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#ヒュース・クローニン
さんま
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213
#鳩原未来
さんま
62
玄界の冬は、ひどく退屈な白さをしていた。
玉狛支部のベランダ、手すりに薄く積もった雪を、ヒュースは手袋越しに軽く払った。掌に落ちた数粒の結晶は、体温を吸うとあっけなく溶けて、ただの水滴に変わる。その儚さが、まるでこの星の脆弱さそのもののようで、彼は不快そうに目を細めた。
神の国の雪は違う。マザートリガーの巡りに連動する故郷の気候は、時に狂暴なまでの酷寒をもたらす。一度降り積もれば、大地を強固な氷の鎧で覆い尽くし、容易には溶けない。あの凍てつくような厳しさと、その中でこそ際立つ城の灯りの温もりを、ヒュースの肌は鮮烈に記憶していた。
「ヒュース、あんたそんなところで何してんの? 風邪ひくわよ」
背後でサッシの開く音がして、小南の呆れたような声が響いた。振り返ると、彼女は厚手のカーディガンを羽織り、温かそうなマグカップを両手で包み込んでいる。
「……別に。玄界の気候を観察していただけだ」
「ふーん。まあいいけど、夕飯できたから早くリビングに来なさいよね。今日は鍋なんだから」
小南はそれだけ言うと、寒さに身震いしながら足早に部屋の中へと戻っていった。閉まったガラス窓の向こう、リビングの明かりは橙色で、いかにも暖かそうだ。烏丸やレイジ、それに迅や三雲たちが、ひとつの食卓を囲んで笑い合っている姿が、ガラス越しに歪んで見えた。彼らは優しい。捕虜という身分でありながら、ヒュースに一室を与え、不自由のない生活を保障している。三雲修たちは、自分を神の国へ連れて行くという約束を守るために、必死で遠征部隊への切符を掴もうと足掻いている。その誠実さも、玉狛という場所に流れる穏やかな空気の心地よさも、ヒュースは理解していた。理解して、だからこそ、その温もりを徹底的に拒絶していた。
ここに馴染むわけにはいかない
懐に入り込んでくる玄界の温情は、ヒュースにとっては毒でしかなかった。この居心地の良さにほんの少しでも魂を委ねてしまえば、胸の奥で燃え盛る冷徹な焔が、湿って消えてしまうような恐怖があった。
彼の心は、あの日、神の国の冷たい大地に置き去りにされたままだ。主であるエリン家が、現体制の政争に敗れ、神への生贄として差し出されることが決まったあの日に。耳の奥で、頼りない風の音に混じって、あの一節が鳴り響くような気がした。
エリン家の主は、追放される間際、ヒュースにこう言ったのだ。
「生き延びろ、ヒュース。お前の命は、私のためではなく、お前自身のためにある」
と。それは慈悲に満ちた、呪いのような言葉だった。主が自分にくれた唯一の、そして最後の温もり。だが、ヒュースはその言葉に従うつもりは毛頭なかった。主が自分のために生きろと望むなら、自分はその望みを裏切ってでも、主のためにこの命を投げ出す。それ以外に、彼が自らの存在を証明する術はなかった。2
最近、同じ夢ばかりを見る。瞼を閉じれば、視界は瞬時にあの見慣れたエリン家の城へと切り替わる。豪奢な回廊、壁に飾られた由緒ある武具、そして、窓の外に広がる神の国の凍てついた街並み。ヒュースは主の傍らに立ち、静かに控えている。主が穏やかな笑みを浮かべ、ヒュースの名を呼ぶ。その声は鼓膜を心地よく震わせ、胸の奥を確かな充足感で満たしていく。
「ヒュース。お前の剣は、今日も冴えているな」
その言葉に、ヒュースは誇り高く胸を張る。これこそが自分の世界のすべてであり、自分が存在する唯一の理由だ。この静謐な時間が、永遠に続くのだと信じて疑わない_。
