⚠初っ端から暴力表現🈶
ドンッという重い衝撃音が暗い部屋の中に小さく響く。
「なぁ、なんでオレの言うこと聞いてくんねぇの?」
そんな凄みのある低い声とともに、紫色に変色した痣の上にイザナの拳が沈む。
鈍く鋭い痛みが体中に沁みるように広がっていき、ガラガラに乾いた声が自身の口の端から飛び出してくる。涙がポロポロとひとりでに零れ落ちた。
また失敗してしまった。
もうしないって決めたのに。
イザナを怒らしてしまった。
─…ちょっと帰る時間が遅れただけだった。
信号が全部赤で、急いで走って帰ったけど間に合わなくて。
一応イザナには「ごめん、遅れる」ってメッセージを送ったけど、結局怒らせてしまって。
『ぅ、ぁ…ごめ、ごめん…』
溢れ出る嗚咽が邪魔して随分と曖昧な聞き取りにくい声になってしまう。
頬を殴られた拍子に口の中が切れたのか、生温かい血の味と匂いが口内と鼻を埋める。ピリリとした鋭い痛みが一定のテンポで体中を締め付け、顔が腐ってしまいそうなほど大量の涙を流しあたしは泣きわめく。
そんなあたしをイザナは苛立たしげに、それでいてどこか愛おしそうな色を混ぜた瞳で見つめてくる。その綺麗で濁っている紫色に瞳に反射したあたしはボロボロだった。
こちらに伸びてくる褐色の手が、鋭く射貫くような目が、大好きだったそれらすべての動作が今はすべて恐怖を感じる対象になってしまう。
だけどこれも全部“彼からの愛”だから受け入れなきゃいけない。
殴るのも、髪を引っ張るのも、蹴るのも。全部。
『ごめん、なさい…ねぇやだおねがい、捨てないで。』
それが出来なきゃきっと捨てられちゃう。
そんなの絶対に嫌だ。嫌いにならないで、ずっと傍に居て。
こちらを見下ろし、あたしの髪をぐいっと掴み上げるイザナに縋りながら、声帯を締め付けられたような干からびた声でそう涙に濡れた声を出す。
その瞬間、薔薇の花びらのような小さい血の雫が開いた口のすき間から零れて、床にぽつりと落ちた。飛沫が細かな泡を持ってあたしの服や皮膚を汚す。
相変わらず何も言わないであたしの身体を殴り続けるイザナに、嫌われたかもしれない。という掻きむしられるような激しい焦燥感が心を冷たく撫でた。
いやだ、嫌いにならないで。
次はちゃんと時間通りに帰って来る し、もう遅れたりなんてしない。
イザナの言う事は絶対に聞くし、泣いたりだってしない。
世界で一番大好きなの、愛してるの。
だからお願い。
『おねがい……』
今にも消えていきそうなほどの小さい声でそう言い、イザナの服を大して力の入らない弱弱しい指先でギュッと掴み、乾いた服の生地冷たさに砕けそうなほどの脆い感情を抱いた。
言葉には言い尽くせないほどの重く、多い焦りと寂しさの感情が自身の体に強く食い込んでいき、頬を流れる涙がグッと勢いを増して声を喉元に詰まらせる。
イザナは黙ったまま。
服を掴んだあたしの手を振り払うことも、叩くこともなく、ただ時が止まったかのように文字通り硬直したまま。
『…イザナ?』
なんで何も言ってくれないの。嗚咽で歪んだ唇の上にそう文字を添えた瞬間、それまで固まっていたイザナの腕があたしの顔に伸びてきた。
その腕の動きにまた殴られると身構えたその瞬間、顔の輪郭を撫でていたあたしの涙をイザナの指が拭った。一瞬だけ触れて離れたイザナの体温の余韻につい安堵感が沸き上がってきてしまい、何に対してか分からない涙がボロボロと目の淵をなぞっていく。
「……オレの事好き?」
新しく肩に出来た痣に手を添えながらイザナがそうあたしに問いかけてくる。
『すき、好きだよ。』
嗚咽に絡みつくような舌で言葉を跳ねさせ、必死にそう言葉を紡いでいく。
『世界で一番愛してるよ。』
そう言葉を絞り出し、へたり込んでいた自身の身体を持ち上げてイザナの首に抱き着く。その拍子に体中がギリギリと締め付けられるように痛んだけど、そんなこと気にならない。
グッと彼から離されないように抱き締める力を強めた瞬間、それまで王的な威圧感を纏っていたイザナの雰囲気が不安げに萎んでいった。強張っていた体から力が抜けていき、だらりとした頭があたしの肩に乗っかってくる。
「…じゃあなんで約束破ったんだよ」
先ほどと比べると随分と弱弱しい声だった。
縋るような、怯えるような、怖がっているような。その全部の感情を注ぎ込んだような低い声を、全身を耳にして聞きながらあたしは口を開く。
『信号全部赤で足止め喰らっちゃってて…ごめんなさい』
そう言葉を落とすと一拍間を開けてオレもごめん。と泣き出しそうなほど震える声で謝罪の言葉を口にしたイザナにギュッと強い力で抱きしめ返され、胸に甘い隙間風のようなものがどろどろと吹き込まれた。彼に対する激しい愛情で胸いっぱいに好きという言葉が溢れる。
これが愛じゃないというのならば、何というのだろう。
恐怖でも怯えでも脅しでもない。絶対に愛しかない。
「…ごめん」
『あたしの方こそごめんなさい』
「嫌いになった?」
『大好きだよ』
そのまま見つめ合って、抱きしめて、お互いの唇を重ねた。
数秒経って離れていった柔らかい感触と、暖かい体温にじわじわと湧き上がってきた羞恥心から血が自身の頬に昇りあがって来るのを感じる。不意に目に入った鏡を覗くと案の定顔は燃えるように真っ赤に染まっていた。
だけどその頬には乾いた涙が砂のように細かくなってこびり付いており、体の至る所には青紫色に染まった痣や切り傷が刻まれている。
大切だから傍に居る。
好きだからキスをする。
愛しているから抱きしめる。
大切だから縛り付ける。
好きだから怒る。
愛しているから殴る。
“愛”を伝える表現が少し違うだけで、彼からの暴力や暴言はすべて正真正銘の“愛”。
これ以外の愛され方だなんて知らないし、これ以上の愛の受け入れ方なんて分からない。
彼からの愛ならば痛いのだって我慢出来る。
愛があればなんでも許されるし、何でも許せてしまう。
あたしとイザナにとって、それが愛。
それなのに鏡に映った自身の顔は涙に歪んでいた。
続きます→♡1000
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