彼氏が怖い。
ちゃんと愛されているのか不安になる。
だけど優しいところの方が多いの。
あたしが困った時は絶対に助けてくれるし、あたしが一人になるの怖いって知っているからいつもそばに居てくれる。
怒ったら殴ったり首を絞めたりしてくるけど仕方がないの。あたしが悪いから。
あたし、どんくさいからすぐに失敗しちゃう。
だけど彼は、彼だけはそんなあたしでも見捨てず助けてくれる。
そんな彼が大好き。
「起きろ」
睡魔で意識が安定しないあたしの耳に、低くはっきりとした声が入り込んで来た。
瞼が上手く上がらない。体を起こしたいのに砂袋でも埋めつけられたかのように重い。
『…おは、よう』
辛うじて出せた声はいくらか上擦ったように掠れていた。
さきほどの眠気の余韻が容赦なくあたしの体の上に圧し掛かって来る。
そんな、今にも寝てしまいそうなほどぼんやりとする視界の真ん中に大好きな人の顔が映り込んで来た。はらりと揺れる微かに寝ぐせのついた白髪とよく日に焼けた褐色の肌があたしの視線を奪う。
「起きンの遅ェ」
眉を顰めて酷く不機嫌そうな表情を滲ませた紫色の瞳と視線がかち合った。
眉をキュっと寄せたその顔が可愛くて、つい頬がだらりとだらしなく緩んでしまう。
そんなあたしの姿に眉の皺を深くしたイザナは無言であたしの腰に勢いよく抱き着き、そのまま体重をかけられたせいで、自身の身体がまたもや雪崩のように布団の中に崩れ込んでしまう。ボフッという空気が抜けるような淡い音とともに自身の頬に軟らかい感触が掠り、くすぐったさに口角から小さな笑みが洩れた。
随分とムスッとした表情でこちらを見つめてくるイザナに、好きという感情が堰を切ったように溢れる。寝起きでぼんやりとしていた意識がいつの間にか活気を取り戻していた。
そのまま顔を近づけられ、キスされると目を閉じたその瞬間。
ピロリン、と雰囲気をぶち壊すような甲高い電子音が響いた。
お互いの体がピクリと止まり、視線が音の原因であるあたしの携帯へと移る。
「……電源切っとけ。」
『すみません………』
一旦体を離され、遠のいて行くイザナの体温と気配にもの悲しさを感じながら手を携帯の電源ボタンへと伸ばす。
電源を消す前に連絡内容だけでも確認しておこうかな。と液晶画面をちらりと覗くと、電子器具特有のあの角ばった字体とハートの絵文字が添えられた短文の文章が目に入って来た。
絵文字や顔文字が多く使用されたその文章に中学時代に仲良くしていた女友達からの連絡だと察する。
「…なにコイツ誰?男?」
離れていったはずのイザナの顔がまた近づいてきて、文章に散らばられたハートの絵文字を睨みつけながら軽いドスを利かせた低い声でそう問いかけてくる。液晶画面に映った文章が反射された紫色の瞳は黒く濁っており、眉の辺りに歪んだ線が刻まれていた。
『中学の頃の女友達だよ。久しぶりにみんなで集まって遊ばないかって。』
そう答えるがイザナの目に宿った濁りは一向に色を薄めない。
「…返事は?」
どこか不安そうに揺れるイザナの声が自身の耳に入り込んだ。
『断ったよ。あたし、イザナ以外と会いたくないもん。』
入力欄に「行けない」という文字を走らせながらそう答える。
この子や中学の友達には悪いけどイザナの方が大切で大好きだ。それに“友達”だなんて薄っぺらい関係の人と遊ぶだなんて、きっと行ったとしても楽しめない。
あたしにとって友達という存在はたったそれだけの価値のものだ。
ほら見て。と言葉を零しながら行けないと書かれたメッセージ画面を見せると、イザナの周りを囲んでいた暗い空気が少しだけ満足げに緩んだ気がした。
だけどそう思えたのはほんの一瞬で、瞬きをした次の瞬間にはまた元の不機嫌さを含んだ硬い表情を褐色の肌の上に滲ませていた。
「じゃあコイツの連絡先消せ。」
重く厚い音が乗ったイザナの低い声が異様にチカチカと耳の奥に響いた。
