テラーノベル
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朝焼けがまだ薄く残る時間、佐藤はキッチンで静かにフライパンを動かしていた。すかーと俺――夢魔を起こさないように、音ひとつ立てずに。
できあがった朝ごはんをテーブルに並べると、佐藤はそっと玄関に向かった。
俺たちが気づくより早く、佐藤はもう家を出ていた。
その日は会社までの道も、妙に長く感じた。
扉をくぐると、さっそく先輩の鋭い視線が突き刺さる。
けれど、佐藤は何も言わず、ただ無言で睨み返しただけだった。
昼頃――
社長がふと声をかけてきた。
「飯は? 食べたか?」
佐藤はほんの一瞬、言葉に詰まり、それからぽつりと答えた。
「味が……わかんなくて。栄養バーだけ食べてます。」
「食べようとはしたんですけど、吐いちゃって……」
目を伏せたまま、申し訳なさそうな声。
社長はしばらく黙ってから、深くため息をついた。
「お前な……栄養も取らんと、ぶっ倒れるぞ。」
それで、秘書さんが気を利かせて、少し栄養のある軽い食事を用意してくれた。
佐藤はゆっくりとそれを口に運んだ。
――大丈夫、今回は吐かなかった。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
•
部署に戻ると、また先輩の視線が待っていた。
さらに足をひっかけてくるような嫌がらせまで。
「……ッ」
倒れそうになりながらも、佐藤は拳を握りしめた。
――やり返すな。今は耐えろ。
何度も心の中で言い聞かせた。
•
その日はまた残業。
結局、帰れなくなってしまって、夢魔とすかーに連絡を入れた。
社長にも報告して、夜明けまで耐えた。
そのまま、それが三日間続いた。
ろくに眠れないまま、フラフラになりながら――
•
三日目の深夜、ついに限界がきた。
もう無理だ。
そんな言葉が頭の中を何度も反響する。
そんな時――また先輩が足をひっかけてきた。
「……ッ!!」
倒れそうになりながらも、何とか体を支えて、社長に連絡を入れた。
そして、夢魔とすかーにも「迎えに来て……」と、震える指で連絡を送った。
なんとか会社の扉をくぐって外に出ようとした瞬間、また先輩に捕まった。
腕を掴まれて、壁に押し付けられる。
「痛……っ」
けど、夢魔とすかーには心配かけたくなくて――
服の乱れを直して、痛みをこらえて、二人を待った。
•
黒い車が止まり、中から夢魔とすかーが降りてくる。
すぐに駆け寄ってきた。
「佐藤……! 無理してない?」
「ほんま、大丈夫なん……?」
心配そうな顔。
でも、咄嗟に出た言葉は――
「無理してないよ。」
ほんとは、身体中が痛くて、立つのもやっとで、
心も身体も限界だったのに。
それでも、二人を心配させたくなかった。
いつものように、何もなかった顔をして――
嘘をついた。
玄関の扉を静かに閉めたあと――佐藤はその場で膝をつき、力尽きたように眠り込んでいた。
次に目を開けた時、もう夜だった。知らないうちにソファの上。恐らく――夢魔かすかーが運んでくれたのだろう。
けれど、頭はぼんやりしていて、身体はやっぱり重くて……それでも佐藤は、機械的に着替えを済ませ、また会社に向かう準備をした。
「……行ってくる」
その声は掠れていて、きっと二人の耳にも届いたはずだった。けれど、すかーも夢魔も、佐藤の異常さにすぐ気づいた。
「なあ、佐藤……ちょっと休めや。」
「無理しなくていい、って、言っただろ……?」
二人が必死に止めても、佐藤は目も合わせない。まるで何も聞こえていないみたいに、ふらふらと靴を履き、玄関を出て行った。
**
会社に着くと――当たり前のように、また先輩の嫌がらせが待っていた。
足を引っかけられて、無理やり押し付けられて、痛いことをされても、もう何も感じなかった。
ただ、
(もう、ダメだ……もう無理だ……耐えられない……辛い、逃げたい……)
そんな言葉ばかりが、何度も何度も頭の中で繰り返される。
仕事は終わらない。
書類が増えても、眠る暇すらない。
社長に連絡だけは入れたけど、それ以外の連絡をする気力もなかった。
そのころ――家では。
すかーと夢魔が、二人きりでリビングに座っていた。
夢魔は珍しく、目の下に深い隈を作っていた。
「……もう、何時間待った……?」
「わからへん……」
いつもなら笑うすかーも、今は完全に声が沈んでいた。
何度もスマホを見た。でも、通知はない。
「……帰ってこなかったらどうしよう。」
「そんな……いやや……」
夢魔が小さく、佐藤の名前を呼ぶ声が、部屋に虚しく響いた。
**
一方で、佐藤は――
次の日の夜。ようやく、やっと仕事が終わった。
立ち上がるだけで足が震えた。
歩くのもままならない状態で、それでも佐藤は帰ろうとした。
――家に、帰らないと。
歩いて、歩いて。
街の明かりが、どんどん滲んでいった。
そしてやっと、玄関にたどり着いた。
靴を脱ぐ気力すらなく、そのまま床に崩れ落ちた。
意識が途切れる。
**
目を開けた時は――もう次の夜だった。
あれ?と佐藤は小さく呟いた。
たしか、玄関で寝たはずなのに……
目の前には、見慣れたリビングの景色と、ソファの感触。
――だめだ、頭が回らない。
手探りで服を着替えて、会社に行く準備だけを整えた。
背中から、すかーと夢魔の声が聞こえていた。
何かを必死に言っている。
「もう無理やって!休んで!」
「頼むから、佐藤……お願いやから……!」
でも、それすらも遠く感じた。
家を出る時、夢魔が佐藤の腕を掴んで、
「行くな……!」と強く叫んだ。
けれど佐藤は――ゆっくりと振り払った。
「……行かなきゃ。」
それだけを残して、会社へ向かう背中は、どこまでも細くて、どこまでも遠かった。
そしてまた、終わらない仕事が待っていた。
目を開ければ、また残業。
もう、眠ることすら忘れていた。
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