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「────オン、リオン、起きなさい、リオン」
優しい声と手に身体を揺さぶられ、いつもの目覚ましの凶暴な起こし方ではない事に脳味噌が気付いて起きた方が賢明だと判断を下したらしいが、身体はまだまだ寝ていたいと訴えていて、その訴え通りに寝返りを打てば、ベッドから落ちた。
「ぃてぇ!!」
「何をしてるの、リオン?」
床に這い蹲ったまま顔を左右に振り、己の身に起きた現状を把握しようと睡魔を追い払うが、リオンの視界に飛び込んできたのは、履き古しているがそれでも大事に履いている靴と黒地のスカートの裾だった。
住めば都の狭いリオンのアパートでは彼女とは同居したくても出来ずにいつも自転車で送り届けていた事を思い出すが、スカートの裾が目の前でふわりと広がったかと思うと、優しい手が前髪を掻き上げてくれる感触に目を閉じる。
「リオン! 早く起きなさい!!」
「ぅるせぇなぁ」
「早く起きないと遅刻するわよ! 一体何度同じ事を言わせるの?」
しつこいぐらいに起床を促す声に思わずうるさいと怒鳴ったリオンだが、ふと何かに気付いて顔を上げれば、アーモンド色の双眸に呆れと怒りを浮かべた女性が頬杖を付いてしゃがみ込んでいた。
「あれ、ゾフィー?」
「あれじゃないでしょう?」
数日前、すっかりと日も暮れた夜に突然電話をしてきた後、しばらくの間泊まって帰ると宣言したくせにと、呆れを強くして見下ろしてくるゾフィーにぱしぱしと瞬きをしたリオンは、ああ、そうかと靄のかかった脳味噌を働かせて数日前の出来事を思い出す。
彼女に振られてしまった為、急いで家に帰る必要がなかった-というよりも一人でいたくなかったリオンは、生まれ育った児童福祉施設に電話を入れ、スタンドで買い求めたあまり美味くないパンとビールを持って帰ってきたのだ。
「マザーは?」
「みんなの朝食の用意をしているわ。あなたも食べるんでしょう?」
リオンが生まれ育ったここは観光客は迷い込まない限り足を踏み入れない地区にあり、成人して立派な警察官として働きだしてからも同じような境遇の子ども達が預けられていた。
ここの運営を賄っているのは、支援団体や教会の上部からの援助金や定期的に行うバザーなどの売り上げだけだった為、リオンが幼い頃と同じように生活は豊かではなかった。
それ故、リオンは初めて貰った給料の大半をマザーに預けたように、今も給料が入るたびに決まった金額を入れていた。
そのお陰で子ども達にパンとスープを食べさせられると、有り難く受け取ってくれるマザーだったが、今も総勢で10名の子供の世話をしている事を教えられ、重苦しい溜息を吐く。
「早く起きて朝ご飯を食べましょう」
「まだなのか?」
「ええ」
朝の礼拝の後、洗濯だのなんだのと家事をこなしていたらこんな時間になったと肩をすくめて笑う彼女にやっと起き上がったリオンが頬にキスをする。
「おはよう、ゾフィー」
「おはよう」
昔と全く変わらないリオンのキスを受け止め、更に返したゾフィーと並んでマザーが待っているだろう食堂へと向かう。
「最近忙しいの?」
「そうだな……うん、まあ忙しいか」
「なぁに、それ?」
奥歯に何かが詰まったような物言いにゾフィーが苦笑し、忙しいのも構わないけれど風邪を引かないようにしなさいと帰宅の遅い弟を心配する口調で告げられてもうガキじゃないと返せば、だったら朝は一人でちゃんと起きなさいとぴしゃりと言い放たれて絶句する。
振り返ってみれば人が顔を顰めるような悪行をしてきたリオンだが、そんな彼にも頭が上がらない人物が幾人かいた。
その内の一人であるゾフィーの言葉に何も言い返せず、悔し紛れにうるさいなぁと言えば、深々と溜息を吐いたゾフィーの、荒れているがそれでもリオンが愛して止まない手が伸ばされてピアス穴の空いた耳を思い切り引っ張られる。
「ぃてててて! ゾフィー、いてぇよ!!」
手を離せと叫んでみても離して貰えず、まるで学生の頃のように半ば引きずられたリオンは、肩を怒らせて食堂に入ってきたゾフィーと悲鳴を上げるリオンにきょとんとした後、けらけらと楽しそうに笑い出す子ども達に口をへの字に曲げ、もうお止めなさいとマザーに諭されたゾフィーが手放してくれるまで子ども達に笑われるのだった。