「……ッ、」
ハッと息を呑んで目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは、玉狛支部の自室の、白くて味気ない天井だった。窓の外からは、遠くを走る玄界の車の走行音や、朝の街の喧騒がかすかに聞こえてくる。ヒュースは寝台の上に身を起こし、じっと自分の掌を見つめた。角から供給されるトリオンの感覚は確かにある。だが、どれだけ強く拳を握りしめても、夢の中で感じた主の気配は、指の隙間から砂のようにサラサラと零れ落ちていく。
どちらが、現実だ
混濁する意識の中で、ヒュースは激しい焦燥感に襲われる。あちらが偽りで、こちらが現実なのか。それとも、主を失い、見知らぬ異星の地で泥をすするような生活を送っているこの日々こそが、いつか覚めるべき悪夢なのか。もしも、これがすべて逆夢であるならば。朝起きて、すべてが元通りになっていて、エリン家の城で主が健在のまま笑っている世界へと戻れるのなら、どれほど救われるだろう。
だが、ヒュースの理性が冷酷に告げる。主がマザートリガーの生贄として捧げられたかもしれないという絶望こそが、紛れもない正夢なのだと。ハイレインたちが自分をこの地に置き去りにしたという裏切りこそが、歪めることのできない事実なのだと。
「……くそ、」
ヒュースは低く毒づき、額を押さえた。現実がどれほど残酷であろうとも、彼はそれを拒絶することはできない。夢に逃げ込むことは、エリン家の騎士としてのプライドが許さなかった。正夢の絶望も、逆夢の切なさも、そのすべてを血を流しながら胸に抱き留め、前へ進むしかないのだ。リビングに下りていくと、すでに三雲たちが集まっていた。
「おはよう、ヒュース。今日の午前中は、ランク戦の対策会議をやる予定だけど、いいかな?」
修がノートパソコンを開きながら、生真面目な顔で尋ねてくる。
「構わない。オレに拒否権などないだろう」
ヒュースはいつものように冷淡に返し、椅子に腰掛けた。「相変わらず可愛げがない奴だな」と遊真がニヤニヤしながら言ったが、ヒュースは無視した。彼らの目的は遠征部隊に入ること。ヒュースの目的は、その遠征艇に乗り込んで神の国へ帰還すること。利害は一致している。今はただ、この玄界の少年たちの足として、自分の力を最大限に利用すればいい。机の上に広げられた戦術マップを見つめながら、ヒュースの思考は再び、遠い故郷の空へと飛んでいた。
「ヒュース、お前、たまにものすごい顔してるぞ」
ある日の訓練後、烏丸京介がプロテクターを外しながら、何気ないトーンで言った。
「……どういう意味だ」
「なんて言うか、今すぐ誰かを殺しに行くか、あるいは自分から死にに行くような顔だ。玉狛にいる間くらい、もう少し肩の力を抜いたらどうだ」
烏丸の観察眼は鋭かった。ヒュースはわずかに視線を彷徨わせたが、すぐに無表情を取り戻した。
「オレは捕虜だ。いつ首をはねられてもおかしくない身分で、緊張を解く者がどこにいる」
「ここはそんな物騒な場所じゃないって、もう十分わかってるだろ」
烏丸は小さくため息をつき、ヒュースの肩をポンと叩いて去っていった。一人残された訓練室で、ヒュースは自分の胸元に手を当てた。烏丸の言葉は的を射ている。ヒュースの胸の奥にあるのは、純粋な闘志だけではない。それは、狂信に近い自己犠牲の衝動だった。
もしも、神の国に戻った先で、主を救うためにこの心臓を貫けと言われたら、ヒュースは一秒の躊躇もなくそれを受け入れるだろう。主が望むなら、自らのトリオンのすべてを暴走させ、世界を破滅に導く怪物の群れに身を投じることさえ厭わない。エリン家という存在は、ヒュースにとっての宗教であり、世界の法則そのものだった。それを失った世界で、ただ生き延びることに何の意味があるというのか。
