テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ロバ宰相は、この体の中に、獅子頭橙子とオランジェット・ドナーが封印されていることを見抜いた。周りの仲間たちは、リバーの傷が癒えてゆく奇跡に夢中になり、その風のような呟きを、誰も耳にしていない。けれどレオンは違った。壁にもたれ、ブロンドの髪から覗く金色の鋭い目は、私の青ざめた瞬間も、唇が震えた瞬間も見逃さなかった。
「オランジェット……ちょっといいかな?」
レオンは私に手招きをした。その指が触れるたび、それは命令のように感じた。彼は木の手すりに掴まると、力強い一歩を踏み出す。ギシギシと軋む木の階段を登る彼の背中を私は追いかけた。窓から降り注ぐ陽光に埃がキラキラと舞い、彼のブロンドの髪は光に透け、神々しいほどに美しい。けれどそこにいつもの柔らかな微笑みはなかった。
「座って」
「……うん」
蝶番が軋むドアを開け、案内された部屋の天井には蜘蛛が巣を張り、埃を被ったクローゼットや等身大のひび割れた鏡が佇んでいた。ここは女性たちが使っているのだろう、数着の質素なワンピースが壁に掛かっていた。彼はゆっくりと木の椅子を引き、私に座るようにと促した。その目は鋭く私を射抜いた。階下からは朝食の笑い声と食器の音が賑やかに響いてくるのに、ここだけがまるで別の世界。静けさが耳鳴りのように重い。レオンはドアに背を預け、腕を組んだまま、静かに口を開いた。「……さあ、話してくれないか。君は一体、どっちなんだ?」
私はゆっくりと立ち上がり、ひび割れた鏡の前に歩み寄った。埃と蜘蛛の巣の隙間から、歪んだ自分が覗いている。プラチナブロンドの長い髪。透き通るような青い瞳。白い肌に、まだ消えきらない縄の痕。私は震える指を伸ばし、鏡の中の彼女の頬に触れた。冷たいガラスに触れたはずなのに、なぜか温かい感触が伝わってくる。
彼女も同じように頬に手を当て、そっと微笑んだ。……これが、オランジェット・ドナー伯爵令嬢。でも、同時に、私の指先の震えも、彼女の指先の震えも、まったく同じだった。私は鏡に向かって、小さく呟いた。「……ねえ、私……どっちが本当の私なの?」
私はひび割れた鏡に映るオランジェット・ドナーの青い瞳を、まっすぐに見つめたまま、そっと息を吸った。すると、まるで水面に落ちた石の波紋のように、頭の奥で何かが揺れた。……白いドレスを着せられた幼い自分が、大きな鏡の前で立っている。
母の冷たい指が肩に置かれ、「微笑みなさい、オランジェット。貴女はドナー家の顔よ」と囁かれる。
次に浮かんだのは、十五歳の誕生日。オルファ侯爵が庭園で跪き、婚約を申し込んだ日。薔薇の花束を抱えた彼の瞳は優しかった。けれど、私の返事は決まっていた。
「はい、喜んで」
まるで人形みたいに微笑みながら、心の中では、誰かの声が小さく叫んでいた。
(嫌だ、嫌だ、こんなおじさんと結婚したくない!)
そして、最後に鮮明に蘇ったのは。王太子暗殺未遂の罪を着せられた法廷の日。貴族たちの嘲笑。オルファ侯爵の、失望と軽蔑が入り混じった視線。私は壇上で膝をつきながら、初めて本当の感情を口にした。
「私は……悪くない」
その瞬間、胸の奥に別の声が重なった。
(当たり前だろ。私は獅子頭橙子だ。極道の娘が、こんなところで土下座なんかするわけねえだろ!)
……ああ、そうか。オランジェット・ドナーは、ずっと泣いていたんだ。本当の自分を押し殺して、完璧な伯爵令嬢を演じ続けて、泣いていた。でも、もう泣かない。私は鏡の中の彼女、いや、私自身に小さく呟いた。
「大丈夫。もう、誰もお前を無理に笑わせたりしない。これからは、私が守るから」
そこで、はっ、と我に帰る。目の前に立つレオンが、息を詰めて私を見ていた。金色の瞳は、もう笑っていない。静かな、でも確実に燃えるような疑念が、底から湧き上がって確信へと変わっていくのが分かった。
「誰が誰を守るの?」
「……それは……その……」
全部、聞かれていた。「……君は、やっぱり」レオンの声が低く震える。
「オランジェットじゃない……んだね?」
「……そう、みたいだな」
私の口から零れたのは、オランジェットの優雅な声じゃなく、どこか低くて掠れた、獅子頭橙子の声だった。レオンの瞳が、一瞬、大きく揺れた。言い訳なんて、もうできなかった。
さっき鏡の中で見た記憶、オランジェットの涙と叫び、王太子暗殺未遂という濡れ衣……全部が頭の中で渦を巻いている。私はゆっくりと振り返り、レオンをまっすぐ見つめ返した。
「ごめん。私……どっちも私で、どっちも私じゃない、って感じなんだ」
声が震えた。でも、もう逃げない。
「この体には、オランジェット・ドナーがいる。でも、同時に、獅子頭橙子って名の、別の女もいる」
「……そうなのか。信じられないな」
レオンの声は低く、どこか遠くを眺めるように揺れていた。好奇心と疑念が絡み合い、まだ答えを決めかねている。
「私だって……信じられないよ」
私は小さく笑った。喉の奥が熱い。今、初めて知ったオランジェットの孤独、完璧な令嬢を演じるために自分の心を偽った苦難の日々。でも、もう違う。胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
「でもね、レオン」
「……なんだい?」
私は一歩踏み出し、彼の金色の瞳をまっすぐ見つめた。
「私は……オランジェットを、助けたい。この子を、もう二度と泣かせたくない」
声が震えた。でも、嘘じゃない。これだけは、絶対に譲れない。
私はゆっくりと息を吐いた。
「……ねえ、レオン。オランジェットが王太子を暗殺しようとした、って本気で思う?」
レオンは黙って首を振った。答えは決まっている。
「私も思わない」
私は拳を握りしめた。独房で聞いた衛兵たちの嘲笑が、今でも耳に残っている。「オルファ侯爵が……」「王党派の後ろ盾だった侯爵が、王太子を切り捨てたんだ」欲に目のくらんだ人間は、婚約者だろうがなんだろうが、平気で裏切る。
「……あいつ、オランジェットを、最初から駒としか見てなかったんだ」
胸が煮えるほど熱い。怒りと、哀しみと、そして何より、「絶対に許さない」私はレオンをまっすぐ見据えた。
「私は……オランジェットを、必ず助ける。この濡れ衣をはがして、本当の裏切り者を暴いてやる」
私はテーブルを拳で叩いた。埃が舞い上がり、ひび割れた鏡が震える。重苦しい静寂を、怒りだけが鋭く切り裂いた。レオンは壁にもたれたまま、腕を組んで目を閉じた。長い睫毛がゆっくりと伏せられ、静かに、深く、頷く。「……分かった」それだけだった。でも、その一言に、すべてが込められている気がした。