学校に向かう子ども達を笑顔で見送り、ゾフィーがコーヒーの用意をしてくれているのを、まだ時間があった為に椅子の背もたれに顎を乗せて見守っていたリオンの前、挽き立てのコーヒーの芳香がふわりと漂ってくる。
「良い匂い」
「そうでしょ」
これだけはあなたが出て行った後も欠かさずに続けているわと、塗装の剥げたホーローのポットから湯を注ぎながらゾフィーが長い髪を掻き上げる。
瞳と似通った色合いの髪を肩の下まで伸ばしたゾフィーの姿は、リオンが働きだした頃と全く変わらないどころか、手を焼かせていた学生の頃からも変わっていなかった。
「なぁ、ゾフィー」
「なぁに、リオン?」
こぽこぽと気持ちの良い音を小さく立てながら落ちていくコーヒーの滴を見守っていたゾフィーは、どうしたのと小首を傾げて振り返る。
「最近セックスしてるか?」
「!!」
唐突な質問に思わずゾフィーの手が揺れてコーヒーが周囲に飛び散ってしまい、同じように見守っていたマザーが慌ててタオルで汚れを拭いていく。
「突然なんて事を聞くの!?」
おお、神よ、お許し下さい。
思わず目を吊り上げた後、急いで胸の前で手を組んで短く祈ったゾフィーに深々と溜息を吐いたリオンは、うっすらと目元を赤くした彼女にきつく睨まれ、何故その様な事を聞くのかと問われて振られたことを白状させられる。
リオンの数日前の突然の訪問の真相を今更ながらに知った二人は、お互いに顔を見合わせて目を瞬かせる。
「また?」
「またって言うなよ」
「仕事が忙しいのですか?」
娘と息子のような二人をただ優しく見守っていたマザーが彼女に座りなさいと声を掛け、三人分のコーヒーを用意して席に着くと同時、椅子に正しく座ったリオンが机に額をぶつけて鼻をすする。
「仕事一辺倒って訳じゃないんだけどな」
己の名誉のために言っておくが、ガキの頃のように二股を掛けただの人としてどうだと思うような付き合いをした結果5人もの女性に振られた訳じゃないと嘆くリオンだったが、昔よりは皺が増えたマザーの手が髪を優しく撫でてくれた事に気付いて鼻を鳴らす。
「あなたならすぐに彼女が出来ますよ、リオン」
だからいつかここの教会でその彼女と結婚式を挙げてちょうだいと優しく諭されて頷いたリオンは、呆れながらも気遣ってくれるゾフィーが差し出してくれたマグカップを受け取り、最近同僚が毎日のように出してくれる煮詰まっていて劇的に不味いコーヒーとは雲泥の差のそれをゆっくりと味わいながら飲んでいく。
「結婚かぁ」
全く想像も出来ないねと、コーヒーの苦さではないものから来るそれに唇の端を持ち上げ、次の彼女はどんな人かしらとゾフィーに笑み混じりに問われる。
「どんな人だろうな」
刑事を生業とするリオンを誰よりも深く理解し大きく包んでくれているのは間違いなくここにいる彼女たちだったが、この二人に匹敵するような女性と出会うことがあるだろうかと自問し、あり得ないと自答する。
ならばその中でも最も己を理解してくれる人を探すしかないが、果たして上手く出会うことが出来るだろうか。
人と人との出逢いは運命の下にあると少しだけ考えているリオンは、次にどんな人と出会い恋をするのだろうかとぼんやりと思案し、コーヒーを飲み干す。
「ダンケ、ゾフィー」
「どういたしまして」
すっかりと飲み干したマグカップをテーブルに戻し、そろそろ出勤するかと伸びをしたリオンを自慢すら浮かべた表情で見つめた彼女たちは、いつまで経っても子供のような顔で片手を上げて出て行く彼を笑みで見送るのだった。
リオンがいつものように出勤し、今日も元気に仕事に取りかかるかーと無駄に元気な所を見せていた頃、ウーヴェはクリニックでここ数日と同じように幾人かの女性の訪問を受けていた。
受付をしてくれていたカミラ・リーベントが殺害されて数日が経つが、第一発見者として聴取を受けたのを筆頭にウーヴェ自身に関連しての不都合だの不具合だのが山のように出て来ていた。
その最たるものは、やはり受付兼事務員の不在だった。
