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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
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ルイはすぐには動かない。
ただ。
タイキを見ている。
まっすぐ。
その視線の中に、少しだけ迷いがあった。
今までなら。
こんなやり取りはなかった。
何も言わず。
流れで夜が始まっていた。
でも。
今日は違う。
ルイが小さく息を吐く。
それから、ゆっくり立ち上がる。
椅子が床を擦る音。
そのわずかな音だけで、タイキの心臓が少し速くなる。
ルイがテーブルを回って近づく。
さっきより静かな足音。
タイキの前で止まる。
数秒。
そのまま。
ルイが言った。
「……後で」
少しだけ目を細める。
「また被害者みたいな顔すんなよ」
軽く言う。
でも、その声はさっきより柔らかかった。
タイキは小さく息を吐く。
「しねぇよ」
短く返す。
ルイが少し笑う。
そして、ゆっくり手を伸ばす。
今度は、さっきみたいに乱暴じゃない。
タイキの頬に触れる。
軽く。
確かめるみたいに。
二人の距離が、また少し近づいた。
⸻
食器を片づける音がして、蛇口の水が短く流れて、部屋はまた静かになる。
タイキは先にソファへ移った。
深く座るでもなく、端に腰を下ろすでもなく、なんとなく真ん中あたりに身体を預ける。
視線はテレビの黒い画面の方へ向けたまま、何も映っていないそこをぼんやり見ていた。
期待なんてしていない。
どうせ、と思う。
どうせまた。
少し優しくなったみたいな顔をして、結局最後にはルイの欲が優先されて。
こっちの温度なんか置き去りのまま、夜が終わる。
さっきまでの会話も、怒りも、言い返したことも。
全部なかったみたいに塗りつぶされる。
そういう夜を、今まで何度も知っている。
だからタイキは、最初から期待しない方が楽だと思っていた。
その方が、傷つかない。
キッチンから戻ってきた気配がした。
ルイがソファの前で一度立ち止まる。
タイキは見上げない。
見たら、また何か先に読まれそうで嫌だった。
でもすぐ横に沈む気配で、ルイが座ったのはわかった。
沈黙。
近い。
でも、すぐには触れてこない。
タイキの喉が小さく動く。
なんだよ。
その沈黙が逆に落ち着かない。
いつもみたいに来るなら来ればいい。
来ないなら来ないで、そうしてくれた方がまだ楽だ。
なのにルイは、少し間を置いてから、静かにタイキの方へ身体を向けた。
「タイキ」
低い声。
名前を呼ばれただけで、肩に力が入る。
それでも返事はしなかった。
ルイは無理に次の言葉を重ねず、そのまま少しだけ身を寄せてくる。
タイキはようやく視線を動かした。
近い。
目が合う。
そのまま、唇が触れる。
いつもみたいに押しつけるようなキスじゃなかった。
一度だけ、そっと重ねる。
確かめるみたいに、ゆっくり。
離れて、また少し角度を変えて触れる。
柔らかい。
タイキは一瞬、息をするのを忘れた。
(……なんだよ、今更……)
心の中でそう思う。
思うのに、身体の方が先に戸惑ってしまう。
ルイの手は頬に触れたまま。
もう片方の手も、肩へ置かれるだけで強く引かない。
逃がさないためじゃなく、そこにいるためみたいな触れ方。
それがいちばん困る。
さっきまで構えていた。
どうせまた、と思っていた。
痛いほど慣れた夜になると思っていた。
なのに、ルイは乱暴に触れてこない。
キスだけが、静かに続く。
(……やめろよ)
優しくされると、困る。
さっき怒ったことまで、少しずつ輪郭が曖昧になる気がする。
自分の中で張っていたものが、別の意味でほどけそうになる。
ルイが唇を離しかけた瞬間、タイキの指が無意識に動いた。
ルイの服を、ぎゅ、と掴む。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
でも、たしかに自分から。
その感触に、ルイの目がわずかに揺れる。
次の瞬間、口元が満足そうに歪んだ。
「……俺に反抗すんな」
さっきより低い声。
耳元に近いその声に、タイキの背筋がひやりとする。
「そしたら、優しくしてやる」
ルイはそう言って、また軽く唇を重ねてきた。
タイキは眉を寄せたまま、その目を見た。
「優しくできんのかよ」
初めて、そこで言い返す。
ルイが止まる。
本当に、一瞬だけ困ったみたいな顔をした。
その顔があまりに見慣れなくて、タイキの胸の奥が妙にざわつく。
ルイはすぐに表情を整えようとする。
でも整えきれないまま、小さく息を吐いた。
「……できるようにしてる」
それは言い訳みたいでも、開き直りみたいでもなかった。
どこか、不器用にそのままだった。
タイキはそれを聞いて、また腹が立つ。
(ほんと、自分勝手)
思う。
こんなふうに揺らしてきて。
さっきまで散々ぶつかっておいて。
今さら少しだけ歩幅を合わせるみたいな顔をして。
(俺、これ嫌いになっていいやつだよな)
そう思うのに、服を掴んだ指先はまだ離れない。
ルイがその手に気づいている。
気づいてるくせに、何も言わない。
そのまま、今度は頬ではなく、こめかみの辺りへ口づける。
まぶたの端。
目尻。
触れるたびに、タイキの呼吸が少しずつ乱れる。
優しすぎる。
それが、いちばんたちが悪い。
(やめろ、マジで)
胸の奥で思う。
(優しくすんな)
怒っていたはずなのに。
警戒していたはずなのに。
こんな触れ方をされると、どこに怒りを置けばいいのかわからなくなる。
ルイの指が、タイキの顎を軽くなぞる。
その手つきはいやになるほど丁寧で、余計に落ち着かない。
「その顔」
不意に、ルイがこぼす。
タイキが少しだけ目を開ける。
ルイは近い距離でタイキを見ていた。
さっきみたいな冷えた笑いじゃない。
もっと静かで、どうしようもないものを見るみたいな目。
「受け入れるくせに、俺のこと嫌いって顔」
タイキの喉が詰まる。
図星だと思った。
認めたくないのに、あまりにもその通りだった。
「……うるせ」
小さく返す。
でもいつもの反発みたいな鋭さは、もう少し薄い。
ルイはそれ以上追わなかった。
ただ、やたら優しくタイキに触れる。
頬を撫でる。
耳の後ろを指先がかすめる。
髪に軽く触れて、また唇へ戻る。
触れ方が全部、甘い。
甘いのに、余計に苦しい。
タイキは眉を寄せたまま、されるがままでいる。
嫌なら押し返せばいい。
本当にそう思う。
なのに押し返さない。
さっき自分で言ったばかりだ。
どうやって抵抗すんだよ、と。
今だってそうだ。
ルイが優しいからじゃない。
優しくされて、楽になったわけでもない。
ただ、この夜を自分でももう完全には切り捨てられないことを、身体のどこかが知ってしまっている。
それが悔しい。
ルイが最後にもう一度だけ、少し長くキスをする。
深くはない。
でも、今までのどのキスより静かで、長く感じた。
それから、ふっと離れる。
タイキの服を掴んだ指先だけが、遅れて力を失う。
ルイはそのまましばらく近くにいたけれど、何も続けてこなかった。
満足したみたいに、小さく息を吐いて。
ソファからゆっくり身体を離す。
タイキは瞬きを忘れたみたいに、ルイを見る。
ルイは立ち上がり、何事もなかったみたいな顔でキッチンの方へ歩く。
グラスを取って、水を注ぐ音がする。
(……は?)