オレは、あなたの駒だ。あなたを失った盤面で、生き残る駒など、ただのゴミクズに過ぎない
玉狛の連中は、命を大切にしろと言う。修は、誰も死なせないために最善を尽くそうとする。その甘さが、今のヒュースにはたまらなく苛立たしかった。命など、捧げるべき場所で捧げてこそ価値がある。彼は修たちのまっすぐな瞳を見るたびに、自らの胸に冷たい刃を深く突き立てるような錯覚を覚えていた。
絆されてはならない。
優しさに溺れてはならない。
オレは神の国の騎士だ。エリン家のためだけに死ぬことを許された、冷酷な刃なのだと、自分自身に強く言い聞かせ、心を無理やり凍結させていく。
数ヶ月が経ち、玄界の厳しい冬も、ようやく終わりの気配を見せ始めていた。ベランダから見える街路樹の枝には、小さな新芽が息吹き、風の中に混じる空気も、どこか生ぬるいものへと変わりつつある。季節は巡る。どんなに人間が絶望していようとも、世界は無情に時間を進めていく。玉狛支部のリビングには、陽太郎がどこからか貰ってきたという、小さな桜の盆栽が飾られていた。
「ヒュース、見ろ!もうすぐ花が咲くんだぞ! 玄界の春は綺麗なんだからな!」
陽太郎が自慢げに鼻を高くして、盆栽を指差す。ヒュースはその頼りないピンク色の蕾を、冷ややかに見下ろした。
「……春など、必要ない」
「えーっ、なんでだ!あったかくて気持ちいいぞ?」
「オレの故郷に、このような浮ついた季節はない。ただそれだけだ」
ヒュースは陽太郎の頭を軽く小突くと、そのままリビングを出ていった。玄界の人々は、春の到来を喜び、暖かな光を待ち望んでいる。しかし、ヒュースにとって、主のいない世界に訪れる春など、何の価値もない偽りの光でしかなかった。主が凍てつく暗闇の中に囚われているかもしれないというのに、自分だけがのうのうと暖かな太陽の光を浴びることなど、耐え難い屈辱だった。どんなに玄界の季節が巡ろうとも、彼の心は、あの日神の国で主と別れた、あの極寒の冬の底に置き去りにされたままでいい。むしろ、永遠に明けない冬の中に身を沈めていたいとさえ願っていた。
オレは戻る。必ず、あの凍てつく故郷へ
三雲たちの遠征部隊選抜は、いよいよ佳境を迎えている。ヒュースの圧倒的な実力は、玄界のボーダーという組織の中でも異彩を放ち、確実に遠征への切符を引き寄せつつあった。どれほど悪い夢を見ようとも、どれほど残酷な現実に胸を刺されようとも、彼の視線がブレることはない。
ヒュースは再び、冷たい風が吹き抜けるベランダへと出た。空を見上げる。その遥か彼方、厚い雲の向こうにある、星々の海。そのどこかに、彼の帰るべき冷徹な故郷と、命を捧げるべき絶対的な主が待っている。
「待っていてください」
呟いた言葉は、春を告げる生ぬるい風にかき消され、誰に届くこともなかった。だが、ヒュースの瞳に宿る冷たい焔は、玄界のどんな暖かな光をもってしても、決して溶かすことはできないほど、深く、鋭く、輝き続けていた。例えその先にあるのが、正夢という名の破滅であろうとも、彼は喜んでその檻へと飛び込んでいく。それこそが、彼が選んだ唯一の現実なのだから。
コメント
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いやこれ、めっちゃ心にくるわ……。ヒュースの内面、特に「自分は主のために死ぬ駒だ」って思い込みと、それに反するように染み込んでくる玉狛の温かさの対比が鮮烈すぎる。夢と現実の境目で揺れる描写が切なくて、でも決してそっちに流れない冷えた覚悟がカッコよかった。遠征決まるまで、この凍えた刃がどう変わっていくのか見届けたい🔥