テラーノベル
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私が二個目のパンに食らいつき、空になったスープ皿を「おかわり!」と女性に手渡したその瞬間、木戸にコツンコツンと小石が当たる音がした。この要塞の仲間が帰って来たのだ。ポーカーカードを手にした一人の男が素早く立ち上がり、扉の隙間から外の様子を窺い確認する。頷くと、慎重な手つきで鉄製のかんぬきを抜いた。蝶番が軋んだ音を立て、木の扉がゆっくりと開く。
朝の逆光が一筋、埃の舞う室内を切り裂いた。その光の中に、血まみれの男を肩に担いだ数人の影が、よろめきながら浮かび上がった。担がれている男の腕はだらりと垂れ、服は裂けて赤黒く染まっている。部屋中の空気が、一瞬で凍りつく。
「……!」
私は小さく悲鳴をあげ、手にしていた皿を床に落とした。皿が割れ、それは驚きの声と共に粉々に砕ける。「ごめんなさい!」咄嗟にしゃがんで破片を拾おうとしたが、女性が箒を取り出し「大丈夫ですよ」と首を傾げ微笑んだ。
「……リ、リバー!」
血まみれで担ぎ込まれた背の高い男は、間違いなくリバーだった。男たちの肩にぐったりと預けられたリバーは、奥の小さな部屋へ運ばれ、藁の敷かれた簡素なベッドにそっと降ろされる。痛みに顔を歪めながらも、追っ手を振り切れた安堵で、深く長いため息を吐いた。あの鋭い目が、今は虚ろに天井を見つめている。胸のあたりがどす黒く染まり、息も荒い。私は震える足で立ち上がり、思わずそのベッドへ駆け寄ろうとした。
「オランジェ……待って」
「……え!?」
レオンが私の手首を握った。その力は思いの外強く、荒縄で締め付けられていた青紫の跡が熱を持ち、ピリピリと傷んだ。リバーは私を監獄から逃すために衛兵と剣を交えて負傷した。その胸に縋りつきたい、手を握りたい、せめて声をかけてやりたい。なのに、レオンの指は私の手首を離さない。彼の横顔は、いつもの優しい微笑みを消して、硬く引き締まっていた。何を考えているのか、まるで分からない。金色の瞳が、静かに、でも鋭く、私を見据えているだけだった。
「レオン?」
すると、仄暗い廊下の奥から、杖をつく重い音が近づいてきた。軋む床板が微かに震え、天井の梁までその響きが伝わるような、静かで深い威厳があった。天窓から差す一筋の陽光が埃を金色に染め、キラキラと舞う中を、深緑のフードを目深に被った背の低い老人がゆっくりと現れた。腰が曲がり、黒いローブの裾が床を擦る。右手に握られた古びた杖の先端には、大きなエメラルドが鈍く光っていた。まるで、深い森の奥から抜け出してきた賢者そのものだった。部屋の空気が一瞬で張り詰め、誰もが息を呑む。老人がフードの下から顔を上げたとき、皺の奥に宿る瞳だけが、鋭く、まるで全てを見透かすように輝いていた。
「その者か?」
声は嗄れていたが、穏やかだった。
「……はい」
リバーを担いできた男が小さく頷くと、老人は杖を握りしめたまま、ゆっくりとベッドに近づいた。深緑のフードをわずかにずらし、皺だらけの顔を覗かせる。枯れた唇が動き、誰にも聞き取れぬ古い言葉が低くこぼれ始めた。
「……何これ、本当に魔法の世界じゃん」
私は思わず呟いた。エメラルドの先端が仄かに緑の光を灯し、リバーの胸の裂けた服の上にかざされる。血の臭いが立ち込める中で、宝石は次第に深い色を帯び、まるで生き物のように脈打った。
老人の声が一段と低く、部屋の空気を震わせる。「アウルの森の精霊の、御心のままに」その瞬間、緑の光が傷口に流れ込み、血の流れがぴたりと止まった。肉が上下し、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。リバーの苦悶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「すごい……爺ちゃん、すごい!」
思わず声が飛び出した瞬間、バイキングの巨大な手が私の口を慌てて塞いだ。老人はフードを深く被り直し、杖に皺だらけの顎を乗せて、ニヤリと笑った。歯の欠けた口元が不気味に歪む。
「爺ちゃんじゃねぇ。ロバ宰相様って呼べ」
「ロバ……」
頭に浮かんだのは草原で草をムシャムシャ食べているロバだった。でも、このロバ宰相は明らかに只者じゃない。リバー、いや、川上の命を救った人だ。
「ロバさん……ありがとうございます。この恩義、絶対に忘れません」
深く頭を下げると、ロバ宰相はゆっくりと杖を掲げた。先端のエメラルドが、ぴたりと私の額の前に止まる。冷たい緑の光が瞳に映る。老人は私の目をじっと覗き込み、にやりと笑った。
「お主……なぜ器の中に、二人おるんじゃ?」
「……は、はい!?」
一瞬、空気が凍った。
(やっぱり……! オランジェット・ドナーの体の中に、私と彼女が……二人いるってこと……!?)
私は両手で自分の頬をパチン!と叩いて、目を思いっきり見開いた。
「え……ええええっ!?」
ロバ宰相は「ふっふっふ……これは愉快じゃ、愉快じゃ」と低く喉を鳴らし、ローブの裾を床に引きずりながら、エメラルドの光と共に仄暗い廊下の奥へと消えていった。杖の音がトク、トク、トク……と遠ざかり、最後にぴたりと止む。ギィ バタン 扉の音が閉まる音が響いた。
残された私は、頭を抱えてその場にしゃがみ込みそうになった。
(やっぱり……この体、本当に「二人」いるってバレちゃった……!?)
息を呑み、恐る恐る周囲を見渡した。けれどみんな興奮と安堵でざわついている。バイキングが「すげえや、ロバ宰相様の力に勝てるやつはいねぇな!」と大声で笑い、女性が涙ぐみながらリバーの額に手を当て、男たちが肩を叩き合って喜びを分かち合っている。誰も、私の方を見ていない。
ただ一人、レオンだけが、静かに、こっちを見ていた。腕を組んで壁にもたれ、金色の瞳を細めて、じっと見ていた。その視線が、まるで私の奥底まで覗き込むみたいに、まっすぐ突き刺さっていた。
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