胸の奥が妙にざわつく。
さっきまで構えていた。
どうせ。
また。
いつもの夜になると思っていた。
なのに。
(……なんだよ)
タイキはゆっくり息を吐く。
ルイの背中を見る。
キッチンの明かりの中。
ルイは何事もない顔で水を飲んでいる。
それだけだ。
それ以上、何もしない。
(……それだけ?)
胸の奥が、さっきより落ち着かない。
わけがわからない。
いつもみたいに乱暴に奪われた方が、まだ整理できた。
腹を立てて、嫌悪して、帰ればよかった。
なのに今日は、途中で止まった。
止められた。
しかも、優しくされたままで。
そのせいで余計に、行き場がない。
ソファの上で、タイキはまだルイの方を見ていた。
キッチンに立つ背中。
水を飲む喉の動き。
伏せられた睫毛。
何もなかったみたいな横顔。
なのに、さっきまでの熱だけが、頬にも唇にも残っている。
タイキは自分の手を見下ろした。
少し前まで、ルイの服を掴んでいた指先。
じわりと熱くなる。
腹が立つ。
本当に、自分勝手だと思う。
でも今、いちばん落ち着かないのはたぶん――
自分の方だった。
「なんだよ」
キッチンの明かりの中で、水を飲み終えたルイが口の端を少しだけ上げる。
横目で、まだソファから動けないタイキを見る。
「足んねぇの?」
その言い方は軽い。
冗談みたいな顔。
でも、タイキは何も返せなかった。
返せるわけがない。
さっきまで、どうせここで終わりだと思っていた。
キスだけで離れたくせに、それ以上何もしてこないルイに勝手に落ち着かなくなって、勝手に腹を立てて、勝手にざわついていたのは自分だ。
その沈黙を見たルイが、グラスを持ったまま戻ってくる。
ソファがゆっくり沈む。
「いつも、ここで帰るくせに」
そう言って、ルイは水のコップをローテーブルに置いた。
それから、タイキの方を見る。
視線が合う。
ルイは少しだけ目を細めた。
次の瞬間、何も言わないまま、タイキの肩を押す。
背もたれに倒れ込むみたいに、ゆっくり。
でも拒むには少し強い力。
反射でタイキは、またルイの手首を掴んだ。
けれど、その手には力が入らない。
振りほどくための手じゃないことが、自分でもわかるくらい弱い。
ルイはその手を見て、少しだけ笑った。
それから、タイキの首元へ顔を沈める。
あたたかい呼吸が、皮膚に触れる。
「……お前、ほんと好きじゃん」
低い声が、首筋に落ちる。
「よかったな。俺がいて」
まるでタイキが、自分からそれを欲しがってるみたいな言い方だった。
好きモノみたいに。
(ふざけんな……)
タイキは心の中で舌打ちする。
腹が立つ。
ほんとに、腹が立つ。
なのに身体は、そのまま動けない。
押し返したい。
言い返したい。
でも、そうしきれない自分を、ルイはたぶんもう知っている。
タイキは唇を噛んだまま、ルイが与えてくる熱をただ受け止める。
それ以上、何も言わずに。
⸻
そのまま、二人の夜は静かに更けていった。
言葉は少ないまま。
途切れ途切れの呼吸と、近すぎる距離だけが部屋に残る。
タイキは途中から、もう何を考えているのかわからなくなっていた。
怒っていたはずなのに。
嫌だと思っていたはずなのに。
優しくされるたびに、その輪郭だけが少しずつ曖昧になる。
それがまた、腹立たしかった。
そして、ある程度その夜が落ち着いたあと。
ルイがタイキから離れる。
(……嘘だろ)
天井を見たまま、タイキは思った。
いつもなら、ここで終わりだ。
ルイはソファに深く座って、足を組んで、何もなかったみたいな顔に戻る。
タイキが呼吸を整えて、「帰る」と言うまで、位置も空気も変わらない。
そういう夜ばかりだった。
それなのに。
ルイはまだ呼吸の整わないタイキの手を取った。
ぐい、と自分の方へ引き寄せる。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
次の瞬間、タイキの身体はルイの肩にもたれかかる形になっていた。
ルイの腕が、そのまま肩へ回る。
ただ、それだけ。
抱きしめるでもなく。
甘い言葉を言うでもなく。
ただ、逃がさないみたいに肩を抱いたまま、ルイは正面を向いている。
タイキは動けなかった。
ルイの胸元の服を、ただ指先で掴む。
(……ちょっと待て)
思考が追いつかない。
(……今日、)
キスも。
それ以外も。
(全部、優しすぎなんだけど)
動揺しかない。
こんなの、知らない。
今までのルイじゃない。
今までの夜じゃない。
黙り込んでいるタイキに、ルイが少しだけ首を傾げる。
「何」
その声は落ち着いていた。
さっきまでの余韻を隠す気もないまま、妙に平然としている。
「まだ、足んねぇの?」
とりあえず聞いておく、みたいな言い方。
そこでタイキは、はっとする。
一気に現実へ引き戻されたみたいに、身体が動いた。
勢いよくソファから立ち上がる。
「いや、違う!」
声が裏返る。
自分でもびっくりするくらい、動揺がそのまま出た。
少し乱れた服のまま後ずさる。
足元がもつれて、危うく転びそうになる。
慌ててリュックを掴んで、ほとんど反射でそれを顔の前に持ち上げた。
隠す意味なんてないのに。
でも今、ルイに顔を見られるのが無理だった。
「は?」
ソファに残されたまま、ルイが不思議そうな顔をする。
本当に意味がわからない、みたいな顔だ。
それがまた腹立たしい。
「帰る! じゃあなっ」
言い捨てるみたいにそう言って、タイキはそのまま後ろへ下がる。
いつもと同じ流れのはずなのに、どこか全部おかしい。
靴を引っかけるみたいに履いて、ドアノブを掴む。
逃げるようにして、ルイの家を後にする。
⸻
(無理)
階段を駆け下りながら、タイキは心の中でそう吐き捨てた。
リュックを勢いよく背負う。
片手で服の裾を直しながら、足早に下へ降りていく。
心臓がうるさい。
いつもなら、もっと違う。
腹が立って、苦しくて、でも整理はつく。
“最低だ”って思いながら帰れる。
でも今日は違う。
優しかった。
近かった。
最後まで、いつもみたいに突き放されなかった。
それが、何より厄介だった。
(なんなんだよ、あいつ……)
階段を降りる足が速くなる。
夜風に当たれば少しは落ち着くかと思ったのに、むしろ胸の奥はさっきより騒がしい。
ルイの肩の感触。
回された腕。
低い声。
自分の服を掴んでいた指。
思い出したくないのに、全部残っている。
腹が立つ。
ほんとに、自分勝手だ。
優しくするならするで、最初からそうしろよ、とすら思う。
でも、いちばん腹が立つのは。
そんな夜を、少しでも“違う”と感じてしまった自分だった。
