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「痛かったら、言っていいんだよ」セルジュの声は穏やかだった。
けれど手には、冷たい金の道具が握られていた。
ルネは台座の上に横たわり、腕を拘束されていた。
拘束具は皮革製。傷がつかないように配慮された柔らかい素材。
だが、それは**“逃げられない”ための優しさ**に過ぎなかった。
「はい……わかってます」
白いシャツは外され、肩と腕が露わになっている。
少し前に施された試験的な切開痕が、まだ薄赤く線を描いていた。
カチ、という音。
道具の金属部分が光を受けて鈍く輝く。
「今日は深くは切らない。
表皮下にある知覚神経の反応を見たいだけだ。
君のためにも、なるべく綺麗に済ませよう」
(綺麗に……)
ルネはその言葉に、かすかに微笑んだ。
「……それって、僕が“美しく壊れているか”を見るってことですか?」
セルジュは答えなかった。
小さな刃が、ルネの二の腕に滑る。
呼吸が止まりそうになるほどに、静かで、繊細な切断。
ほんの一滴、血が滲んだ。
それはまるで、白磁に垂れた紅の絵の具のようだった。
ルネは目を閉じて、小さく唇を震わせた。
「痛い……です、少し……」
セルジュの指が止まる。
「やめようか?」
柔らかい声。
しかし、どこか試すようでもあった。
ルネはかすかに笑った。
「……やめないでください。
その方が、“嘘”みたいで綺麗ですから」
セルジュの手が震える。
「嘘?」
「はい。
本当は痛いけど、あなたに触れてもらってると思うと……
その痛みまで、愛の一部みたいに思えてしまうんです」
一瞬、空気が揺れる。
セルジュは言葉もなく、もう一度刃を滑らせた。
今度は、少し深く。
ルネの吐息が、かすかに震える。
「……ありがとう、セルジュ様。
僕の“嘘”を、信じてくれて」
「違う、ルネ。
僕が信じているのは――
君が“壊れていく美しさ”だけだ」
その声は、どこまでも優しく、
けれど狂気と紙一重の温度を帯びていた。
夜、部屋に戻ったルネの腕には、薄く包帯が巻かれていた。
その中にある白い傷は、翌日には赤くなり、
やがてまた、次の嘘を誘うだろう。
彼の中では、もう痛みは「嫌なもの」ではなかった。
むしろ、
“触れてくれる証拠”として、誇らしい痛みだった。
そうやって、ルネは――
本物の愛が何だったか、少しずつ思い出せなくなっていった。
銀の器具が、蝋燭の灯りを受けてゆらりと光る。
その形は、手のひらに収まるほど小さい。
だが、先端は鋭く、まるで宝石のように美しい刃を持っていた。
「…..これは、神経を切る道具だ。ほんの浅く、皮膚の下を滑らせるだけで……痛みは、深く長く続く」セルジュは、ルネの胸元に刃をかざしたまま、囁くように言った。
その声に、甘さと哀しさと、狂気が混じる。
ルネは身を横たえたまま、浅く息を吸い込む。
手足は固定されている。けれど、逃げる意思はなかった。
「痛くしてください、セルジュ様…..。あなたが望むなら、僕は、壊れてみせます……」その言葉を聞いて、セルジュの目が細く揺れた。
そして静かに、刃が肌へ触れる。
ーー「ッあ……ッ…….!」
小さな声が漏れる。
それは甘い喘ぎにも似て、けれどはっきりとした「痛みの声」だった。
刃は、鎖骨の下をゆっくりと滑った。
血がすぐに流れることはない。
だが、神経が焼けるような刺激に、ルネの身体は震えた。
「この線を、二本。交差させて…….君の名のように、胸元に残そう」
セルジュの指先が、刃と共にルネの皮膚をなぞる。
切り込みが浅く重なり、やがてひとつの”十字”にな
る。
じわり、と赤が滲みーー汗と熱と涙が、混ざる。
「ッあ、あぁ……く……う……!」
痛みで涙を流すルネの顔を、セルジュは見つめていた。
まるで、最高傑作の完成を目撃する画家のように。
「…..その顔、だ」
「…..その声、その震え。美しい。たまらない……」
そのまま、彼は刃を置いた。
そして一ー口づけた。
血の滲んだ傷口に。
傷の中に唇を落とし、舌を這わせる。
「あっ……セルジュ、さま……!」
熱と痛みが、快楽のように混ざる。
ルネの目が潤み、絶頂の一歩手前のような喘ぎを漏らす。
「愛しているよ、ルネ。だから、もっと見せてくれ。君の“痛み”を」
囁く声が耳に落ちたとき、ルネの涙が一筋、頬を流れ落ちた。
それは、痛みの涙か、幸福の涙かーー
彼自身にも、もうわからなかった。
深夜。
セルジュは傷の手当てをしながら、うっとりとした顔で呟いた。
「君は…..僕がこの手で創った”芸術”だ。最も美しい、血の楽譜だよ」
ルネは、ぼんやりと微笑んだ。
「なら、もっと…..もっとあなたに、演奏してほしいです……」
蝋燭の火が消えるころ、室内には血の香と、熱い愛撫の余韻だけが残っていた。
痛みと楽と、赦しの混じった、狂気の夜だった。