医師が紙を手に取り、震える文字を慎重に追う。その瞬間だった―――。
医師の表情が、明らかに変わった。
それまでの穏やかな顔が、硬直し、凍りついたように見えた。
どうしたんだろう。
やっぱり、こんなにも汚い字だと読めないんだろうか。
医師は紙をじっと見つめている。
その視線の奥に、何か重たいものが宿っているように見えた。
「これは、あの日ここへと一緒に運ばれてきた女性のことを知りたい、ということで間違いありませんか?」
医師がゆっくりと顔を上げ、僕の瞳を真っ直ぐに見据えながら問いかける。
コクッ、コクッ―――。
僕は首を激しく上下に動かし、全身全霊で答えを伝える。
その瞬間、医師の目が微かに揺れた。
彼は一言も発さず、そっと視線を外した。
まるで、僕の瞳と向き合うことすら辛いとでも言うように。
「あの日、駆けつけた救急隊員によって、一緒にいた女性もあなたと共にこの病院へと搬送されました。」
その言葉に、一瞬だけ安堵の息を吐く。
(君も、ここに運ばれてきたんだね。)
それを知っただけで、僕の胸の中に微かな希望が灯る。
けれど―――。
医師は深く息を吸い込み、一瞬口を閉ざす。
その沈黙が、耳の奥で爆音のように響いた。
「既にこの病院に着いた時には、あなたも女性も共に心肺停止の重体でした。」
医師の言葉が、まるで氷の刃のように胸を刺す。
僕は唾を飲み込むことすら忘れ、彼の次の言葉を待つ。
「私たちはすぐに緊急手術に取りかかり、電気ショックによる心肺蘇生を試みました。」
「あなた方は生涯を終えるにはまだ若すぎる。」
「何度も何度も、決死の思いで呼びかけました。」
その言葉一つひとつが、僕の胸を締め付けていく。
医師の声には震えが混じり、その表情には疲労と痛みが滲んでいた。
「手術を諦めかけたその瞬間に、あなたの心臓は再び活動を始めたんです。」
その瞬間、医師がかすかに笑みを浮かべる。
けれど、その笑顔はどこか影を落としていた。
僕の中で何かが崩れ落ちる音がした。
この人は、本当に僕たちのために全力を尽くしてくれたんだ―――。
それは分かる。彼の言葉や仕草の一つひとつが、それを物語っている。
だけど、僕が知りたいのは―――、
(君はどうなった?)
医師は一度唇を閉ざし、視線を床に落とす。
部屋全体が静寂に包まれる。
その沈黙が、悪い予感をさらに煽る。
「しかし―――。」
彼が放ったその一言が、重くのしかかる。
「一緒にいた女性の心臓は、二度と動き始めることがありませんでした。」
「申し訳ありません。本当に…申し訳ありません…。」
言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。
いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。
君は―――、もうこの世にいない?
(そんなはずがない。)
僕の中で必死に現実を否定する声が叫ぶ。
でも、その声はどんどん弱くなっていく。
最後に見た君の笑顔が、頭の中に蘇る。
幸せそうに笑っていた君。
(あの笑顔が嘘だったって言うのか?)
また二人で、すべてをリセットして、あの世で一緒に暮らす―――。
そう決めたじゃないか。
君と僕の物語は、あの日で終わるはずだった。
だけど、現実は僕だけをここに残した。
僕だけが、息をしている。
救急車のサイレンの幻聴が頭の中で鳴り響く。
その音が、僕の胸に蓄積していく怒りを掻き立てる。
(こんなことになるなら、手術なんてしてくれなくてよかった。)
医師の顔を見た瞬間、全身が震える。
この人に怒りをぶつけても仕方がないことくらい分かっている。
けれど、抑えられない。
怒り、悲しみ、悔しさ、絶望―――。
全てが一つになって、僕の中で渦を巻く。
「本当に…申し訳ありません…。」
医師は何度も頭を下げる。
その仕草すら、今の僕には苛立ちを増幅させるだけだった。
(謝らないでくれ―――。)
謝罪なんていらない。
僕が欲しいのは、君の笑顔だけなんだ―――。
そうやって僕が混乱の中で考えを巡らせている間も、医師は謝り続けていた。
「本当に…申し訳ありません…。どうか許してください…。私の力が足りなかったばかりに…。」
その声は震えていて、どこか掠れていた。
その震えが、静寂の中で重低音のように響く。
ふと医師の拳に目を向ける。
爪が深く食い込み、血が滲みそうなほどに強く握られていた。
その拳は、小刻みに震えている。
そして、視線をそっと顔に移すと―――、
彼の目には涙が溢れていた。
それは、医師という役割を超えた、
一人の人間としての感情が露わになった瞬間だった。
その光景を見た瞬間、
胸の奥で渦巻いていた怒りが、ゆっくりと消えていくのを感じた。
(この人は、僕たち二人に平等に最善を尽くしてくれたんだ。)
それでも、君を救えなかった。
たまたま僕だけが息を吹き返してしまった。
その事実が、この人の心をこれほどまでに苦しめている。
僕は声を出すこともできず、
思うように動かせない手もただそこにあるだけだった。
自分の感情をどう伝えればいいのかも分からないまま、
ただ、医師の顔を見つめ続けることしかできなかった。
目の前の白い天井をぼんやりと見上げる。
もちろん、ここでは星なんか見えない。
だけど―――、君と一緒に見た、あの星空が脳裏に浮かぶ。
君が笑って、「綺麗だね」と呟いたあの瞬間。
僕はその星空を想い返しながら、
この真っ白なコンクリートの天井に重ね合わせた。
(君は、そこにいるのだろうか?)
星のような光となり、
この天井の向こう側で僕を見守ってくれているのだろうか?
目を閉じると、君の声が聞こえる気がした。
「また二人で星を見に来ようね。」
君が笑っている姿が浮かぶ。
でも、その笑顔が、どうしても霧のように掴めない。
涙が再び頬を伝い落ちる。
天井の向こうにいるかもしれない君に向かって、心の中で呟いた。
(ごめんね、君を守れなくて。)
(君がいない世界で、どうやって生きればいいのだろう。)
静寂が部屋を支配する中、医師がそっと立ち上がる気配がした。
「もう少し休んでください。」
「あなたが生き残ったことには、きっと意味があるはずです。」
その言葉が、僕の中でぐるぐると反響する。
意味―――?
君がいないこの世界に、僕が生きる意味なんてあるのだろうか?
それとも、君の代わりにこの命を使って、何かを成し遂げるべきなのだろうか?
分からない。
ただ、空虚な感情だけが胸の中で膨れ上がる。
医師が部屋を出ていった後、
僕は再び天井を見つめ、君の姿を思い描き続けた。
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