タイキは一度も後ろを振り返らないまま、マンションを出た。
その背中だけが、なぜかひどく焦っていた。
玄関が閉まる音が、部屋の奥に細く残った。
ルイはしばらく、そのままソファに座っていた。
さっきまでタイキがいた場所。
まだ少しだけ熱の残っているクッション。
テーブルの上には飲みかけの水。
乱れた空気だけが、部屋に置き去りになっている。
「……なんだよ」
ぽつりと落ちた声は、呆れたみたいに低かった。
それから少しだけ笑う。
「優しくしたら逃げんのかよ」
誰に聞かせるでもない独り言。
でもその声には、皮肉だけじゃなくて、少しだけ困ったみたいな響きもあった。
ルイは背もたれに身体を預けて、天井を見る。
自分でもわかっていた。
今日の夜は、いつもと違った。
違わせたのは自分だ。
押し切ることもできた。
いつもみたいに、タイキが何か言う前に流してしまうことだってできた。
でも今日は、そうしなかった。
怒ってる顔をしていたから。
言い返してきたから。
自分の前で、初めてちゃんと怒ったから。
だから少しだけ、止まった。
少しだけ、合わせた。
少しだけ、優しくした。
それで逃げるのかよ、とルイは思う。
思うのに、その一方で、タイキがあんなふうに慌てて立ち上がった理由も、わからなくはなかった。
あの顔。
本気で嫌がってる顔とも、違った。
怒ってるのに、戸惑っていて、逃げたいくせに、完全に突き放しきれていない顔。
ルイは片手で口元を覆う。
「……めんどくせぇ」
そう吐き出したくせに、声はどこか柔らかかった。
めんどくさいのは、タイキじゃない。
たぶん、自分だ。
今までずっと、自分のやり方でしか近づかなかった。
欲しい時に呼んで。
苛立った時にぶつけて。
何も言わずに帰らせて。
それでも、タイキが来ることに甘えていた。
なのに今日、少しだけ歩幅を変えたら、今度は逃げられた。
優しくしたら逃げる。
でも、乱暴にしたら怒る。
じゃあどうしろっていうんだ、と一瞬思う。
その瞬間、ルイは自分で自分に苦く笑った。
どうしろって。
そんなの、とっくにわかってる。
最初からちゃんとしろ、って話だ。
でもそれができるなら、こんなふうになっていない。
ルイは目を閉じる。
タイキが最後、リュックで顔を隠していた姿が浮かぶ。
「帰る!じゃあなっ」って、ほとんど逃げるみたいに出ていった背中。
あれはたぶん、怒っていた。
でもそれだけじゃない。
自分でも整理できてない顔だった。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけざわつく。
嫌われたくない、と思った。
その感情が思った以上にはっきり形を持って浮かんで、自分で少しだけ面食らう。
今さらかよ、と思う。
とっくに嫌われてもおかしくないことばっかしてきたくせに。
今さら少し優しくしたくらいで、何かが戻るわけでもないくせに。
それでも。
今日のタイキは、いつもと違う意味で頭から離れなかった。
服を掴んだ手。
「優しくできんのかよ」って返してきた顔。
最後に慌てて逃げた背中。
ルイはゆっくり息を吐く。
「……次、どうすりゃいいんだよ」
今度の独り言は、もう完全に自分に向いていた。
答えなんて出ないまま、部屋の静けさだけが深くなる。
ソファに残ったルイは、そのまましばらく動かなかった。
⸻
タイキ帰り道モノローグ回
夜道は静かだった。
静かなくせに、タイキの頭の中だけがうるさい。
マンションを出てから、かなり早足で歩いていた。
走るほどじゃない。
でも、立ち止まったらさっきのことを全部思い出してしまいそうで、止まれなかった。
(無理、無理、無理)
心の中で何度も言う。
何が無理なのか、ちゃんと説明できないのに、とにかく無理だった。
今までの夜なら、もっとわかりやすい。
腹が立って、苦しくて、最低だと思って、でも最後には「また来てしまった自分」にむかついて終わる。
そういう整理の仕方ができた。
でも今日は違う。
キスも。
触れ方も。
最後のあの腕も。
全部、優しすぎた。
「……なんだよ、あれ」
小さく漏れた声は、夜の中にすぐ消えた。
優しくされたから嬉しい、とか、そんな単純な話じゃない。
むしろ逆だ。
腹が立つ。
今さら何なんだよって。
今まで散々好き勝手やってきたくせに。
こっちが怒ったから?
拒否したから?
だから急に少し優しくしてみました、みたいな顔されたら、余計にむかつく。
それなのに。
タイキは唇を噛む。
むかつくのに、頭から離れない。
ソファで肩を抱かれた時のこと。
ルイの服を掴んでしまった自分の手。
あの時、ルイが少しだけ満足そうに笑った顔。
思い出した瞬間、胸の奥が熱くなる。
それが嫌で、タイキは歩く速度をさらに上げた。
(ほんと、自分勝手)
ルイのことをそう思う。
でも同時に、自分にもそう思う。
嫌なら押し返せばよかった。
嫌なら帰ればよかった。
途中で立ち上がって、もう無理って言えばよかった。
なのに最後までそこにいた。
あまつさえ、服まで掴んだ。
「……最悪」
今度は少しだけはっきり声に出た。
通り過ぎた自転車のライトが一瞬だけ横顔を照らして、すぐに過ぎる。
タイキは俯いた。
嫌いになっていいはずだ、と思う。
こんなふうにされて、優しくされたくらいで揺らぐ方がどうかしてる。
ちゃんと怒ったばっかりじゃん。
ちゃんと「ふざけんなよ」って言えたばっかりじゃん。
なのに。
今日だけ、帰り道の感じが違う。
腹が立つのに、どこか息が詰まる。
苦しいのに、完全に切り捨てたくない自分がいる。
その矛盾がいちばんしんどかった。
(あいつ、多分……)
タイキはふと、さっきのルイの顔を思い出す。
“落ち着くから”って言った時の声。
“今日、やめとく?”って止まった時の目。
最後、肩を抱いたまま何も言わなかった横顔。
あれが全部演技だったら、逆にすごい。
でも、そうじゃない気もする。
そう思ってしまうことが、また悔しい。
「……知らねぇよ」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
信号が赤に変わる。
横断歩道の前で足を止めた瞬間、ようやく少しだけ呼吸が整う。
止まってしまうと、静けさが戻ってくる。
ルイの部屋じゃない静けさ。
夜の街の、他人の生活の静けさ。
その中でタイキは、ゆっくり目を閉じた。
今日の夜は、たぶん今までと違った。
それは認める。
認めるけど、だからって何かが許されたわけじゃない。
今までのことが消えたわけでもない。
むしろ、消えないまま増えた。
優しくされた記憶が増えたせいで、余計にめんどくさくなった。