求人広告に載せる手もあったが、ウーヴェが大学の頃師事していた教授に連絡を取って事のあらましを手短に説明した後、仕事の出来る女性を紹介して欲しいと頼んだのだ。
人の良い教授は二つ返事で引き受けてくれた為に早速翌日から面接をしていたが、なかなか条件に合う人物がおらず、今日もやや疲れ気味な顔を何とか押し隠して面接をしていた。
午後一番の予約時間のちょうど10分前、受付に仮設置した呼び鈴が鳴り、デザイナーズチェアで少しだけ休憩していたウーヴェは頬を一つ叩いた後、どうぞと声を掛けながらデスクの前に向かう。
「失礼致します」
「どうぞ」
静かにドアを開けて入ってきたのは、淡いピンクのスーツに身を包んだ女性だった。
黒く変色した血に染まったピンクのスーツを思い出してしまったウーヴェは一瞬だけきつく目を閉じた後、小さく首を傾げる女性に詫びるつもりで咳払いを一つする。
「面接の予約をしました、リア・オルガです」
「ようこそ、フラウ・オルガ」
窓から入り込む日差しに照らされ、長い栗色の髪が艶やかに光ったのに目を細めたウーヴェは、失礼しますと目礼をした後、静かにドアを閉めて指し示されたソファの横に立ち、再度促すまで腰を下ろさない彼女に内心目を瞠る。
今まで10人近く面接をしてきたが、教授の紹介であったとしてもウーヴェの眼鏡にかなう人物は少なかった。
だがこのリア・オルガと名乗った女性は今までの面接をしてきた女性達とはどこかが違うと本能的に察し、どうぞと掌を向けて着席を促せば、長い髪をさらりと流しながら静かに腰を下ろす。
差し出された履歴書に目を通し、彼女自身が将来は医者として働くことも出来たのではないかと思えるレベルの学業を終了していた事に驚き、職歴の中にある病院名に見覚えがあった為、眼鏡の奥の双眸を見開いて彼女を見つめる。
「失礼だが、以前働いていた病院はどういった経緯で退職をしたのだろうか」
断りを入れつつ理由を問えばやや躊躇った後、やけにきっぱりと人間関係ですと返されて目を細める。
確かに大きな病院や中規模の医院では働く人間の数が多く、それだけの人がいれば人間関係が複雑になり厄介なことも多々あった。
それが嫌で個人で開院したと言っても過言ではないウーヴェは、彼女の気持ちが僅かながらも理解出来たため、そうですかと短く返して履歴書をデスクにそっと置く。
「勤務時間や休日などは募集の際にお知らせした通りだが、それについての質問などは?」
「特にありません」
労働条件についての質問もないと返され、仕事の内容ですがと話を切り出せば彼女の中に更に緊張感が増したようで、その気持ちの切り替えの速さにもただただ驚くだけだった。
病院勤務をしていた職歴はウーヴェにとってはかなり都合の良いもので、一から教え込む必要はなくここのクリニックのやり方を説明するだけで済みそうだった。
この女性にしようと心が傾いた時、つい視線が彼女の揃えて膝に置いた手の辺りに向いてしまい、綺麗な淡い色のスーツが赤黒く変色していく幻覚にも似たものを見てしまう。
「どうかしましたか?」
「失礼。何でもありません」
まさかよく似た色合いのスーツを着ていた女性が、今あなたが座っているソファの目と鼻の先で殺されていたなどと言えるはずもなく、眼鏡を軽く押し上げてウーヴェが謝罪をすれば、オルガが緊張した面持ちのまま首を小さく振り、採用の返事はいつ頂けるのでしょうかと問いかけてくる。
「一両日中に電話をします」
「ご連絡をお待ちしています」
背筋をまっすぐに伸ばし、緊張はしていてもまっすぐに見つめてくる彼女に対しかなりの好印象を持ったウーヴェが、採用不採用に関わらず必ず連絡を入れますと再度約束をしながら手を差し出すとすと、白い柔らかな手が少しだけ強く握手をしてくる。
それも特に不愉快に感じることはなく、失礼しますと部屋を出て行く後ろ姿を見送り、窓際のチェアに腰を下ろして天井を見上げる。
幾人か候補を決めていたが、この様子だと次の事務員はリア・オルガに決まりそうだった。
思っていたよりも短い期間で事務員の不在という事態を切り抜けられそうだと、天井に向けて溜息を吐いたウーヴェは、軽やかにノックをされた後、返事をするよりも先にひょっこりと金髪が見えたことに目を瞠り、文字通り飛び上がる様にチェアから立ち上がる。
