裏庭に出ると、雨に濡れた土と苔の匂いが自由を実感させる。足元に気をつけながら駆け、庭を抜ける。しかし背後に気配を感じ、心臓が再び跳ねる。廊下の灯りが揺れ、誰かが監視しているような影が一瞬見えた。悠大は振り返らず、全力で車まで走る。
泥で滑らぬよう足を踏みしめ、雨に打たれながら山道へ出る。胸の鼓動は収まらず、手が震える。車にたどり着き、ドアを閉めると、ようやく少し息をついた。エンジンをかけ、霧に包まれた山道を抜けると、遠くに街の明かりが見え始める。
夜の旅館の影は遠ざかるが、心の奥で旅館の秘密がすべて解明されたわけではないことを悠大は知っていた。雨の夜、あの建物は静かに次の客を待ち、閉ざされた謎を抱えたまま森の奥で息を潜めているかのようだった。
悠大は深く息を吐き、窓の外の霧を見つめた。自由を取り戻した喜びと、夜の旅館の不気味さが同時に胸に押し寄せる。安全な場所に戻ったと思えるのはほんの一瞬で、あの静寂はまだ彼の心の中に生き続けていた。