それが最悪だった。
信号が青に変わる。
タイキは顔を上げて、また歩き出した。
明日はスタジオだ。
朝になれば、また何事もなかったみたいに会うんだろう。
ルイはたぶん普通の顔をする。
自分も普通の顔をしなきゃいけない。
その想像だけで胃の奥が少し重くなる。
でも、それでも。
今日はたぶん、前みたいには戻れない。
そう思ってしまった自分が、いちばん厄介だった。
⸻
翌日。
スタッフの声。
鳴り始める音源。
床を踏む足音。
水のペットボトルが置かれる音。
タイキは少し早めにスタジオに入った。
鏡の前でストレッチをしながら、なるべく何も考えないようにする。
寝不足ではない。
ちゃんと寝た。
でも、頭のどこかがずっと落ち着かない。
昨日の夜のことを、まだ身体が覚えている。
肩。
頬。
唇。
最後に回された腕。
そこまで思い出して、タイキは小さく舌打ちしたくなる。
「おはよ」
後ろから声がして、肩がわずかに揺れる。
振り返る。
ルイだった。
いつもの顔。
柔らかい目元。
感じのいい声。
誰が見ても、ただの“表のルイ”。
「……おはよ」
タイキも返す。
ちゃんと普通の声で。
たぶん、普通にできた。
ルイはそれ以上何も言わない。
でも一瞬だけ、タイキの顔をちゃんと見る。
昨夜の続きが、そこに一瞬だけ差し込まれる。
ほんの一瞬。
それだけでタイキの心臓は嫌なくらい反応する。
ルイはすぐに視線を外して、スタッフに「今日の流れ先に確認します」と穏やかに声をかける。
完璧な切り替え。
タイキはそれを見ながら、胸の奥が少しだけざらつくのを感じた。
昨日の夜、あんな顔してたのに。
今はもう、こんなふうに何もなかったみたいに笑えるんだ。
そう思って腹が立つ。
でもたぶん、ルイも同じように“普通”をやってる。
それくらいは、もうわかる。
少し離れたところでカノンが入ってきて、「おはよー」と空気を軽くする。
ゴイチも続き、アダムも静かに定位置へ向かう。
いつもの朝だ。
なのに、タイキにとっては全然いつも通りじゃない。
ルイが視界の端に入るだけで、昨夜のソファが一瞬よみがえる。
水を飲む喉の動き。
“優しくしたら逃げんのかよ”って言いそうな顔。
タイキはタオルを首にかけ直しながら、少しだけ息を吐いた。
今日もちゃんとやるしかない。
仕事は仕事だ。
ライブの準備もある。
そんなことで揺らいでる場合じゃない。
わかってる。
でも。
鏡越しに一瞬だけ目が合ったルイが、昨日より少しだけ静かな顔をしていたのを見て、タイキはまた落ち着かなくなる。
普通の顔の下で、たぶん何かは続いている。
その気配だけが、スタジオの朝の空気に薄く混ざっていた。
スタジオは、いつもの練習場とはまるで違う空気だった。
白く大きなバック紙。
天井から吊られた照明。
レフ板を持って動くスタッフ。
メイクの匂いとヘアスプレーの甘い匂いが、乾いた空気の中に薄く混ざっている。
デビュー後、少しずつこういう現場にも慣れてきたとはいえ、ライブ前の時期に入ると一つひとつの仕事の意味が前よりずっと重い。
ビジュアルも、空気感も、記事の内容も。
全部が“今のSTARGLOW”として切り取られる。
今日はソロカットとペア寄りのカット、それからモデルとの絡みもあるらしい。
「次、ルイくんお願いします」
スタッフに呼ばれて、ルイが軽く「はい」と返す。
その声がもう、現場仕様の声だった。
穏やかで。
感じがよくて。
自然に人の目を引く温度。
タイキは少し離れた位置で、次の順番待ちをしながらそれを聞いていた。
メイクを直してもらったばかりの頬に、まだブラシの感触が残っている。
ルイの相手は女性モデルだった。
背が高くて、すらっとしていて、笑うと華やかな人。
明るい色の衣装が似合っていて、現場慣れしているのが一目でわかる。
距離の詰め方も、立ち姿も、カメラの抜かれ方も上手い。
ルイと並ぶと絵になる。
それが、タイキには余計に腹立たしかった。
「じゃあ最初、少し距離保って」
カメラマンが声をかける。
ルイは女性モデルの隣に立った。
肩の力は抜けているのに姿勢は綺麗で、少し顎を引いただけで空気が締まる。
女性モデルも自然に笑って、二人の間にさらっとした大人っぽい空気ができる。
「いいね、すごくいいです」
シャッター音が連続する。
タイキは腕を組んだまま、それを見ていた。
別に珍しいことじゃない。
仕事だ。
撮影だ。
ルイがこういう現場で強いことなんて、今さら説明されるまでもない。
わかってる。
でも、わかってることと平気なことは別だ。
「ルイくん、目線もう少しモデルさんの方へ」
「はい」
ルイが少しだけ視線を流す。
その角度が綺麗すぎて、タイキは思わず眉を寄せた。
女性モデルもそれに応えるように笑う。
肩が少し触れそうな距離。
表情の作り方も、呼吸の合わせ方も自然だ。
スタッフがモニターを見ながら言う。
「距離、もう少し近くしてみましょうか」
その瞬間だった。
タイキの顔が変わる。
ほんの少しだけ。
本当に、少しだけ。
でも近くで見ていたら、たぶんわかる。
さっきまでただ見ていた顔が、そこで静かに固くなる。
ルイが女性モデルとの距離を詰める。
肩ひとつぶん、いや、それより少し近いくらい。
モデルの手がルイの腕に軽く添えられる。
「そうそう、そのまま」
シャッターがまた鳴る。
タイキの喉が、ひとつ動いた。
昨日までの夜が、一瞬で頭をよぎる。
肩に触れる手。
近い呼吸。
“優しくしたら逃げんのかよ”って言いそうな顔。
なのに今、ルイは何の迷いもなく別の誰かの隣で笑っている。
仕事だ。
そんなこと、わかってる。
なのに胸の奥が、急にざらついた。
「ルイさん、もう一枚撮ろ!」
女性モデルが明るく声を上げる。
ルイも柔らかく笑う。
「もちろん」
その言い方が、現場では正解すぎて余計にむかつく。
女性モデルがルイの腕を軽く引くみたいにして立ち位置を変える。
また近い。
さっきよりさらに。
タイキは無意識に視線を逸らして、それからまた戻した。
見たくない。
でも見てしまう。
見ない方が不自然だと思う自分もいる。
でもたぶん、本当は。
(……見てらんねぇ)
心の中で、ぽつりと思う。
その時だった。
「タイキくんも一緒に撮ろう!」
別のスタッフがぱっと声を上げる。
「え?」
タイキが顔を上げる。
「今の雰囲気すごくいいから、そのまま三人でいきたい」
さっきまでルイ × モデルだった画が、一気に変わる。
ルイ × タイキ × モデル
タイキは一瞬その場で止まった。
「タイキ、こっちお願い!」
呼ばれて、断れる空気じゃない。
仕事だ。
当然だ。