「あ、すみませーん」
「返事を聞く前に部屋に入ってくるのが刑事としての礼儀なのか?」
そっと顔を出したと同時に浴びせられた冷ややかな声にうひぃと奇妙な声を上げて肩を竦めたのは、先日警察署で取り調べをした若い刑事だった。
「あ、ご…失礼しましたっ」
分厚いドアで返事が聞こえませんでしたと慇懃無礼に話す彼に眼鏡の奥の双眸を細め、一体何の用だと冷たく問いかければ驚くほど綺麗なロイヤルブルーの双眸が細められ、良かったですねと返されて首を傾げる。
「一体何が良かったというんだ?」
入室の許可を与える前に入ってきた者に突然良かったなどと言われても困るだけだと、腕を組んで目の前の若い刑事を凍り付かせる勢いで吐き捨てるように呟いたウーヴェの耳に流れ込んできたのは、事件が解決したという言葉だった。
「……犯人が逮捕されたのか?」
「ニュースで流れるとは思うんですけどね、一応伝えようと思って来たんですが、これなら来なかった方が良かったかな」
先日の聴取時に少しばかり気の毒に感じた為に駆けつけたが、そこまで言われるのならば電話一本で済ませるか、いっそのことニュースで知ってくれれば良かったと、口元には笑みを湛えながら双眸には強い光を浮かべられ、さすがに言い過ぎただろうかと胸中で呟いた時、警備員でしたと告げられて目を瞠る。
「警備員?」
「ええ」
刑事の言葉に浮かんだのは、人の良さそうな顔で、あの日も元気に挨拶を交わした警備員の顔だった。
あの時、にこやかに挨拶をしてきたが、その直前に人を一人殺していたと言うのだろうか。
殺人という非日常の後、すぐに日常生活に戻ることなど可能なのだろうか。
芽生えた疑問から顎に手を宛がって呟くように問いかける。
「どうして彼が?」
「さぁ、犯行時の心理なんて本人にも分からないでしょうよ」
だから臨床心理医がいたりカウンセラーがいたりするんだろうと、やけに素っ気なく返されてどういうことだと目を細めれば、その視線に気付いたらしくひょいと肩を竦められる。
「ここの医者が、つまりはあんたが金持ちだと知り金目のものがあると思って入り込んだ。だが出勤してきた彼女に見つかって大声を出されたため、大人しくさせるためにナイフを取り出したら余計に騒がれ、腹を刺して首を絞めてとどめを刺した。そう自供してますよ」
「自宅じゃあるまいし、こんなところに金目のものなど置く筈がない」
告げられた言葉に皮肉気な笑み混じりに呟けば、金に困った人間にはそんな事は関係ないとウーヴェを上回る様な冷酷な響きの声が流れ出し、刑事の顔をまじまじと見つめてしまう。
どちらかと言えば男前と称される顔立ちで、浮かんでいる表情がどうにも子供じみていてつい構いたくなってしまう雰囲気を漂わせているが、にこにこと笑み混じりに呟かれた言葉に込められているのは、いわゆる裕福なと称される人たちへの悪い感情だった。
羨望や嫉妬すら通り越した、まるで憎悪すらしている様な思いが伝わってきて、腕を組み替えて無意識に肘を握りしめる。
「ま、こんな問題が起きるほどの金なんて持ってない俺にはまーったく関係ない事ですけどね」
仕事として殺人犯を捕まえる事が出来ればそれで良いと文字通り興味も関心もない顔で言い捨てた後、とにかく今回は面倒な事件に巻き込まれてご愁傷様でした、ひとまず犯人も逮捕されたのでこれでもう疑われることはないだろうとも告げられ、無表情に頷けばオルガとは違った意味でまっすぐに見つめてくるロイヤルブルーの双眸に射貫かれたように身動きが取れなくなってしまう。
未だかつてそのような経験をしたことはなく、どうしたと脳裏に疑問が沸き起こった時、蒼い瞳が細められ、少し乾燥しているように見える唇に微かな笑みが浮かび上がる。
それを見た瞬間、蒼い呪縛から解き放たれたように感じ、思わず肩で息をすると小さな笑い声が流れ出す。
「……何か?」
「別に。あんたでもそんな顔をするんだなって思っただけですよ」
怖いから今にも噛み付きそうな顔で見ないでくれと全く恐れていない顔で言い放ち、文字通り睨み付けるウーヴェにびしっと背筋を伸ばす。
「捜査のご協力、ありがとうございました」