ぐいっと携帯を握っていない方の手を掴まれ、指先を削除ボタンに誘導される。
『で、でも結構関りある子だし…それに女の子だよ。』
握られている手にグッと力を込め、イザナに対して反抗心を光らせる。だが口調からじわりと滲み出た怯えの感情は隠しきれず、掠れておどおどとした微かな震えを帯びた声が自身の口から零れ落ちた。
「関係ねえよ。さっさと消せ。」
不機嫌な重々しいイザナの声に嫌な気配を察した心臓がドクドクと大きな音を立てていく。
『なんでそこまでする必要があるの?』
だけど一度紡いでしまった言葉はそんな恐怖心には見向きもせず、さらに勢いを増して口から飛び出していった。そのまま反抗的な鋭さを持った瞳であたしの腕を掴んだまま離さないイザナのことを見つめる。
「○○もオレ以外のヤツを選ぶの」
悲しみから絞り出されたような言葉とともにドンッと身体を力一杯押され、後方へと倒れ込む。そのまま腕を抑え込むように強く力がかけられ、最低限の行動さえもが封じ込まれた。
え、という言葉すらも出せないまま勢いよく進んでいった出来事の進みに喉を通る空気がヒュッと掠れた。腕を締め付ける異常なほどの力とこちらを見下ろす紫の瞳の暗さに嫌な予感が背筋を冷たく流れる。そのまま喉元をツーっと静かになぞる彼の指先に“今までのこと”がチカチカとフラッシュバックし、無意識のうちに息が荒くなった。ガツンと頭を殴られたようなショック交じりのトラウマたちが呼び起され、体中に響き渡る。
それまで反抗心に燃えていた心がギュッと水の失ったスポンジのように萎縮する。
『ごめ、分かった。消す、消すから…!』
ガタガタと震えて大して動かない自身の身体に精一杯の力を注ぎ込み、暴れさせる。
だけどそんなあたしの声も聞こえていないのかあたしに覆いかぶさってこちらを見つめるイザナの瞳は相変わらずぼんやりと濁っていて、一向に動く素振りを見せない。彼の耳につけられている花札の髪飾りだけが重力に従ってカランと綺麗な音を立てて揺れた。
「…○○はオレだけの女だもんな?」
そう言い出すイザナの声色の初めと語尾はどこか掠れるように淡く、薄暗い虚無感に似た感情が雲のようにイザナの表情に暗い影を落とした。
『うん、そうだよ。』
そう紡いだ声はちゃんと彼の耳に響いていただろうか。
ただ虚ろ気にこちらを見下ろす彼の心の内はどう頑張っても覗けない。
「………じゃあ早く消せよ」
その言葉とともに徐々に彼の顔が俯いていき、ドンッと軽い衝撃を持ってあたしの首元に落ちた。サラサラで柔らかい彼の白い髪が目に入って少し痛い。
『…分かった』
もしも次会った時に何か聞かれたらどう返事しようかな。そうぼんやりと考えながら、震える指先で削除ボタンを押し、音も無く連絡先一覧から一つの名前が消えた。
操作を終えてふと液晶画面に目を移すと、現役女子高生にしては随分と少ない連絡先の数が視界を埋めた。スクロールしなくても視界に埋まり切るほどの、たったそれだけの数。別にイザナに対して不満があるわけじゃないけれどもどこか物足りなさを感じてしまう。
そんな思いをグッと押しつぶし、消したよ。とまだ震えの余韻を残す掠れた声を落とし、暗く俯くイザナに携帯を差し出す。首元に埋まっていたイザナの顔がゆっくり上がり、ジッと連絡先一覧の名前を見つめた。その虚ろ気な姿にゴクリと生唾を飲みこむ。
「…ン、いい子。」
次の瞬間、不満に染まっていたイザナの表情に喜びが咲き、“青紫色に染まった痣だらけのあたしの腕”を優しく撫でてくれた。不安で乾いていた心が沁みわたるように温かく潤っていく。
イザナの指先が一番濃い色を刻み込んだ痣に触れた瞬間、鈍い痛みを放ったけど、大丈夫。
これも全部愛だから。
続きます→♡1000
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