わかってる。
でも心の準備なんて、まったくできていない。
歩いていく足が、ほんの少しだけぎこちない。
それでも現場の誰もそんなことには気づかない。
タイキはいつもの明るい顔を作って、自然に輪の中へ入る。
「どんな感じにします?」
スタッフがモニターを見ながら角度を探る。
「うーん、じゃあタイキは反対側入って、三角のバランスで」
女性モデルが真ん中寄り。
ルイが片側。
タイキが反対側。
近い。
思った以上に近い。
「いいね、そのままもう少しだけ寄ってもらって」
スタッフの声に合わせて、三人の距離が詰まる。
ルイがすぐ横にいる。
衣装の袖が視界の端に入る。
香水じゃない、でも整えられたルイの匂いがほんの少し近い。
(近い……)
タイキは平静を装いながら、内心だけぐちゃぐちゃだった。
「タイキ、もう少しルイくん側向ける?」
「はい」
言われた通りに少し身体を傾ける。
それだけで、距離がまた縮まる。
ルイは何も言わない。
でも、わずかに口元が笑っていた。
その笑みが腹立たしい。
絶対わかってるだろ、とタイキは思う。
この距離で、自分が落ち着かないことくらい。
「いいねー。じゃあ次、タイキ、ルイの肩に手置いてみようか」
場が、一瞬だけ止まった気がした。
タイキの思考も止まる。
「……え?」
思わず出かけた声を、すぐに飲み込む。
スタッフは何もおかしいと思っていない。
三人のバランスとして、ごく自然な指示だ。
「軽くでいいよ、ラフに」
ラフに、って何だよ。
タイキは内心でそう思いながら、ゆっくり手を上げる。
ルイの肩に触れる。
布越しの感触。
熱。
近すぎる横顔。
ルイが少しだけ笑う。
本当に、少しだけ。
誰にもわからないくらいの笑い。
でもタイキにはわかる。
(……なんだよ)
その笑いだけで、心臓が無駄にうるさくなる。
女性モデルはそんな二人の間に立ちながら、慣れた顔でポーズを決めている。
華やかで、綺麗で、絵になる。
カメラマンが乗ってくる。
「いいね、すごくいい! そのまま!」
「ルイくん、目線もう少しこっち」
「タイキ、その手すごく自然」
「めっちゃいいよ!」
全然よくない、とタイキだけが思っていた。
自然なわけあるか。
自分の手のひらが、ルイの肩にある。
ルイの体温が、ありえないくらい近い。
そのうえ真ん中にはさっきまでルイと距離を詰めていた女性モデル。
意味がわからない。
距離が、バグってる。
でもカメラの前に立つ以上、崩すわけにはいかない。
タイキは笑う。
作る。
ちゃんと“撮られる顔”をする。
その横で、ルイはあまりにも自然だった。
それがまた、腹立たしい。
数カット撮ったあと、女性モデルが少し身を寄せる角度になった。
ルイの腕に触れる。
笑う。
ルイも応じる。
タイキの手はまだ、ルイの肩にある。
なのに、自分だけが外側みたいな気がして、胸の奥が急に熱くなった。
(……無理)
次のシャッターが切られる前に、タイキの中で何かが限界に近づく。
笑ってる場合じゃない。
このままここにいたら、顔に出る。
それがわかるくらいには、もう余裕がなかった。
「ごめん、ちょっと水飲んできます」
タイキはカメラマンの声が切れた一瞬でそう言った。
現場は流れている。
誰も深く止めない。
「はーい、じゃあ一回ルイくんとモデルさんだけ戻ります!」
スタッフの声に紛れて、タイキはその場を外れる。
歩幅は普通を装っていた。
でも本人だけはわかっている。
かなりギリギリだ。
スタジオの外へ出る。
扉が閉まった瞬間、ようやく強く息を吐いた。
(……見てらんねぇ)
壁に背中を預ける。
何やってんだ、と思う。
仕事だろ。
雑誌だろ。
モデルだろ。
ルイが女の人と距離近く撮るなんて、当たり前にある。
今後だっていくらでもある。
そんなこと、わかってたはずだ。
なのに今の自分は、どう見てもおかしい。
胸の奥がざわつく。
腹が立つ。
息苦しい。
笑えない。
これ、何なんだよ。
そこまで考えたところで、タイキは自分で答えを見た気がして、余計に顔をしかめた。
嫉妬。
そんな単語、認めたくない。
けれどたぶん、他に言いようがなかった。
スタジオの中では、まだ撮影が続いている音がする。
スタッフの声。
シャッター。
笑い声。
その中で、ルイがどんな顔をしているのかまで想像してしまって、タイキは舌打ちしたくなる。
その時だった。
中の音が少し途切れる。
「少し休憩していいですか」
ルイの声がした。
タイキの心臓が、どくんと強く鳴る。
聞き間違いじゃない。
今のはルイだ。
スタジオの中が少しざわつく。
スタッフが「あ、はーい」と返している。
次の瞬間、ドアが開く音がした。
タイキは反射みたいに顔を上げる。
ルイが、外へ出てくる。
撮影の途中のまま。
整った髪も、衣装も、まだ現場の空気をまとったまま。
なのに視線だけは、まっすぐタイキを捉えていた。
ルイ側の執着が、初めて動く。
スタジオの外の廊下は、撮影ブースの熱とは別の静けさに包まれていた。
壁際に立てかけられた機材ケース。
少し遠くでスタッフが行き来する足音。
扉一枚向こうから漏れてくるシャッター音と笑い声。
タイキは自販機の横で、開けてもいない缶の水を握ったまま立っていた。
冷たいはずなのに、手のひらだけが妙に熱い。
その前に、ルイが立つ。
撮影途中のままの衣装。
整った髪。
現場用のやわらかい表情を、今はもうほとんど外している。
二人の間に流れる空気は、スタジオの中とはまるで違った。
ルイが先に口を開く。
「あんな顔するなら」
低い声だった。
「最初から見るなよ」
その一言に、タイキの眉がぴくりと動く。
「……見てねぇよ」
反射みたいに返す。
でもルイは即座に言う。
「見てた」
短い。
断言だった。
タイキはルイを見ない。
視線を少し逸らしたまま、缶を持ち直す。
ルイが一歩だけ近づく。
「嫉妬か」
その言い方が、やけに静かで腹が立つ。
試すみたいで。
見透かすみたいで。
タイキは鼻で笑うように息を吐いた。
「調子に乗んな」
声は低かった。
でも、自分でもわかる。
刺されたところがあるから、こんな声になる。
「俺が嫉妬する理由がどこにあんの?」
そこでようやくルイを見る。
睨むほどじゃない。
でも、逸らしきれない目。
「……お前の何でもないだろ」
言い切ったあと、タイキはまた目を逸らした。
その瞬間。
ルイの空気が、少しだけ変わる。
「……何でもない?」
低く、繰り返す。
タイキの肩がわずかに動く。
ルイはそのまま続けた。
「昨日」
短く、それだけ。
タイキの手が止まる。
握っていた缶が、少しだけ音を立てた。