Auf Wiedersehenと言い残して踵を返した刑事をただ無言で見送ったウーヴェは、ドアが静かに閉まる音を聞いて暫くの間呆然と立ち尽くしていたが、自分は何か彼に恨まれるようなことをしたのだろうかと思案し、デスクの端に尻を乗せて額を押さえる。
会話とも言えない会話中に感じた憎悪にも似た感情。彼がそれを抱く原因はウーヴェには想像すら出来ない事だが、彼は彼なりの理由で上流階級の人々を嫌悪しているのだろう。
聴取の時に己の父や兄が有名な企業のオーナーであることを知った刑事に父兄の名前で事件を揉み消すことが出来ると思ったのかと問われたが、今の若い刑事の視線と口調はそれを遙かに凌駕する冷たさを含んでいて、思い出すだけで胃の辺りに不愉快な気持ちが芽生えて無意識にデスクの端を握りしめる。
幼い頃から今のような目で見られることは多々あった。
自分は特別なのだと貴族の血を引く友人-とはあまり呼びたくない知人らは高笑いをし鼻先で笑い飛ばしていたが、ウーヴェは己が特別だとは思わなかった。
両親も年の離れた兄と姉も特権階級だという意識を無駄に植え付けることはなく、どちらかと言えば身分に応じて必ずついて回る義務だけは果たすようにと文字通り事あるごとに教えていたほどだった。
それどころかセレブであるが故に命に関わる事件に巻き込まれ、それをきっかけに父と兄との間に深くて広い溝が出来てしまったのだ。
そんな事情も何も知らない、医者で有名企業の一族出身だと言う上辺だけしか知らない他人にあそこまで言われあのような視線に晒される筋合いはなかった。
珍しく悔しさを表情に出して唇を噛み締めた時、デスクの上の電話が外線の着信を教えてくれる。
「バルツァーです」
『……随分と機嫌が悪いようだな』
「!!」
聞こえてきた声に最大限に目を瞠り、耳に宛がった受話器を発作的にフックに叩き付けようとしたウーヴェは、まるでこちらの行動を読んでいるような言葉を聞かされて受話器を握りしめる。
『俺もそう暇ではないから単刀直入に言おう』
「………何か」
出来ることならば今この瞬間にも受話器を叩き付けたいと思うがさすがにそれをするには躊躇いを覚えてしまい、犯人が捕まったそうだなと告げられて無言で瞬きを繰り返す。
ウーヴェ自身がたった今知ったばかりの情報だったが、今この街を離れているはずの兄が一体どうしてそれを知ったのかが気になり、どこで聞いたと固い声で問い返せば今や情報をより多く早く仕入れた者が勝ち残るのだと返されて沈黙する。
『エリーが用意した弁護士が無用になってリンツも胸を撫で下ろしただろうな』
「……俺の知った事じゃない」
『ああ見えてもかなり優秀な弁護士でね、万が一お前に何かあっても無罪に持って行くだけの力量はある』
少しは信用して欲しいなと笑われてターコイズの双眸を瞠ったウーヴェは、言いたい言葉が喉の奥に絡みついて出てこなくなった事に気付き、震える腕を何とか押さえる様に大きく息を吸う。
「話はそれだけだろうか」
色々と忙しいから切ると告げ返事を聞く前に受話器を置こうとしたが、とにかくお前に無用の傷が付かなくて良かったと言われ、幼い己に治ることのない傷を負わせた張本人が何を言うと言い返しそうになって溜息に紛れ込ませる。
『この事件の片が付けば母さんとエリーと食事に行くそうだね。楽しんでおいで』
通話が終わった事を示す音を虚しく聞いていたウーヴェは受話器を落とすように戻した後、思わず込み上げてくる笑いを堪えることが出来ずに肩を揺らしてしまう。
刑事には父や兄は関係ないと言い張り兄が寄越した弁護士もはね除け、実家の名声など関係なく自らの意志で今の道に進んで立っていると胸を張ったが、先ほどの刑事に冷笑され侮蔑されても不思議ではないとの思いに囚われてしまいそうになる。
「……っ!!」
言葉に出すことのない悔しさや苛立ちを拳に込め、磨かれて艶やかに光っているデスクを思いきり殴りつける。
一人で立っていると思っていたのは、もしかすると己だけだったのではないのか。
今までの思いをすべて否定するような感情が胸の奥に沸き上がり、そんな事はない、己が歩いてきた道は自らが切り開いた道だと、きつくきつく閉ざした瞼の下で強く念じるのだった。