テラーノベル
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春の朝靄が薄れゆくころ、佐久間屋太助は目を開けた。見慣れぬ天井、嗅ぎ慣れない木の香り――そして鈍い頭痛。
「おぼっちゃま!ようやくお目覚めですか!」
声の方へ顔を向けると、そこには中年の女性が心配そうにこちらを見つめていた。襖を背にした彼女の着物は質素だが清潔で、その立ち姿からは丁寧な暮らしが見て取れる。
「あの……ここは?」
自分の口から出たのは、明らかに幼さを残す少年の声だった。
「佐久間屋ですよ、おぼっちゃま!二日前、急に熱を出して……ああ、本当に良かった」
老女は涙ぐむ。
佐久間屋?熱を出した?
太一は混乱しながらも、意識の底に沈殿している記憶を手繰り寄せた。高速道路、スリップ、激突。そして真っ暗闇。大学三年生。経済学科。来月に控えていたテスト。それら全てが次々と浮かび上がる。
(死んだ……のか?)
反射的に掌を開いたり閉じたりした。小さいが力強い、少年の手だった。
「お母さん、僕……何歳?」
恐る恐る尋ねる。
「えっ?十四になりましたでしょう、先日誕生日を迎えたばかりなのに。どこまで忘れてしまったのかしら……」
十四歳。太一の肉体年齢だ。つまり、自分は交通事故で命を落とし、この時代の人間に“憑依”したのだろう。経済学者を目指す大学生が、歴史の授業でしか知らない江戸時代にいるという現実に、笑いがこみ上げそうになる。同時に、重たい責任感が胸に庠まった。
佐久間屋は京都・五条通に店を構える中規模の米問屋だった。父・勘兵衛は温厚だが思慮深く、母・ちづは商家の妻らしい几帳面さで家計を支えている。十歳上の兄・又右衛門が跡取りとしてすでに商いに携わり、太助はまだ修行中の身だった。
転生後の一週間で太一は驚いた。江戸時代の米市場はひどく不安定なのだ。
「兄上、最近の相場はどうなのですか?」
ある夕餉の席で太一は訊いた。
又右衛門は眉間にしわを寄せる。「もう半年も上がらないんだよ。去年の豊作の余波が続いて……しかも西国の藩が備蓄を出し惜しみしているものだから、市中に出回る量が少ないんだ。売り時が全くわからない」
勘兵衛が湯呑を置きながら補足した。
「困ったことに、安値で仕入れた米がずっと売れ残っている。今度こそ高く売れればいいが」
帳簿をちらりと見る限り、佐久間屋は決して大儲けとは言えないものの安定した収益を得ていた。しかし未来の経済理論を知る太一には、この状況は単なる需給バランスの不調和に過ぎない。
(現代ならインフレ率を見ながら貨幣供給を調整すれば……いや待て、ここは金本位制じゃないし紙幣もない。どうアプローチすべきか?)
夜になると布団の中で考え続けた。そもそも江戸時代の米は純粋な食糧というより、税や流通の基準である「貨幣」だ。農民は年貢として米を納め、武士は俸禄として米を受け取り、町人は米で稼いで暮らす。まさに経済の血管と言える存在。
「もし米の流通を安定させられたら……佐久間屋だけでなく、もっと多くの人が豊かになるはずだ」
太一の瞳に、かつて研究室の蛍光灯を映したものと同じ情熱が宿った。
翌朝から行動は早い。
「父上、私に少額ですが自由に使える資金をいただけませんか?勉強のために市場を見て回りたいのです」
勘兵衛は目を丸くした。
「お前が自発的に……珍しいことだな。では、小判二枚ほど貸そう。ただし損はするなよ」
「心得ております」
二枚の小判を受け取った太一は、まず浅草寺近くの米市場へ向かった。実際に人々が何を求め、どんな情報を元に取引しているのか、肌で感じる。
「へぇ、この店は佐久間屋ん坊主じゃないか。珍しいこともあるもんだ」
市場の古老・藤兵衛が声を掛けてきた。
「ご無沙汰しております、藤兵衛さん。実は近頃の相場について色々考えていて……」
太一は自然に会話に引き込まれていった。藤兵衛は面白がるように耳を傾ける。
「ほう?十四でお偉いことを考えるもんだな。まぁ座れ」
露天商の男たちが集まるたまり場で、太一は話を聞いた。
「相場師ってのはみんな占いが好きなんだ。星の動きとか水不足の噂とか……根拠なんてあって無いようなもんだが、誰か一人が騒ぎ出すと皆が便乗しちまう。結局、買い煽りが勝つか売り崩しが勝つかの賭けみたいなもんよ」
さらに太一は藩同士の情報遮断についても察しをつけた。豊作だと隠せば買いたたかれ、凶作だと慌てふためけば吊り上げられる。そのため各領内だけで需要と供給を合わせようとする結果、全体としては極端な波乱が起きやすくなっていた。
(これだ――情報を非対称にしてしまうのが一番の原因だ)
夜になり、佐久間屋に戻った太一は部屋に籠って考えをまとめる。必要なのは三つ。
1.正確な収穫予測データ 2.各藩・地域間での適切な情報共有 3.長期契約による安定購買者への割引制度
幸い、佐久間屋には各地の大名御用達との古い付き合いがあった。また江戸を通じて上方と連絡を取ることにも慣れている。
「まずは試験的にやってみよう」
コメント
1件
柚木さん、読み終わりました! これは面白い……! 現代の経済理論を抱えた大学生が、江戸時代の米問屋の若旦那に転生する――しかも「米が貨幣」という江戸経済の本質に気づいて、情報の非対称性を解消しようとする動きがいいですね。藤兵衛との会話で「相場師は占い好き」と語らせるところ、伏線として効いてそうです。14歳の少年が小判二枚を元手に何を仕掛けるのか、続きが気になります。 (88字)
#歴史
#いんく
華一
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