ルイが横から、タイキの顔を覗き込むように少し身を傾ける。
「俺ん家来て」
少し間。
「逃げたやつが?」
その言葉が、静かに刺さる。
逃げた。
その通りだ。
否定できない。
タイキの喉がきゅっと狭くなる。
ルイはまだ見ている。
逃がさないみたいに。
でも声は低いままだ。
タイキはそこで、ゆっくり顔を上げた。
真正面から、ルイを見る。
もう逸らさない。
「俺」
ほんの少し間を置く。
「お前の何なの」
その言葉は、思っていたよりずっと静かに出た。
怒鳴るでもなく。
責めるでもなく。
でも逃げない。
ただ、まっすぐだった。
ルイの表情が、ほんの少し止まる。
廊下の空気が張る。
スタジオの中のシャッター音が遠くなる。
誰かが笑った気配も、今は別の世界みたいに聞こえた。
タイキはそのままルイを見ている。
逸らさない。
「嫉妬とか」
小さく言う。
「言うならさ」
手の中の缶を少しだけ持ち上げる。
落ち着かない指先を誤魔化すみたいに。
「まずそこだろ」
ルイは何も言わない。
ただ、タイキを見ている。
数秒。
ほんの数秒。
それなのに、やけに長い。
それからルイが小さく息を吐いた。
「……は」
乾いた笑いだった。
でも、その目はさっきとは少し違っていた。
いつもの余裕だけじゃない。
押し切れると思っていた何かを、少し外されたみたいな顔。
「面倒くせぇこと聞くな」
小さく言う。
でも、その言葉の奥に、ほんの少しだけ迷いが混じっていた。
タイキはそれを見た瞬間、胸の奥が逆にすっと冷えた。
あぁ、そうですか。
結局そこは言わないんだ、と。
期待していたわけじゃない。
そんなつもりはなかった。
でも、今の沈黙は十分だった。
タイキは鼻で笑う。
「だろうな」
ルイの目がわずかに細くなる。
タイキはもう一度、今度は少しだけはっきり笑った。
冷たくはない。
でも、簡単には傷ついてやらないみたいな笑い方だった。
「そもそも面倒くさいくせに」
一歩だけ下がる。
「更にめんどくせぇこと聞いてくんな」
言い終わる頃には、タイキの声はもうかなり整っていた。
怒りでも、揺れでもなく。
切り替えた声。
ルイはそれを聞いて、何か言い返そうとしたみたいに唇を動かした。
けれど結局、何も言えないまま止まる。
タイキはそんなルイを一瞬だけ見て、くるりと背を向けた。
その背中にルイの視線が刺さる。
でもタイキは止まらない。
自分から、撮影現場に戻る。
⸻
扉を開けた瞬間、また現場の熱が戻ってきた。
照明。
スタッフの声。
カメラの位置調整。
メイク直しの呼びかけ。
「タイキくん、大丈夫?」
近くにいたスタッフが気づいて声をかける。
タイキはすぐに笑った。
「すみません、ちょっと水だけ」
「オッケー。じゃあ次、タイキくんのカットいけそう?」
「はい、大丈夫です」
返事が早い。
声も明るい。
さっきまで廊下でルイと向き合っていた男と、同じ人間とは思えないくらい自然だった。
タイキはそのまま撮影位置へ入る。
女性モデルが先に待っていた。
さっきルイと撮っていた人だ。
「大丈夫? ちょっと疲れた?」
明るくそう聞かれて、タイキは軽く首を振る。
「全然。お願いします」
笑って返す。
その笑いが、今度は完全に仕事の顔だった。
スタッフがぱっと空気を切り替える。
「じゃあ次、タイキくんとモデルさんでいきます!」
「テーマはちょっとだけ近め、でも爽やかに!」
「タイキくん、今の表情すごくいいからその感じで!」
タイキは立ち位置につく。
女性モデルが隣に来る。
さっきまでなら、その距離に落ち着かなさがあったかもしれない。
でも今のタイキは違った。
もう迷わない。
ルイに揺らされたままの顔では戻らない。
戻ってたまるか、と思う。
「じゃあタイキくん、少しだけモデルさんの方へ肩入れて」
「はい」
「いいね、そのまま笑って」
言われた通りに身体を寄せる。
自然に。
カメラの前で崩れない、完璧な仕事の距離。
女性モデルが少し驚いたように目を見て、それから楽しそうに笑う。
「タイキくん、撮られ慣れてるね」
「最近ようやくです」
軽く返す。
それすら自然だ。
スタッフが乗ってくる。
「いい! すごくいい!」
「タイキくん、その目線めっちゃいい」
「もう少しだけ距離近くしてみようか」
タイキは一瞬たりともためらわなかった。
モデルに少しだけ近づく。
肩が触れそうな距離。
でもいやらしくない。
爽やかで、でも確実に目を引く距離感。
表情の作り方も、視線の落とし方も、全部プロだった。
その場の空気が、少し変わる。
「あ、やばい、今のすごい好き」
モニター前のスタッフが声を上げる。
「タイキくん、今日めっちゃいいね」
タイキは笑う。
「ほんとですか?」
その笑顔がまた、現場にハマる。
少し離れた位置で戻ってきたルイが、それを見ていた。
タイキは気づいている。
気づいているけど、見ない。
カメラの前だけを見る。
「次、モデルさんの肩に軽く手添えて」
「こうですか?」
「そうそう、めっちゃいい」
女性モデルが「いい感じ」と笑う。
タイキもそれに合わせて少しだけ笑い返す。
全部、仕事。
全部、正しい。
全部、ルイがさっきまでやっていたことと同じ。
でも今この瞬間だけは、それがタイキの反撃だった。
言葉じゃない。
怒りでもない。
ちゃんと仕事をして、ちゃんと魅せて、ちゃんと“自分はお前に揺らされっぱなしじゃない”って見せるやり方。
ルイはその場から動かない。
スタッフがタイキを褒めるたび、女性モデルが楽しそうに表情を変えるたび、ルイの目だけが静かに細くなる。
タイキはようやくそこで、少しだけ気分がよくなった。
面倒くさいのはそっちだけじゃない。
そう言ってやるみたいに、タイキはカメラへ向かってもう一度綺麗に笑った。
シャッター音が続く。
「いいね! そのまま!」
カメラマンの声が飛ぶ。
ライトの中。
タイキは自然にモデルの腰に手を添えていた。
顔も近い。
完璧な笑顔。
モデルはすっかりノリノリだ。
「タイキくんめっちゃやりやすい!」
カシャッ。
またシャッターが切られる。
モデルが少し顔を近づけてくる。
「タイキくん彼女いるんですか?」
軽いノリ。
でもかなり近い距離。
カメラマンが笑う。
「撮影中に聞く?」
モデルも笑う。
「だって気になりますもん!」
タイキは少しだけ目を細める。
「どうでしょう」
軽く返す。
営業スマイル。
モデルが嬉しそうに言う。
「えー、いない感じですか?」
また距離が近い。
肩が触れる。
タイキは自然に、ほんの少しだけ体を寄せた。
カメラマンが叫ぶ。
「いい!! その距離!!」
カシャカシャカシャ!!
