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朝――薄い光がビルの窓から差し込んでいた。佐藤の目は真っ赤で、手は震えていた。
何時間、いや何日、まともに眠っていないだろう。
キーボードを打つ手も限界に近かった。
(帰りたい……帰りたい……)
その言葉だけが、何百回も頭の中を巡っていた。
社長にも、夢魔にも「まだ帰れない」と連絡だけは入れた。
けど、言葉がどんどん短くなっていく。
「もう無理」
「帰りたい」
「助けて」
それすらも送ったかどうか、もう覚えていなかった。
そんな朝――また。
また、先輩の声が耳に入った。
「ふふっ、また残業? かわいそ〜」
その声で、完全に何かが切れた。
――ガンッ!!
音が社内に響いた。
先輩が椅子に座ろうとした瞬間、佐藤は無意識に足を蹴り上げていた。
「……っ!?」
先輩も、周りも一斉に息を呑んだ。
でも、佐藤はもう止まらなかった。
目の前が真っ黒で、
真っ赤で、
何も見えなくて。
先輩が何かを言っていたけれど、聞こえない。
聞きたくもなかった。
――ガッ
佐藤はそのまま、無言で先輩の髪を掴んで壁へ押し当てた。
「……ああ」
低く漏れる声。
自分のものとは思えないほど冷たい、乾いた声だった。
「なんでもっと早くしなかったんだろう……」
押し付けた手に力が入る。
先輩が苦しそうに顔を歪めても、もう何も感じなかった。
「楽しい……楽しい……あはっ……」
知らないうちに、口元が笑っていた。
目の奥が熱くて、手足は冷たかった。
周りの社員は完全に静まり返っていた。
誰も止めようとしない。
その異様な空気の中で、佐藤は狂ったように笑い続けた。
疲れすぎて、壊れてしまったかのように――。
――その瞬間、副社長が慌てて駆け込んでくる音がした。
「佐藤さん! やめなさい!!」
その声に、佐藤の手がようやく止まった。
社長の呼びかけにも、最初は耳を貸さなかった。
けれど、しばらくして、ゆっくりと手を離した。
佐藤はふらりと身体をよろけさせながら、そのまま床に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……あー……眠い……寝たい……」
それだけを、小さく呟いた。
何かを言われても、もう耳には入らなかった。
ただ、ただ静かに目を閉じた――。
ガキンッ――。
先輩のデスクを蹴り飛ばした音が、再びオフィス全体に響いた。
「……あは、あははっ……あぁ……」
止まらなかった。
喉の奥から漏れる笑い声が、もう自分でも止められない。
体は軽くて、逆に浮いていきそうなくらいだった。
苦しかった。
胸の奥がズキズキして、泣きたいくらいだった。
だけど――泣くよりも、笑うしかなかった。
「……あぁ、そういえば――こんな事もされましたね」
ゆっくりと歩きながら、佐藤は先輩のデスクをもう一度蹴った。
大きな音が響いて、先輩の体がビクッと震えるのが見えた。
椅子ごと蹴り飛ばされた先輩が、床に倒れ込んだ。
でも、佐藤はその上から平然と立ち上がり、見下ろす。
「あらぁ……大丈夫ですか? え? 大丈夫? そうなんですねぇ^^」
口元は笑っていた。
目は、全く笑っていなかった。
「言ってな――」
先輩がそう何かを言いかけた瞬間。
佐藤はゆっくりとかぶせるように、低い声で囁いた。
「じゃあ、もう少し……遊びましょうよ」
先輩の顔色が一気に青ざめるのがわかった。
でも、そんなのどうでもよかった。
「だって、先輩が言ったんですよね?
“これは遊びだから仕方ない。こんなの許されるって。”」
口の端を持ち上げて、
ゆっくりと、そのまま言葉を続ける。
「……馬鹿なんですか? ほんと。
ノミ以下の知能ですね、笑」
先輩が怯えていた。
震えていた。
でも、本当にどうでもよかった。
佐藤は無言で、そのまま先輩の腕を掴んだ。
力強く、容赦なく――。
「い、痛い……っ!! 痛いって!!」
先輩の悲鳴が響いた。
けれど佐藤は首を傾げて、小さく笑った。
「……え? これが痛いんですか?」
首を傾けたまま、
掴んだ腕にほんの少しだけ、さらに力を込める。
「まだですよ。
本当に“痛い”って言うなら、もっと――もっと、ね?」
それは、自分でもおかしいと思うくらい自然な動作だった。
ギチッ――バキッ。
確かに音がした。
骨が軋むような、乾いた音だった。
先輩は叫んでいた。
泣き叫びながら、無我夢中で逃げようともがいていた。
でも、佐藤は耳を塞いだみたいに、何も聞こえなかった。
(楽しい……楽しい……)
頭の奥で、誰かが踊っていた。
真っ黒な自分。
普段隠していたはずの黒いものが、
身体中を駆け巡って、踊って、笑っていた。
「……あはは……っ……あははっ……!」
顔が熱かった。
手は冷たかった。
震えていたけど、それすら心地良かった。
「ふふっ……楽しいな……ほんとに……」
オフィスの空気は凍り付いていた。
誰も声を上げる者はいなかった。
本当に世界に自分一人しかいないみたいに――
ただ、ただ、笑い続けていた。