モデルがさらに笑う。
「じゃあ私狙っちゃおうかな〜」
現場の空気は軽い。
スタッフも笑っている。
でも。
スタジオの端。
ルイだけが黙っていた。
腕を組んだまま。
その視線は、ずっとタイキ。
タイキがモデルに笑う。
その瞬間、ルイの眉がわずかに寄る。
⸻
撮影が一段落する。
「OK! いい感じ!」
カメラマンが満足そうに言う。
モデルはまだ笑っている。
「楽しかったー!」
タイキは軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
その時。
横から声がした。
「タイキ」
低い声。
タイキの肩がわずかに動く。
振り向く。
ルイだった。
距離が近い。
さっきまで黙っていた顔。
タイキは軽く言う。
「何」
ルイは少しだけ眉を寄せたまま言う。
「距離」
短く。
「近すぎ」
タイキの眉がぴくっと動く。
「仕事」
すぐ返す。
ルイは少し黙る。
それから小さく言う。
「……分かってる」
少し間。
それでも続ける。
「分かってるけど」
ルイはタイキを見る。
目が少し低い。
「近い」
その声は、さっきまでの余裕のある声じゃなかった。
タイキは一瞬だけそれを受けて、胸の奥が妙にざわつく。
でも、そこで引かなかった。
むしろ。
「そう?」
わざとらしくない程度に首を傾ける。
ルイの目が細くなる。
その空気を切るみたいに、モデルがまた割って入ってきた。
「タイキくん、次こっちの背景でも撮りましょ!」
明るく腕を取るでもなく、でもかなり近い距離で笑う。
「今の感じめっちゃ良かったし!」
スタッフもすぐに乗る。
「いいですね、じゃあその流れで追加何枚かいきましょう!」
「タイキくん、モデルさんと二人でもう少し遊んでみようか」
「距離感さっきくらい近めで!」
タイキはそこで、ちら、とルイを見る。
ルイはまだ黙っている。
でも目だけが、もう隠していなかった。
タイキはその視線を受けたまま、モデルの方へ顔を向ける。
「続けましょう」
にこやかに。
完全に仕事の顔で。
それがルイには、たぶんいちばん効いた。
モデルが嬉しそうに笑う。
「やった!」
またライトの中へ戻る。
今度はさっきより、タイキの方が余裕があった。
女性モデルの肩に自然に手を添える。
顔を寄せる。
目線を合わせて、カメラの前で綺麗に笑う。
「タイキくん、その表情いい!」
「もうちょいモデルさんの方寄れる?」
「そうそう、そのまま!」
モデルも完全に気分が乗っていた。
「タイキくん、ほんと上手〜」
「そういうの慣れてるんですか?」
「どうですかね」
軽く返す。
「慣れてるように見える〜」
「なんか、さっきよりもっといい!」
現場は盛り上がる。
スタッフも笑っている。
カメラマンもどんどん乗ってくる。
「いいよ! 今の笑い方すごい好き!」
「タイキくん、そのままモデルさん引き寄せる感じで!」
「最高!!」
タイキは一つひとつ、綺麗に応える。
完璧なプロの顔。
でも内心では、自分でも笑えるくらい意地が悪くなっているのをわかっていた。
見てろよ。
そう思ってしまう。
スタジオの端。
ルイの視線がずっと刺さっている。
その視線を感じながら、タイキはあえてモデルにもう少しだけ近づいた。
モデルが小さく笑う。
「タイキくん、距離感うまいですね」
「ありがとうございます」
さらっと返す。
その瞬間。
ルイが動いた。
足音も大きくない。
でも空気だけが変わる。
タイキのすぐ横。
スタッフのいる現場の中で、ルイはごく低い声で言った。
「来い」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
タイキの目がわずかに動く。
今、この場で?
スタッフもいる。
モデルもいる。
カメラマンも構えている。
なのにルイは、まるでいつもの夜の続きみたいな声音でそれを言った。
タイキの胸がどくんと鳴る。
でも次の瞬間には、口元だけで小さく笑った。
「撮影中だろ」
低く返す。
ルイの目が止まる。
タイキはそのままモデルの方を向いた。
「続けましょう」
明るく。
感じよく。
完全に現場の顔で。
モデルは何も知らないまま笑う。
「はい!」
カメラマンも「いいね、そのテンポ!」と乗る。
けれどその場の空気の中で、ルイだけが静かに温度を失っていった。
嫉妬が、一段階上がる。
タイキはもうわかっていた。
今の一言は完全に効いた。
でも、止めない。
「次、ソファ使ってラフな感じいきます!」
スタッフの声でセットが変わる。
モデルが先に座る。
タイキもその隣に入る。
「タイキくん、もう少しだけ近く寄れる?」
「肩預ける感じもありかも!」
「こうですか?」
自然に距離を詰める。
モデルが笑う。
「わ、近い」なんて言いながらも、楽しそうに応じる。
カメラマンがまた叫ぶ。
「それ!!」
「最高!!」
「今の雰囲気めっちゃいい!!」
そのたびに、ルイの表情が少しずつ固くなる。
周りから見れば、ただ静かに見守っているだけかもしれない。
でもタイキにはわかる。
我慢している。
かなり、ぎりぎりで。
モデルが調子に乗ってさらに言う。
「タイキくん、今度ほんとご飯行きたいです〜」
スタッフが笑う。
「それ記事に載らないやつね」なんて茶化す声も混じる。
タイキは軽く笑って、あえて答えを濁す。
「タイミング合えば」
それを聞いた瞬間だった。
「タイキ」
また、ルイの声。
さっきより低い。
さっきより短い。
現場の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
タイキが顔を上げる。
ルイはもう笑っていなかった。
「休憩」
その言い方は、スタッフに向けた言葉にも聞こえるし、タイキへの指示にも聞こえる曖昧な温度だった。
カメラマンが「あ、じゃあ一回区切りますか」と空気を拾う。
スタッフも「はい、メイク直し入ります!」と動き始める。
現場は回っている。
けれどその中心だけが、急に私情に触れたみたいに少しずれる。
タイキはそこでようやく立ち上がった。
「失礼します」
モデルに軽く会釈する。
モデルは少し不思議そうにしながらも「はーい」と笑って手を振る。
タイキが動く。
その一歩後ろを、ルイがついてくる。
⸻
控室のドアが閉まる。
そこで初めて、完全に二人きりになる。
外のざわめきが一枚向こうへ遠のいて、室内にはエアコンの音だけが残った。
タイキは入ってすぐには振り向かなかった。
壁際のテーブルに置かれた鏡やペットボトルが妙に無機質に見える。
背後で、ルイが低く言う。
「お前さ」
その声だけで、空気が張る。
タイキはゆっくり振り向いた。
ルイはドアの前に立ったまま。
逃がさないために塞いでいるわけじゃない。
でも、その立ち位置がもう十分圧だった。
「何」
タイキはあえて平坦に返す。
ルイの眉が、ほんの少し寄る。
「やりすぎ」
短い一言。
タイキは笑いそうになった。
呆れたみたいに。
「仕事だけど」
「分かってる」
「じゃあいいだろ」
「よくねぇよ」
そこだけ、ルイの返しが早かった。
その速さに、タイキの心臓がまた妙に大きく鳴る。
ルイは一歩、近づく。
「分かっててやってただろ」
低い声。
「さっきからずっと」
タイキは否定しなかった。
否定できない。
実際そうだったから。
その代わり、小さく鼻で笑う。
「お前が先に言ったんだろ」
ルイの目が細くなる。
「何を」
「嫉妬かって」
タイキはルイを見る。
真正面から。
「違うって言ったけど」
少し間。
「お前も大概じゃん」
その一言で、控室の空気がまた一段、濃くなる。
ルイは数秒黙った。
黙ったまま、タイキを見ている。
その目にはさっきまでの撮影用の柔らかさなんて一滴もない。
静かで。
低くて。
抑えているぶんだけ余計に危うい。
タイキは壁に寄りかかるでもなく、その場に立ったままルイを見返していた。
距離はまだ数歩ある。
でも、呼吸の温度だけはもう近い。
ルイが低く言う。
「煽って楽しいか」
タイキは口元だけで笑う。
「そっちこそ」
「俺が何」
「分かってるくせに、わざわざ聞いてくるとこ」
ルイの喉が動く。
その瞬間、タイキは確信する。
今日はここまで来るつもりじゃなかったはずなのに、もう十分に来てしまっている。
ルイの嫉妬も。
自分の意地も。
全部。
控室の空気は、ぴんと張ったままだった。
控室の空気は、ドアが閉まった瞬間からずっと張ったままだった。
照明の白さ。
テーブルに置かれたままのヘアスプレー。
鏡の前に並ぶ水のボトル。
どれもただの仕事場のはずなのに、この部屋だけ温度が違う。
タイキはルイをまっすぐ見たまま、低く言う。
「お前がさっきやってたこと、そのままやっただけだろ」
ルイの眉がわずかに動く。
タイキは続けた。
「俺はお前のなんでもないって話、したばっかり」
言い切ってから、少しだけ顎を引く。
それ以上は何も足さない。
もう十分だと思った。
「……話、終わり」
そう言ってルイの横を抜けようとした、その瞬間だった。
手首を掴まれる。
強い。
「っ……」
そのまま身体が引かれて、背中が壁に当たる。
鈍い音が控室の狭さを余計に際立たせた。
「離せ」
タイキはすぐに言う。
掴まれた手首を振りほどこうとする。
でもルイは離さない。
もう片方の手も壁にかかって、逃げ道が消える。
近い。
近すぎる。
タイキの鼓動が一気に速くなる。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
ルイの顔は思っていたより近くにあった。
撮影の時の完璧な表情なんてもうどこにもない。
整ってはいるのに、今はその整い方が妙に危うい。
「なんで……そんな顔してんの……」
タイキが呟く。
怒っているようにも見える。
でもそれだけじゃない。
何かを堪えているみたいな、そんな顔。
ルイの喉が小さく動く。
「見ててイラついたから」
低い声だった。
さっきまでのやり取りの続きみたいに、まっすぐで、飾りがない。
「さっき言ったよな」
ルイの指先に力が入る。
手首を掴む手は痛いほどじゃない。
でも逃がすつもりがないのはわかる。
「俺のなんでもないって」
視線がぶつかったまま、離れない。
「だったら俺だって何してもいいだろ」
その言い方に、タイキの胸がざらつく。
腹が立つ。
なのにその奥では、別のところも強く揺れる。
ルイはそのまま続ける。
「なんでさっき、あんな顔して逃げたんだよ」
タイキは息を呑む。
あの時の自分の顔なんて、見られていたくなかった。
見ないでほしかった。
自分でも整理できないような顔だったから。
「……わかんねぇよ」
出た声は低かった。
でも、嘘じゃない。
正直な声だった。
ルイの目がわずかに動く。
タイキは続ける。
「何でかなんて」
少し息を吐く。
「聞かれても」
肩を押さえられている。
手首もまだ掴まれている。
それでもタイキは少しだけ顔を上げた。
ルイとの距離が、さらに近くなる。
「お前だって」
短く言う。
「さっき」
目を逸らさない。
「イラついたって言っただろ」
ルイは黙る。
タイキの声は少しだけ低くなる。
「それと同じだよ」
少し間。
胸がまだ速い。
息も浅い。
それでも止めない。
「俺だって」
ルイの目を見たまま、小さく言う。
「見てて」
ほんの少しだけ喉が詰まる。
それでも。
言葉を落とす。
「イラついた」
その一言が、静かに部屋に落ちた。
ルイの手の力が、ほんの少しだけ止まる。
本当に、一瞬だけ。
さっきまで言葉を押し返してきた男が、そこで初めて黙った。
タイキはその沈黙をそのまま受け止める。
逃げない。
今さら逃げたくなかった。
数秒。
やがてルイが、ひどく低い声で言う。
「……それ言うなよ」
タイキの眉が寄る。
ルイはわずかに視線を落として、すぐにまたタイキを見る。
「勘違いするだろ」
その声には、さっきまでの苛立きとは別のものが混じっていた。
タイキの心臓が、妙なふうに跳ねる。
何を。
何を勘違いするんだよ。
そう聞き返したいのに、口が動かない。
ルイはその沈黙を見て、今度はすぐに返す。
「それ、嫉妬だろ」
「違う」
タイキは反射みたいに答える。
ルイの目が細くなる。
「じゃあ何だよ」
一歩も引かない声。
顔が近づく。
吐息がかかる距離。
あと少し動いたら、触れる。
タイキは動けなかった。
認めたくない。
でも完全に否定できるほど、もう心は綺麗じゃない。
ルイの視線が落ちる。
タイキの唇の少し手前で止まる。
キス寸前の距離。
張り詰めたまま、時間だけが伸びる。
「もう、お前んとこ行かない」
タイキは真っ直ぐにルイを見た。
ルイの表情が止まる。
「……は?」
短い声。
たぶん、本気で予想していなかった。
タイキは続ける。
「だから、もう」
ルイの胸を両手で押す。
今度ははっきりと、拒むための力で。
「お前とああいうことしない」
ルイの身体がわずかに引く。
その隙にタイキは手首を振り解いた。
距離がひとつ戻る。
でも部屋の空気は少しも緩まない。
「おかしいだろ」
タイキの声が震える。
怒りだけじゃない。
悔しさと、どうしようもなさが混ざっている。
「だって」
ルイは何も言わない。
タイキは真っ直ぐな目でルイを見た。
「二人で夢見て、ここまで来たのに」
その言葉に、ルイの肩がほんの少しだけ動く。
「ようやくデビューまでできたのに」
控室の白い照明の下で、タイキの目元が少しずつ赤くなっていく。
でも視線は逸らさない。
「仕事でいちいちグラついて」
息を飲む。
「お前に優しくされただけで揺れて」
声が少し掠れる。
それでも、まっすぐだった。
「なんで、今なんだよ……」
ルイは言葉を失ったまま、ただ立っている。
タイキは唇を噛んで、それから絞り出すように言う。
「こんなんだったら……」
目元が、はっきりと赤い。
「優しくされないほうが良かった」
その一言で、部屋の中の何かが決定的に変わった気がした。
ルイは何も返せない。
返さないんじゃない。
返せない。
さっきまでの勢いも、独占欲も、全部そこで立ち止まってしまったみたいに。
タイキはそんなルイを見て、少しだけ息を吐く。
怒っている。
まだ怒っている。
でも、それだけじゃない。
苦しい。
悔しい。
好きとか嫌いとか、そんな簡単な言葉じゃ追いつかないくらい、もうぐちゃぐちゃだった。
「帰る」
短く言う。
ルイは動かない。
止めない。
タイキはそのままドアへ向かう。
背中に視線は感じる。
でも振り返らない。
ドアノブに手をかけて、一度だけ強く息を吐く。
それから控室を後にした。
扉が閉まる。
ルイはその背中を追いかけることはなかった。
ただ、その場に立ち尽くしたまま、閉まったドアを見ていた。
自分が何を言えばよかったのかも。
何を言えたのかも。
たぶんもう、わからなくなっていた。
コメント
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うわあ……第5話、めっちゃ重かった……でもすごく良かったです🥀 タイキが「優しくされないほうが良かった」って言ったところ、胸がぎゅっとなりました。今まで乱暴にされることに慣れてたのに、急に優しくされて戸惑って、でも自分から服を掴んじゃうところとか、もう完全にタイキの心情に引きずられました。 ルイも「できるようにしてる」って不器用すぎて……あの二人、お互いにしかわからない距離感でやってるんだなって思いました。スタジオの撮影シーンでの嫉妬の応酬、めっちゃ熱かったです🔥 続き、気になります……!